表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/7

菅原 恵


 妹が事故にあった翌日、父も母も居ない暗い部屋で、なにをするでもなく、一人途方にくれていた。

たった、たった一瞬の出来事で、大切な存在が目の前から居なくなるかもしれない。そんな不条理に耐えられず。

膝から崩れる様にして床に手をつき、握り込んだ拳が頼りなく、そんな自分自身に無性に腹が立ってしかたがない。腕を掴んで握った拳を引き込み抱えるも、やるせなさは消えることはなく、腕をつかむ手に力が入る。

吐く息は喉が震えて、嗚咽が零れた。


(雛がいたからこそ、立っていられたのに、俺から、雛さえも奪おうと、するのか?もう、ムリだ、もうムリだ…。)


 暗闇で独り、床に踞り祈る様に拳を握って唸るように泣いていた俺の耳に、外から猫の鳴き声が聴こえた。

誘われる様にフラフラとしながら家の玄関を開け。外の様子を確認すると、すぐそこにいたのは子猫だった。

白いふわふわの毛のわりにスラリとした猫。

その猫は誰もいない場所に向かって、尻尾を真っ直ぐ伸ばし、姿勢を低くして今にも何かに飛び付く前の緊張感まで醸しておいて、その癖、猫が獲物と捉えた場所はただ、空のみだった。

 俺はその猫に近づこうと踏み出す、すると猫は直ぐ俺に気付き俺と向き合う形になった。そこで足を止め、手を伸ばせば届くギリギリの場所でしゃがみこんだ俺は、警戒されないように、静かに声をかけて。猫にも分かる様にゆっくり手を伸ばし、触れる。

猫はそのまん丸な瞳で、ただ、じっと此方を見たまま動かない。さっきまで家の前で鳴いていた猫とは思えない大人しさで、つい、手を伸ばして自分の目の高さまで持ち上げてしまった。だが、ここでも猫は動かない、ここまで大人しいと誰か飼い主がいるのではないかと疑いたくなるのだが、首輪らしきものは見当たらない。

いつまでも持ち上げたままだと辛いだろうと、猫を抱き抱え、覗きこみながら、“どこから来たんだ?”と聞けば、今まで大人しいを通り越して人形の様にされるがままだった猫が腕の中で勢い良く肩にしがみついて鳴き出した。最初は吃驚したが、まるで、人の言葉が分かるかの様な人間味のある不思議な猫が可笑しく。それが、渇いた心に自然と入りこんで笑みがこぼれた。

家に招き入れた猫は大人しく俺の後をついてきて、まさしく借りてきた猫のように台所まで来た俺の足下にちょこんと座って此方を見上げている。

 やはりお腹を空かしていたのだろうか、と思い、キャットフードを皿に載せ、子猫の前へと置いた。

猫は目の前に置かれた餌と俺を交互に見て、それから餌の方をジッと見つめる。食べることを悩んでいる。と、いった感じに映るその姿に、なんとなく利口な犬がやる待ての状態と重なって見え。笑いをかみ殺し、「食べて良いんだぞ」と、声を掛けてやれば、恐る恐るキャットフードを食べはじめる。本当に人の言葉が分かるみたいだ。

 それが可笑しくて堪らず鼻で笑って仕舞う。すると食べるのを中断した猫と目が合った。フッと力が抜けたような気がする。しゃがんで猫の頭を軽く一撫でして続きを促し、台所の奥に戻り。自分が飲むぶんのお茶を用意するために、ケルトでお湯を沸かしている間に、お茶や珈琲豆の保管されている引き出しを開け、何を淹れるか思案する。

珈琲は数少ない父の趣味で、拘りが強く、いつも「ミネルヴァ」の珈琲を定期購入している。可愛がっていた雛にあんなことがあり、フラストレーションの溜まっている今、勝手に父の物を消費して終うと父の癒しである物を奪う事になるだろう。ただでさえ父は雛を猫可愛がりしていて目に入れても痛くないと公言しないまでも、可愛がり様はそれであった。父の精神的ダメージを考えるとやはりここはお茶がいいだろう、少し香りのある物が良いなと、蓮茶の入った茶筒を取りだし、ポットに蓮茶を一匙入れ沸いたお湯をポットに注ぎ入れ葉が開くのを待つ。

