悍ましき黒
来る二学期初日。
その日は妙に早く起きてしまって、変な胸騒ぎがしていた。
こういう時は何かが起きるものと、過去の経験から学んでいる。
思い当たるのはワタルのことだ。
約束はしたけれど、彼がいなくなってしまわないかと、嫌な予感を抱えたまま、早くに家を出た。
朝の、まだ少し涼しい中、辿り着いた学校は閑散としている。
不気味なくらい静かな校舎を移動して教室に辿り着けば、先客がいた。
肩に掛かるか掛からないかまでの短い栗色の髪の人物……染めたのとは違う色合いの、ふわふわとしていて柔らかいその髪は、トシヤにとって見慣れたものだった。
だが、その背中から受ける印象に、何か違和感があった。
まるで別の誰かが彼の姿を取っているかのような、そんな薄ら寒い感触がある。
「ワタル、か?」
震えた声で問いかければ、くるりと彼は振り向いた。
その顔を見て、また、驚いた。
「ああ、おはよう」
あの夏祭りで別れた時と同じ、コウコとも、ワタルとも言えない顔をしていた。
彼は学校にいる時はキチンと男に見える顔をしていたのに、今は酷く曖昧だ。髪だって短くして、男っぽい声を出しているのに……。
「その髪、どうしたんだよ」
「ん? ああ……さすがに、暑いからね。いいかな、って」
「あんなに伸ばしてたのに……」
「別に。こだわりがあったわけじゃないし」
それは明らかな嘘だった。コウコのために伸ばしていた髪は、しっかりと手入れがされていた。妹のいるトシヤは、あれだけの長さの髪を美しく維持するのに、どれだけの労力が必要なのか、よく知っていた。
あれは、お金も時間も掛けて作り上げられた芸術品なのだ。
それを、ただ暑くなったからという理由で切ったなんて、受け入れられるはずもない。
だが、こうまであからさまな嘘を吐くということは、詮索を拒んでいるということでもある。ならば触れないでおくしかない。
しかし、問題は残る。果たして、この短い髪で、コウコになれるのかということだ。
「……でも、それじゃどうすんだよ」
「ウィッグなり被れば平気でしょ。それに、長髪じゃなきゃ見えないってこともないんじゃない」
実際、今、トシヤの目にはどちらにも見えているのだから、反論が出来ない。
黙り込んだのを肯定ととったのか、ワタルはどこか不満そうに小さく吐息した。
「まあ、お前がいいならいいけど……」
その吐息の理由がわからなくて混乱しながらも、トシヤは引き下がった。余計な言葉は口に出さないと決めたのだ。
「じゃ、この話は終わりで。撮影とかについては、またメールするよ」
「お、おう」
今伝えてくれても……と思ったが、少しずつ教室の外が騒がしくなってきたので、引き下がるしかなかった。
そうして、登校するクラスメイトたちが、トシヤと同じように突然のイメチェンに驚くという光景が、しばらく繰り返された。
けれど、誰も顔までもが変わったことに気づかなくて、トシヤは自分の見間違いなのだろうかと悩む羽目になった。
***
〈来週の土日にやろうと思う〉
そのメールが来たのは、夜もだいぶ遅くなってからだった。少しウトウトしていたので、着信に驚いて、携帯をベッドから落としそうになるくらいだった。
〈オッケー、夏休み中の特訓の成果を見せてやる〉
〈そこまで言うくらいだから、ずいぶんうまくなったんだろう? 楽しみだな〉
〈ご満足いただけるようがんばるよ。んで、どこにしようか? この辺だと、まだ行ってないのはこんな感じかな〉
夏休み中に目星をつけたスポットを列挙して送信する。吟味しているのか、返事には少し時間が掛かった。
〈この溜池なんかいいと思うんだけど、どう?〉
〈いいと思うぞ。確か、そろそろ花のラインナップも変わるだろうしな〉
〈本当にいろいろ調べてたんだね……〉
〈そりゃ、暇だけはあったからな〉
宿題を全部片付けてしまったので、本当にすることがなかったのだ。ぼちぼち友人と遊びに行く以外は、ほとんどカメラを手に出かけていた。
〈じゃあ、僕も期待に答えないとね〉
〈楽しみにしてる。……あ、じゃあ、衣替えとかどうだよ〉
我ながら唐突だとは思ったが、意外といい提案が出来たような気がした。
〈さすがにそれはまだ早くない?〉
〈いや、もうだろ〉
もう九月なのだ。エアコンにも、そろそろお世話にならなくなる時期だし、制服だって、衣替え期間が迫っている。
