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ファインダーの向こう側、僕らは恋を間違える  作者: 佐々森渓


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10/15

夏祭りで告げることは

 あれからずっと考え続けて、答えは出ないままだった。

 トシヤの目では、コウコへのものと、ワタルへのものを切り分けることができなかったのだ。

 彼にしてみれば、その二人は同じものなのだから。

 好きだという事実は変わらないのだ。


 そうして明確な答えを出すことができないまま、トシヤはワタルとの付き合いを続けていた。

 毎週のようにどこかへ出かけて、撮影をして、たまには勉強を教えあったりして……。

 そんな風に生活を続けていると、気づけば夏休みになっている。


 待望のはずなのに、いつの間にか来てしまった長期休暇を遊び尽くすために、二人はまた勉強会を開いていた。


「ごめん、ここどうやるんだっけ?」

「教科書の……五章だな。ノートでいうとこの辺の応用」

「ありがと。そっちはわからないことないかな?」

「んあー……この、選択肢がなんでコレになるのかイマイチ」

「ああ。それは、二段落前にこの描写があるから……」


 互いに苦手なところを埋め合うと、宿題があっという間に片付いていく。協力してパズルを解いているようで、楽しくて仕方がなかった。

 そのせいか、外が薄暗くなる頃には、今日だけでは終わらない課題を残して、すべて終了していた。


「久しぶりに本気出したわ……」

「お疲れ様。僕も疲れたよ……」


 二人して仰け反りながら大きく溜息を吐いた。

 書きすぎたせいで、手が痛かった。


「でもまあこれで、遊び放題だな」

「まだ全部終わってないよ? 今日だけじゃ無理なのは、ちゃんと家でやってね」

「そりゃ、当然やるつもりさ。いやー、しかしこう、あんだけあったのを初日に片付けちゃうと気分いいなー」

「まあ、ね。手が痛くなった甲斐はあるかな」


 ぷらぷらと手を揺らしたり、腕を揉んでいた二人は、どちらともなくカレンダーを見た。

 二カ月分が一枚にまとめられたそれには、七月にやり終えた予定がいくつも書き込まれている。

 八月は、まだ真っ白だ。


「来月どうしようか?」

「祭りにでも行くか」

「いいけど、人多くないかな? 人混みはそんなに好きじゃないんだよね」

「俺の知ってるところはそれなりにはいるけど、普通に遠くを見渡せる程度だよ」

「……それはそれで心配になるんだけど。変なジンクスあったりしないよね」

「なかったはずだけど……」


 それどころか、いいご利益があることで有名な神社だったはずだが、不思議とみんないかないのだ。

 近くにもっと有名なものがあるから、そちらに取られているのだろう。

 トシヤ個人としては、祭が落ち着いて楽しめて好きだった。


「ま、撮影しやすいし、いいじゃん?」

「まあねぇ……というか、普通に撮影の話になるんだ」


 ワタルの言葉に、トシヤは浅く笑った。

 あまりにも撮影のために出かけすぎて、出かけるという言葉の意味が変わっていた。


「なんだよ、撮影抜きで行きたかったのか?」

「え?」


 トシヤが問い返すと、ワタルは呆気にとられた顔をしていた。

 まるで、指摘されてその気持ちに気づいたというような、そんな雰囲気だった。


「あ、うーん、まあ、ちょっとはね」

「なら、もう一回行きゃいいんじゃね。別のところ探さなきゃいけないだろうけど」


 取り繕うような声音で答えるワタルに、トシヤは何か引っ掛かりを覚えながらそう提案した。


 幸い、数日に渡って祭りをしている地域はゴロゴロしているし、中には人の少ない地域もあるだろう。少し遠出をする必要はありそうだが、夏休みなのだから問題ないはずだ。

 それに、文句を言われそうな宿題は片付けてあるのだから、男二人がどこへ行こうとも自由だろう。


「じゃあ、まあ……探しておいてくれる?」

「おう。任せろ」

「とりあえずは、来週の、だね?」

「おめかししてくれよ~」

「それはもう可愛らしい姿をお見せするよ」


 ともかくまあ、そうして二回夏祭りに行く予定ができたのだった。


     ***


 薄紅の空の下、遠くから神輿を担ぐ男衆の声と、太鼓の音が聞こえている。

 とはいえそれはすぐ近くの別の祭りのもので、二人が約束をした祭り会場は静かなものだった。


 忙しない世俗から隔離された鎮守の森の中には、独特な甘じょっぱい匂いが漂っている。

 金魚すくいや水風船すくいの店の前では、真剣な表情で獲物に向かう子供たちがいる。時折、ポン菓子の作られるポン!という音が響いて、子供たちが嬉しそうに笑う声が聞こえていた。