噛み締める様に目を瞑り、一息ついて、目を開ける。


「…はぁ」


 目の前には準備したカップが2つ。


 いつも、自分の分と雛の分のお茶を準備していたため、習慣で準備して仕舞ったのだ。カップを棚に戻し、リビングに目を向けると、白い猫がニャーニャーと鳴いている。不思議に思いながら、お茶をコップに入れ、リビングにもどる。

初めての家に戸惑っているのかと、安心させるために猫を引き寄せ、ゆっくりと撫で続けた。暫くすると猫は鳴きつかれたのか、寝てしまった。

そんな猫を起こさない様に静に撫で続けながら、哀しさで縮こまっていた心と体が少しだけ解れた様な気がするのは気のせいではないだろう。

いつも、一緒にいることが自然すぎて、雛が傍らにいない事があまりにも、心許ない。そう、思うのはきっと、自分だけではなく、母や父も同じなのだろう。

 でも、それでも、つらいことに変わりはなく。

辛さを紛らわすために、静かに眠る猫の柔らかな毛を撫でる。

日向の様な優しい感触が掌をつたい。

張りつめた心を息を落ち着かせてくれる。

きっと、父は猫を連れて来たことを知れば、怒るだろう。それでも俺が猫を迎え入れたのは、辛さを紛らわすためだろうか?それとも、何も救えない弱い自分を誤魔化すためだろうか?

いつだって、何も出来ないことを恐れ。必死に、出来ることを探した。それが、か弱い生き物を庇護することだった。愛したのは愛されたかったから。生きて欲しいと願っても、それが叶わないことを知っても、できなかったことを恐れ、後悔するのを恐れ。できうることをした。それでも、結局後悔ばかりが頭をよぎり、次の拠り所を探す。


 本当に、自分自身どうしようもない性分だと思う。

けれど、何かに、俺の“生きて欲しい”という願いを許して欲しかったのだ。その希望だけが、自分を救ってくれると。

そう、信じていたからこそ俺は不毛にも、自分自身の願いを押しつける命を探し続けた。自分よがりなことは百も承知で。それでも、そうせずにはいられなかった。そうやって無理やりにでも、次を探し続けなければ、立ち止まった拍子に転んで、次に進むことが出来なくなるのが恐かったんだ。恐くてどうしようもなかったんだ。

救われない自分を観るのがおそろしかったんだ…。




 静かなリビングで、猫を撫でていると玄関の方で扉の開く音がする。暫くすると母が顔をだし。


「ただいま。今から夕御飯のしたくするからもう少し待っててね?」と、いつも通り御飯の支度をするために、台所へ向かう母を呼び止める。

「お帰りなさい、母さん。あのさ、今日、家の前に猫がいて、連れて来ちゃったんだ。」

「あら…雅一(まさかず)さんにはもう話してあるの?」

「いいや、まだだよ」

「それは困ったわね。いったら雅一さん怒るわよ?恵君。その子、外に返すつもりがないのなら覚悟した方がいい」

「ん、わかってる…。」


「そうよね」と最後に母はいって奥の台所へと向かった。

案の定、しばらくすると父、雅一(まさかず)が帰宅し、リビングに居る猫を見つけるやいなや、声を荒げて恵を呼びつける。


「恵!お前はまたそうやって何でもかんでも拾ってきて!

お前だって分かっているだろう?!雛があんなことになって、そんなときにっ!もう、生き物を拾ってきて、少しは情緒をもって、母さんや父さんにきをつかえないのか?」


 “なぁ、どうしてだ?”と、困惑と哀しげな表情で問うている。

父の表情を目の前にして、最初言おうとしていた言葉を恵は呑み込み、視線をさ迷わせた。でも、何か言わなければ本当に居場所のない猫を外に出さなければならなくなると恵は父に取りすがった。


