笑みの向こうに見えた顔
気づけば十月になっていて、いつの間にか体育祭が始まっていた。
当日だというのにいまいち実感がわかないのは、今までとは違って輪の中心にいないからだろう。怪我のせいで、お付き合い程度にしか参加をしない体育祭では、当事者意識が薄いのもしかたのないことだった。
加えて、ずっと別のことを考えているというのも影響している。
それは言うまでもなくワタルのことで、消え去ったコウコのことだ。
あれから、何度か二人で出かけた。
その度、彼はクールな格好をしてきていて。
いいや、一度は可愛らしい格好もしていたのだが、そこにコウコの香りはなかった。
ただ、普段クール系の格好をしている女の子が、珍しく可愛い格好をしただけ……そういう感想にしかならなかった。
そのことを指摘しようかとも思ったが、また迂闊なことを言って、今度こそ関係が途切れてしまわないかと思うと何も言えなくて、ズルズルと先延ばしにしてしまっている。
「情けないよなぁ……」
男らしくない、と素直に思う。自分はもっと、すっぱりと口にできる人間だと思っていたのに。
ワタルのこととなると、調子が崩れて仕方がない。それが、本当に誰かを好きになるということなのだろう。
「はぁー」
何もかもが初めての経験で、ただただ思考の渦の中で溺れることしかできなくて、ため息ばかりが積み重なっていた。
「とーしや!」
そうしてまた一つ、ため息を吐き出した瞬間に、背後から抱きつかれた。少し汗でべたついた手が目を塞いで、なのに柔らかな優しい匂いがする。
瞬時に誰だかわかった。
「なんだよ、ワタル」
「ちぇっ、即バレか」
「そりゃ、声でわかるし」
まさか匂いでわかったとは言えない。自分でも、少し恥ずかしい。
「今度からは別の誰かが必要かな……」
「そこまでガチられても困るぞ」
ケンスケ辺りはノリノリで協力を申し出そうだから困る。
二人がそこまで仲がいい、と聞いたことはないが、トシヤを驚かせるためならなんでもやるのが彼だ。
「えー。まあいいや、なんか黄昏てたから声掛けてみたの」
「そんな風に見えたか?」
「ガッツリ。どしたの?」
隣に腰を下ろしながらそう訊ねてくるワタルは、まさかその悩みの原因が自分であることを知りもしない。
もちろん、勝手に悩んでいるのはトシヤなのでそれを責めたりする気持ちは微塵もないのだが、なんだか理不尽な気が、少しだけした。
「まあ、なんつーか、みんな楽しそうでいいよなって」
「何そんな……ああ、君は」
適当に発した言葉に何かを察した風なワタルに、首を振る。
そんな深刻そうな表情になるような裏などないのだ。ただ間を埋めるための誤魔化しなのだから。
「いや、たぶんそのせいじゃねーよ。今までと違って気楽だしな」
「そうなの?」
「無駄に足速かったからなぁ。部活じゃまあまあでも、クラスじゃ上の方、なんてよくある話で、アンカーばっかりだったし」
「それは、確かに気楽かもね」
だから問題は別のところにあるのだ。それは、なんとなくワタルにも伝わったのか、唸り声が聞こえた。
「……僕には言えない話?」
おずおずと申し出た彼の顔に、言えたのならどれだけ楽だろうと考える。
だがそれは、あの祭りで想いを告げた勝手さと何も変わりがない。
たぶんきっと、また傷つけるだけだ。そう、あの時よりも、深く。
「まあ、ちょっと、な」
「なら仕方ないね」
ワタルはそう素っ気なく口にしたが、頼ってくれないのかと落ち込んでいるのが手に取るようにわかって、少しだけ自分が嫌になる。
そんなトシヤを置いて、ワタルはニッカリと笑みを浮かべた。
「でも、いつでも頼っていいからね。まあ、あんまりデリケートな話題だと、流石に乗れないけど」
「たとえば?」
「ん? んー、姉さんが好き、とかかな?」
「それはむしろ頼る方じゃねーの?」