 参道の入り口でそれを眺めていたトシヤは、あの空気に早く自分も混ざりたいと、携帯を取り出しては時間を確認していた。

 そろそろ着くと連絡が来てから、もうだいぶ経つような気がしていた。


 何かあったのだろうかと、そわそわしながら待っていると、からんころんと下駄の鳴る音が聞こえる。

 どうせ別の誰かだろうと思いながら顔を上げれば、目の前にいたずら顔を浮かべているコウコがいた。


「……う、うす」

「なんで絶妙なタイミングで気づいちゃうのさ」

「いや、たぶん気づいたのは別の人のだな……たまたまだよ」


 実際、ここまでの距離に来ているのだから、下駄の音を出した相手は別人に決まっている。

 運がいいのか、悪いのか……。


「ちぇっ、驚かせようと思ったのに」

「それは、二重の意味で?」

「まあ、そうなのかな……」

「ったく……」

「えへへ。どう、可愛いでしょー?」


 言いながら、コウコはその場でくるりと回って見せた。


 彼女はグラデーションのかかった紫陽花柄が目を引く、水色の浴衣を身にまとっていた。その長い髪を高いところで一つにまとめていて、絶妙にかかったクセの加減で巻き髪のようになっている。体を動かすと、ひょこひょこと揺らいで可愛らしい。

 手に持った薄桃色の巾着袋は、上品な雰囲気を醸し出すのに成功しているし、足元に目を向ければ、白い肌に映える赤い鼻緒の下駄を履いた足が見えた。その爪には水風船をモチーフにしたペディキュアが施されていて、かなりの気合が窺える。


 如何にも男好きのしそうな雰囲気なのは、ワタル自身の好みで作ったものだからだろう。わかりやすく可愛らしいし、トシヤの好みでもあった。

 特に、うなじの色っぽさには白旗を揚げたい気分だった。


「隣に立てて光栄なくらいだね」


 トシヤのシャツにジーパンという、あまりやる気のない格好では不釣り合いすぎるくらいだった。

 けれど、コウコの方は全く気にしていないのか、上機嫌で乗ってくる。


「ははは、苦しゅうないぞ。ちこうちこう」

「ははー」


 そんなふざけたやり取りをして空気をほぐすと、まずは一枚と軽く写真を撮った。微かに首を傾ける姿は、いいトコのお嬢さんのような趣きがある。


「品があるわぁ」

「もう、やめてよ」


 こういう細かな仕草は最初から上手かったが、最近はその技に磨きがかかっている。カメラを手にしていなければ、思わず見惚れてしまっていただろう。


「でも実際そうなんだから仕方ないだろ」


 カメラをひっくり返して写真を見せれば、おお、という声が聞こえてきた。思っていた以上のものに、素直に驚いてしまったのだろう。


「な?」

「う、うん……これは、仕方ない、かも」


 かぁと顔を赤くしたコウコはやけに嬉しそうだった。

 いつもはここまでのリアクションは取らないので、祭りに行くということで、テンションが上がっているのだろう。


 そんな彼女をたまらなく愛おしく思いながら、カメラを元に戻して、手を差し出す。


「んじゃ、行くか」

「手繋いだら撮れないよ?」

「とりあえずは楽しんでからだろ?」

「……そっか!」


 にっ、と笑った彼女と並んで、トシヤはお祭りへと乗り込んでいった。


 お店の人に冷やかしを受けながらも、二人は一通りの食べ物を腹に収める。やたらとしょっぱかったり、かと思えばうまく味が混ざっていなかったり、ぬるかったりと、文句をつけようと思えばいくらでもできるクオリティばかりだったが、それもまたお祭りの楽しみだろう。