〈まだそんな涼しくなった感じしないんだけどなぁ〉
〈ファッションは我慢だって誰かが言ってたぞ〉
確かにまだ気温は高いが、ファッションとはそういうものではない。雪国の恐ろしい寒さの中でもスカートを履くように、美しさの前では犠牲になるものは多いのだ。
〈……わかったよ。今度のは秋物ね〉
〈おう。期待してるぞ~〉
欲を言えば長髪が良かったが、短髪のコウコを撮るというのも悪くはないだろう。
にわかにやる気を漲らせ始めたトシヤは、ベッドから起き上がると借りっぱなしのカメラを手に取った。
特訓の成果を見せる。それが、なかったことにされた思いに、報いることのような気がしていた。
***
来る当日。学期明けのテストで、少し気まずい点数を取ったりという波乱があったりはしたが、どうにか予定通りに開催できそうだった。
今日はあいにくの雨で、朝から小雨がちらちらと煩わしい。
出かけられないというほどではないが、どうしても撮影の自由度が下がってしまう。
(まあ、これはこれで雰囲気があっていいかもしれないけど)
一応、カメラにはカバーを掛けてあるから問題はないはずだ。あとはトシヤが思い切れるか、だろう。
「おはよう」
「ん、お……」
どうしたものかと考えながら、初めての時に約束した場所で待っていると、声を掛けられた。
振り向けば、冷ややかな美貌を湛えたワタルがそこにいた。
「あれ、お前……」
「何か変?」
栗色の短い髪を煩わしそうに抑えるワタルは、今日の冷え込みに合わせてか、パーカーにコートまで羽織ってのパンツルックだ。パーカー以外黒というモノトーンのコーデは、妹が流行りだなんだと押し付けてこようとしたものに似ている。
こういう服も着るのか、というのが素直な感想だった。今までの経験上、写真を撮りに行く日は、もっと柔らかな印象の服を着るイメージがあったからだ。
とはいえ、似合っていないというわけでは無い。むしろ、かなりハマっている格好だ。
「いや、似合ってるよ。なんか、イメージが違っただけだ」
「ああ、キミと会う時は髪に合わせてもっと緩いものが多かったからね。それのせいじゃないかな」
どうやら意図してそういう格好を選んでいたようだ。
ふわふわの髪が持つイメージと合わせていたのだろう。なら、髪型を変えればファッションが変わってくるのは当たり前のことだ。
それにしても、元々が細身なのに、黒を着ているせいでより細く見える。
男装風に見えてしまうのは、やはり意図してワタルがそう見せたがっているからなのだろうか。それとも、トシヤの認識が変わってきたのか。
「なんだいじろじろ見て」
さっと身をかばうような動作をするワタルに、トシヤは苦笑しながら答える。
「いや、すまんすまん。女装してくるのかな、と思ってたから。なんか新鮮で、ついな」
「全く……そっちの方が良かったかい?」
「気づかなかったかもしれないから、これでいい」
「そう」
なんだか、ワタルは機嫌が良さそうだ。これなら、今日の撮影はうまくいくかもしれない。
「しかし、それじゃどうするんだ?」
目的地は下見に行った時に探したが、女装をするようなスペースはなかった。その事は伝えてあったはずだが……。
「前も言ったけど、被るだけだから大丈夫だよ。まあ、化粧のひと手間はかけるけど」
「それで変わるもんか?」
「確認済みだから」
今も男装に見えているのだから、化粧をして雰囲気を変えれば、きちんと変わって見えるのかもしれないが……何故だろう。少しだけワタルの態度に違和感があった。
何か、言葉にできない奇妙な雰囲気を纏っているような気がする。嬉しそうなのに、何かが変、というか……。
唸り声をあげそうになったトシヤの腕をワタルが引く。
「とりあえず行こう。雨脚が強くなるかもしれないし」
「あ、ああ、そうだな」
「姉さんに車出してもらってるから、ダメそうならそのまま送って行ってもらうよ」
「お、おう」
二人きりじゃないのか、と思うと同時、当たり前だなとも思う。またいつ余計なことを口走るかもわからないのだから、誰かがいてくれた方が気も緩まないというものだった。
と、思っていたのだが……。
「じゃ、私はその辺ぷらぷらしてるから。好きなだけ撮ってきて」
到着するなりそう告げて、ミハルはどこかへ行ってしまった。