「かも」
くすりと笑ってみせたワタルは、やたらと色っぽくて、トシヤは胸が高鳴るのを抑えられなかった。
「でも、僕としては力を貸したくないからさ。身内のどうこうは、ほら、ね」
「ま、そうだわな」
自分だって、妹との仲を取り持って欲しいとワタルに頼まれたら首を横に振るだろう。そういうことは、見えないところでやって欲しいと思う。
身内に生々しさを感じたくはないのだ。生活を共有しているからこそ、そういうものを感じ取りたくない。
「どーしても、っていうなら好物くらいは教えるけどね」
何故だか悔しさをにじませながらの声に、勘違いを踏み出してしまいそうになるトシヤの思考を、校内放送が遮った。
『……次の競技の選手は……』
「あ、次出番だ。行かないと」
次は体育祭の花形であるリレーだ。
ワタルは、足がとても速い。それこそ、怪我していなかった頃の自分でも、追いつけるかどうかわからないくらいに。
「あっ……」
「何?」
さっ、と走り出してしまいそうな彼に声を掛けてしまってから、なんて言おうか考えていないことに気づく。
「えっと、あー……勝ってこいよ」
これが無難だろう、という答えを引っ張り出すと、腹を抱えて笑われた。
「何それ。でも、そんなこと言われたら頑張っちゃおうかな」
そう言ったワタルは、婉然と微笑む。いつか見惚れた笑顔とは違う、背筋の凍りつきそうな笑顔。
「勝ってくるよ。そこならよく見えるでしょ? だからキミのために僕が勝つ瞬間を、しっかりと見ててね」
凄絶な笑みに、トシヤは何も言えずに彼を送り出した。
そしてワタルは宣言通り、リレーで勝利を齎した。
満面の笑みでゴールテープを切る瞬間、トシヤの方へ視線を向けたのは気のせいではないだろう。
……その笑顔は、彼岸花を背に撮ったあの笑顔とほとんど同じもので。
あの女の正体がようやく掴めたような気がした。
***
打ち上げもそこそこに家に帰ったトシヤは、部屋に駆け込むやこの一ヶ月、撮りためた写真を一斉に印刷した。
コルクボードに貼り出されたそれらには、いくつもの笑みを浮かべた射干玉の髪をした美女が写っている。
一度でも目にしたなら、決して忘れはしないだろう美貌の持ち主だ。ありふれた街角を、まるで異世界のように塗り替えてしまうほどの存在感を放っている。
暗暗としていながらも鮮烈なそれは、友人でも二人で作った虚像でもなかった。同じ人物が女装をしているはずなのに、全く違う誰かが立っていた。
一ヶ月前、お前は誰だと問いたかったそれは……。
「お前だったんだな、ワタル」
強烈にトシヤを求めている者。
それは、幼少期から理想化され続けていた女ではなく、今のワタルが作ったもの。
だからはっきりとこちらを見ていたし、トシヤには美女に見える。
だって彼女は恋をしていて、トシヤと両想いなのだから。
「はは……なんだよそれ」
正体がわかってしまえば、どうしてコウコがいなくなったのかもわかる。
ワタルは殺したのだ。告白されて、嫉妬して、お前なんか消えてなくなれと。
それが取り返しのつかないことだと、きっと彼はわかっているだろう。
わかっていて、まだバレてないと思って写真を撮られ続けている。
だがそれは、極めて歪で、危うい行為だ。
だって、トシヤもワタルも求めているのはコウコの写真なのだ。いつかトシヤは気づいてしまうし、いつかワタルは物足りなくなる。
そうなった時、二人の間に訪れるのは破滅だけだ。
お互い求めているものがわかっているのに、共にいる限り、それは手に入らなくなってしまうのだから。
「バカだな……お前は」
だが、そんなワタルを愛おしいと思う。別れたくないと、思う。
だから今は、この事にあと少しだけ気づかなかったふりをしよう。
せめて、ワタルが気づいてしまうまで……それまで、一緒にいるために。