 一通り食べ終えると、だいぶ空が暗くなっている。

 きりきりと虫たちの鳴く声を聞きながら、二人は会場近くに設けられたベンチに腰を下ろした。

 トシヤは結構お腹を満たしていたから手ぶらだが、コウコの方は流れるようにポン菓子やりんご飴を買っていて、しばらく処理に時間がかかりそうだった。


「それにしても……」


 かしゅりと音を立ててりんご飴を齧りながら、ふと思い出した風にコウコが言った。


「……本当に空いてるんだね」

「あんまりデカイ声で言うなよ……?」


 周りを見回せば、設けられたベンチには空きが多い。

 会場から少し遠いというのももちろんあるのだろうが、根本的に客が少ないのだろう。


「ごめんごめん。でも……たしかに、この空気は僕も好きだな」


 ふわり、とコウコの頬が緩んで笑みが浮かんだ。

 今まで撮ってきた写真の中にはない、慈愛に満ちた笑みだ。


 その美しさに、反射的にカメラに手が伸びた。

 それを、意識して止めていた。


 この美しい笑みを、誰かと共有できる形に変えたくはなかった。

 他ならぬワタル自身にすら、この笑みの美しさを教えたくはなかった。


 浅ましい独占欲だ。

 そしてそれが、どこから来ているものなのか、今のトシヤにははっきりとわかっている。


 ワタルは気づいていると、ミハルは言っていた。

 けれどこれは、友人相手に向けるべきではない感情だ。

 だから、口をついて出てしまいそうな言葉を、必死で押し殺していた。抱えているだけならば、きっと、許してくれると思ったから。


 そうして足掻くトシヤを他所に時間は進んでいて、ばん、と軽やかな音を響かせて、にわかに空が明るくなった。


「わぁ……トシヤ、見て見て! 花火だ!」


 ポン菓子をしゃくしゃく食べていたコウコが嬉しそうに叫んだ。

 空に咲いた花火は、決して上等なものではないけれど、誰かと一緒に見るには十分すぎるくらいに美しい。


 けれど、トシヤにとっては、目の前ではしゃぐ相手の方が遥かに美しかった。


 お金持ちなのだから、もっとすごいものだって見たことがあるだろうに、こんなチンケな花火をここまで喜ぶ姿があまりにも愛おしくて。苦しくて。


 ダメだとわかっているのに、拒まれるはずだとわかっているのに……言葉が、口から零れていた。


「好きだ」

「えっ……」


 まるで図ったように、言葉は花火の谷間で放たれていて。

 だから、よくあるラブコメディのように、その音が花火の音に紛れてしまうことはなくて。

 伝わってしまった言葉に、コウコが見る間に顔色を変えた。


 どこか嬉しいような、けれど悲しむような、動揺するような……。

 色々な感情がない交ぜになった表情を彼女は浮かべていた。


「それは、……花火、だよね」


 わかってはいるのだろう。それでも、認めたくなくて、言葉をねじ曲げようとしている。


 トシヤは答えなかった。そういうことにしよう、という提案に乗ることを拒んだ。

 そうしておけば、関係を変えなくて済むとわかっているのに。

 自分の気持ちを否定したくないという浅ましさが、首を振ることを止めていた。


 ばん、ばん、と再開した花火が連続して打ち上がる。その輝きが、彼女の沈んでいく顔色を浮かび上がらせていた。


「……どうして」


 つ、とコウコの頬を涙が伝う。その雫が、まるで化粧を洗い流してしまうかのように、目の前でコウコの顔にワタルの顔が混ざり始めた。


 伝えてしまえば拒まれるはずだとわかっていたから押さえ込んでいたのに、ちょっとした刺激で蓋が外れて、このザマだ。


「……悪い」

「謝るくらいなら、言わないでよ!」


 涙声のワタルの顔は、涙でぐしゃぐしゃだった。


 それを見ていられなくて、目を逸らした。周りの楽しそうな雰囲気が、辛かった。