今日、二人が撮影場所に選んだ公園は、大規模な溜池を有する巨大な公園だ。古民家や寺院、花園に地元出身の芸術家の展示までもがあって、同じ公園にいると言っても、ばったり鉢合わせする可能性はかなり低くなる。
ミハルは端から二人を見守るつもりなどなかったのだろう。ワタルは大切な弟なのだろうが、友人同士の諍いに首を突っ込むほど、過保護ではないということだ。
それは、ある意味信用されているということでもある。
少し梯子を外された感じはあるが、やることは変わらない。より自制すればいいだけの話だ。
「じゃ、やるか」
「うん。適当にぶらついて探そう」
ついさっきまで男の顔をしていたワタルは、今では女の顔になっている。真っ黒なウィッグをつけた彼女は、冷ややかな美人という風体だ。
黒は女を美しく見せるだなんて言い回しがあったはずだが、モノトーンの服装とあわせて、目の覚めるような美女に変貌していた。
栗色の地毛の時でも静の美人ではあったが、それがより極まった感じがする。
(まぁ、少しキツすぎな気もするけど……)
だが、これがワタルの望む姿なら、文句を言えるはずもないだろう。
服に合わせたと思しき、モノトーン柄の傘を開いたコウコが少し先を歩く。
今までと同じだ。何も変わることはない。
彼女の纏う雰囲気が、あまりにも暗々としているということを除けば。
その姿に違和感を覚えながらも、これはというタイミングでシャッターを切っていく……。
だが、何かがズレていて、どれも、頷ける出来にはならなかった。
設定が悪いのかと試行錯誤しながらついていくと、ピタリとコウコが足を止めた。
「ここにしよう」
きゅっ、と靴を鳴らして振り返った彼女の背には、疎らに彼岸花が咲いている。真っ赤なそれは雨露に濡れて、少し傾いでいた。
「こんなの植わってたんだな」
「隅っこだから、そこまで売りにはしてないみたいだね」
「まあ、彼岸花はあんまりいいイメージないしな」
花言葉そのものは情熱的な愛を語るものが多いのだが、どうにも不吉なイメージばかりが広まっている。
「でも、一面彼岸花っていうところもあるじゃない?」
「その辺は管理人の好みなんじゃないか。この手のは、自生してるわけじゃないだろうし」
「見世物にするために手を入れてあるしね」
くすり、笑い声を零したコウコが目を細めた。作られた笑顔。綺麗なのに、どこか薄気味悪くて、それが彼岸花の持つ不吉さと絶妙に相まって、背筋が震えた。
――シャツター音が連続して響き渡る。恐ろしい何かに誘い出されるかのように、トシヤは一心不乱に写真を撮っていた。それはほとんど無意識の行動で、確かに感じている恐怖とは乖離した行動だった。
その音を浴びながら、彼女は嬉しそうに傘の角度を変えたりして、トシヤの視線を誘う。
わざとらしく彼岸花に顔を寄せたり、手を伸べたりして……目こそ向けていないものの、撮影者を強く意識していた。演出が過剰すぎた。
それは彼が撮りたかったコウコの姿ではない。いくつもの虚飾を施した、コウコによく似た別人の姿だ。
けれど、出来上がる写真は、唸り声を上げてしまうくらい美しくて。何かを考える必要なんか、ないんじゃないのかと思わされるほどだった。
「なんか、ますます綺麗になったな」
本当に言いたいことを誤魔化しながら、トシヤは撮った写真を見せる。
彼女は、むっ、と眉を顰めて小さな画面に映った自分の姿を確認すると、ほっと胸をなで下ろすような息を吐いた。
――まるで、うまく演技ができていることを確認したかのように。
その反応に、違和感はあった。
だが、それを追及したところでどうなるというのだろう。
問うたところで、トシヤの欲しい答えは、返ってこない気がしていた。
「さ、もっと撮ってよ。他の花とかの方がいい?」
催促の言葉と共に浮かび上がった口だけの笑みは、悍ましい美しさを湛えていた。何もかもを引きずり込むような、そういう危うい魅力があった。
お前は誰だと問いたくて仕方がなかった。
コウコはどこに行ったのだと、訊きたくてたまらなかった。
けれど、それが思いを告げた代償なのかもしれないと考えると、何も言えない。
とりあえず、今考えるのはやめる事にした。
だって美しい姿の写真を撮れなければ、彼は離れていってしまうのだから。
考えるのは、少し先にしていい。