「でも、うん……わかった。聞かなかったことにするよ。僕はなにも聞かなかったし、君は、言わなかった」


 それでいいよね、と問いかける声は酷く震えていた。


「ああ……」


 この期に及んで答えが聞きたいと言えるだけの覚悟はなかった。譫言のような言葉だけを返して、トシヤはなかったことにした。


 楽しい雰囲気は、もうどこにもなかった。


「じゃあ……僕は、帰るよ。少し、早いけど、ごめん。ちょっと、こんな気分じゃ楽しめないから」

「送っていかなくて、平気か」


 立ち上がったワタルにそう言葉をかければ、曖昧な表情で首を振られた。


「大丈夫だよ。ありがとう。だけど、うん、一つだけ……二回目のお祭りは、なかったことにして」

「……そか。そうだな」


 こんなことを伝えてくる相手と出かけられるはずもない。身の危険を感じるのは、当たり前のことだ。


 そう、考えたのだが……。


「別にキミが怖いとかじゃないんだ。ただ、少し、少しだけ……遊べるような気分じゃ、なくなっちゃったんだ」


 それはどういう意味なのだろう。問いかけるよりも早く、ワタルは身を翻して去っていってしまった。


 追いつこうと思えば簡単だろう。彼の足は早いけれど、こちらは靴で、向こうは履き慣れない下駄だ。出せる速度が違う。

 けれど、ワタルが距離を取りたがったように、トシヤにも、気持ちを整理するだけの時間が必要だった。


 楽しそうな祭囃子は、まだ終わりそうにない。


     ***


 どうして堪えられなかったのだろう。そのことをずっと考えながら歩いていた。


 周りには、祭りから帰る楽しそうな家族連れやカップルばかりが充満している。

 その中で、相手に逃げられた自分はとてつもなく惨めだと、トシヤの心を深く沈ませていく。


 あの時、ワタルの差し出した助け舟に乗っていれば、また違ったのだろうか。自分は、愉快な気分で家に帰れたのだろうか。


 答えの出ない問いをぐるぐると追いかけたまま、気付けば家にたどり着いていた。玄関を開けるや、ちょうどお手洗いに出てきていたのか、ラフな格好をした妹と遭遇した。


「なにその辛気臭い空気。フられたの?」


 上から、下まで。一瞥してため息をついた彼女が、ぐさりと言葉を突き刺してくる。


「喧嘩しただけ」

「ふーん……どっちでもいいけど、ちゃんと修復しておかないと、休み明けから辛いよ」


 それは痛々しい空気のまま関係が終わるということだ。

 実際そうなる可能性は大きかったし、考えてもいた。


 けれど、それを他人に言われるのは我慢出来なかった。


「んなことわかってんだよ!」


 自分でも、驚くくらい激しい怒声だった。今まで、一度だってしたことのない八つ当たりを、まさかこんな形でするとは思わなかった。

 何事も、起きてしまったことは仕方のないことで、どうしようもないと受け入れ続けていたはずなのに。


「へぇ、本気なんだね、お兄」

「はぁ?」


 普段なら、当たり散らしたことへの反論をしてきそうな妹は、どこか優しい顔をしていた。

 その反応が理解できなくて、バカみたいな声をこぼしてしまう。


「だって、今まで彼女に捨てられてもなんの反応もしたことないじゃん。それって、そういうことでしょ」

「それは……」


 向こうから告白してきたから、とか色々と言い訳をすることはできる。

 だが、別れ際にどんなことを言われても動じなかったのは、妹の言うように本気ではなかったのだろう。


 それが、ワタル相手では違った。

 こんなにも心が苦しくて、どうしていいのかわからない。


「だったら、頑張らなきゃ。まだ芽はある、って思ってるんでしょ。そういうフられかたしたんでしょ。なら、みっともなく縋り付いてみたら? 案外、弱いもんだよ、そーいうのに」

「やけにアドバイスしてくれるな」

「そりゃ、お兄とその人が長く続いたほうがお小遣いが増えますから」

「こいつ……」


 実際その通りなのだが、どこか、わざとらしさを感じる発言だった。彼女なりに、慰めようとしてくれているのだろうか。


「ま、頑張ってねぇ~」


 ひらひらと手を振った妹は、そのままリビングへと戻っていった。


「頑張るったってな」


 そう言われても、どうすればいいのかわからなかった。

 だが、それを考えるのが大切なのだろうし、頑張るということのような気がした。


 それから風呂や夕食をすませると、部屋のベッドに深々と腰を下ろした。

 やらなくては……と思うのだが、片手に携帯を持ったまま、固まってしまう。


 ワタルからは、とうの昔に家に帰り着いたという連絡が来ている。電話を掛けても、まだ帰り途中だなんてことにはならない。


 だから今は、彼が寝てしまうことの方が問題だった。日を跨いだ方が冷静になれるかもしれないと思うけれど、こういうことは、できるだけ早く済ませるべきだと思っていた。

 けれど、迂闊なことを言えば傷を深くするような気がして、電話に踏み切れなかった。


 ワタルが逃げ出したのは、ただ告白したからというだけではないような気がしていたからだ。


 あの、言葉を伝えた後に、ほんの一瞬だけ浮かんだ喜びの顔が浮かんでくる。


 花火のことだと勘違いしたにしては、おかしな顔だった。だって、そうだとしたら悲しむ理由がない。

 逆に、気持ち悪いと感じたのなら、喜ぶ理由がない。


 ワタルはたしかに、好きという言葉の意味を理解したはずだ。

 けれど、すぐにそれが違う何かだと勘違いした。


 喜びが悲しみに変わるような……それは。


「……別の誰かに、されたと思った?」


 なら……彼は、誰に告白したと思ったのか。

 そんなもの、一人しかいない。


「まさか……」


 拗らせるよ、という言葉が呪いのように頭の中に響き渡った。

 それがトシヤだけに向けられた言葉ではなかったことを思い出す。


「ああ、そうか。それなら、俺のことが怖いだとか、そういうのは違うよな」


 都合のいいものでしかないが、それが、一番しっくりくる解釈のような気がした。


「……でも、それなら誤解を解かないと」


 電話をかけようとして、指が止まった。


 あの言葉はなかったことにされたのに、何を弁解すればいいのだろう。


 いいや、それでも、何か伝えられることがあるはずだ。


 自分はしっかりと、お前のことが好きなのだと伝えられるような何かが……。


「出たとこ勝負、だな」


 上手くできるかはわからない。けれど、やらないよりはマシなはずだ。

 押し付けがましい思考だとわかってはいる。だが、それでも、と。


 連絡先から呼び出した番号にコールすれば、数回の音の後に通話が繋がった。


 ウダウダと考えていたせいで、十二時近くになってしまっていたが、まだ起きていたようだ。


『もしもし?』


 電話向こうのワタルは、少しくたびれた雰囲気だった。息が上がっているように思えるのは、気のせいなのだろうか。

 もしかすると、寝る前の柔軟か何かの最中だったのかもしれない。


『どうしたの、こんな時間に』

「いや、その、なんつーか……結局、送って行けなかったし、大丈夫だったかなって」


 浅い笑いが電話口から聞こえた。


『ちゃんとメールしたじゃん。むしろ連絡くれなかったのはキミの方だけど?』

「ああ、そうだな。す、すまん」


 そういうことが言いたかったのではなかったが、どうも上手く言葉が出てこない。

 だが、なんとなくは伝わったのだろう。ふっと小さな吐息が聞こえて優しい声が返ってくる。


『いいよ、別に。……もしかして、それだけ?』

「あ、いや。それだけというか、いや、それだけではないんだが」

『本当にどうしたの。おかしいよ?』


 どちらかといえば、あんなことがあったのに、なんの動揺も見えないワタルの方がおかしかった。


 ふとそのことに気がつくと、向こうも無理をしているんじゃないかと、少し冷静になれた。


『トシヤ?』


 おーい、と問いかけてくるワタルに、一度息を整えてから謝罪する。


「今日は、すまん。最後まで、楽しい祭にできなかった」

『……それは、別に』

「気にしてなくても、言いたいんだ。調子に乗りすぎたの、本当に悪いと思ってるんだ」

『そういう謝り方は、ずるいと思うよ』

「そうだな。悪い。でも、言わなきゃダメだと思ったんだ」

『勝手だね』

「わかってるよ。でも言わなきゃ、終わっちまうような気がしてたんだ」

『打ち切られるって?』

「ああ。怖いんだよ。お前を撮れなくなるのが……いや、違うな。お前と、お前とだ。お前と話せなくなるのが、怖い」


 自分でも、何を言っているのだろうという気持ちがあった。けれど、吐き出せてすっきりしたような気もしていた。

 相手のことなんて考えていない、押し付けがましいものだ。それでも、ワタルには何かが響いたようだった。


 調子が少し上がった声で、彼は返してくる。


『気にしすぎだよ。ちょっとしたことがあっただけじゃないか』

「ワタル……」


 あれは決して、ちょっとに収まることなんかではない。

 だが、そういうことにすると決まったのなら、何も言えない。


『大丈夫だよ。絶縁なんかしないし、夏休みが明けたら、また写真撮りに行こうよ』

「明けたら、なんだな」

『すぐにしたら、君はまた調子に乗るでしょ?』

「それも、そうだな」


 反省の期間を置かないとダメだろうということだ。

 実際、これくらいなら耐えられる範疇だ。


『だから気にしないで。気にするなら、合わない間に上手くなっておいてよ』

「お、おう」

『楽しみにしてる。じゃ、そろそろ寝るから。切るよ?』

「ん、あっ。お、おやすみ」

『うん、おやすみ』


 ぷつりと、通話が切れた。


 果たして、上手く伝えられたのだろうか、なんだか、一方的に吐き出したのを、上手くいなされたというような気にしかならなかった。


「大人、だなぁ」


 悔しいくらい自分が子供で嫌になる。

 けれど、これで繋がったのなら、良かったような気がする。


「練習しないとな」


 そう約束したのだから、夏休み明けに失望されないように頑張らないといけない。

 だから今日はもう寝よう。たくさん練習するために、しっかりと休まなくては……。


 それから毎日、バカみたいに写真を撮った。そのせいで日焼けに苦しみながらも、充実した毎日だった。

 ワタルとはメールだけの会話を続けて、本当に何もなかったみたいな付き合いを続けていた。どこを探しても妙な空気はなくて、告白したのが嘘のようだった。


 変わらない関係がそこにはあった。トシヤの望んだ、けれど、叶うはずのない見せかけの関係がそこにはあった。


 そんな偽りの空気の中、二学期が、始まる。

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