「っ、でも、父さん、アイツ家の前でずっと鳴いていたんだよ、ほっとけないじゃないか」


 しりすぼみに発せられた言葉を後押しするように、突然起き上がった猫が勢いよく恵の前まで鳴きながら駆けてくると。雅一に向かって“ヴー”と喉をならす。

「はぁ、全く、…その猫もお前の味方のようだな…」


 毒気を抜かれた父はそう言って、自室へと戻って行く背中を見送ったところで、母さんが取りなすために声をかける。


「恵君、お父さんも解っているのよ、ただ、タイミングが悪かっただけなの。だから、その子も追い出したりはしないは

さ、御飯の仕度手伝って頂戴」


 最後に明るくそう仕切り直す母に、「うん」とだけ呟いて、母の指示のもと食器の準備をした。その後の夕食は気まずい雰囲気で、ずっと黙ったままの父に痺れをきらした母が「いつまでへそを曲げているつもりなの?雅一さん?連れて来ちゃったものは仕方ないでょう?それに、雛だったらむしろ喜ぶはずよ。」


 「いつも通りの兄さんだって。」


 そう、優しく微笑む母に、俺と父は驚いた。一番きがきではないはずの母が、誰よりも俺達家族を見てくれていて。そして、申し訳ない気持ちになった。それは、父もそうだった様で「…そうだな」と一言口にすると。少しだけ、いつも通りの雰囲気を取り戻した様な気がしてくる。



 猫を追い出すこともなくすみ。次の日から雛の様態は変わらず、目覚めるかも分からない。病院側で出来るだけの処置はしたということもあり。母以外の父と俺はそれぞれ仕事と学校に行く事にきまった。「もし、何かあれば直ぐ呼び出しがあるから、そのときは宜しくお願いね」と言う母に父と俺は神妙に頷いたのは言うまでもない。

学校に登校して、クラスメイトたちがみんな妹の事を心配してくれたが、俺は何と言えばいいか分からず「皆、心配してくれて、ありがとう。」としか言えなかった。きっと大丈夫。だとか、すぐもどってくるよ。とか、そんな言葉さえ言えないでいる。

誤魔化すための笑顔で何とかやり過ごして。こんなにも普段通りに過ごす事が難しいだなんて、思いもしなかった。止めてくれ、そんな心配そうな顔でこちらを見ないでくれ。大丈夫だと言いたいし、大丈夫だと思いたいのに…。

『いつも通りに』と思うほど、どうすれば良いか分からなくなって。昼休み、逃げるように教室を出た。

 いつもなら昼休みは、傍らには妹の雛が座り。校舎をボンヤリと眺めながら二人で弁当をつついているはずのこの時間。


 雛がいない今、俺は、どうすればいい?いつも通りにと思うのに、雛がいない今、いつも通りになんてムリじゃないか。

なら、どうすればいい?どうすれば家族や友達を心配させないように振る舞えるんだ?

膝を抱えて座る俺の側に、家にいるはずの猫がやって来ていて。俺は驚いたけれど気遣わし気に乗せられた前足が柔らかくてほっとした。


「っ、ありがとう。おまえ、おれのこと、っ、励ましてくれるのか?」


「ニャーッ」と透かさず返され、気分が少しだけ浮上した。それでも、まだ足りなくて、猫を抱き寄せ。暖かい毛に顔を埋めると。泣きたくなるくらい柔らかくて暖かくて、ドクッ、ドクッと、小さな命の音がする。

「ごめんな、ちょっとだけ、許して。」と猫に分かるかなんてわからないけれど、声をかけて、落ち着くまでしばらくそのままでいた。

なんとか落ち着いた俺は、猫を抱え、教室に向かい。荷物をとって学校を出た。初めての無断欠席ではあるけれど、不思議と罪悪感はなかった。次に向かったのは雛の眠る病院。

個室の扉を開け雛が眠るベットの脇へと近づく。病室の中に母はいなかったが、きっとすぐ戻ってくるのだろう。呼吸器に繋がれた痛々しい雛の姿に、息が詰まる。

 どうして、雛なんだ。どうして、俺はいつも見ている事しかできないんだ。大切な人には生きていて欲しい。でも、それと同じだけ苦しんで欲しくない。苦しんで、苦しんで死んでしまうくらいなら、苦しまないうちに逝って欲しい…。

静かな病室で、呼吸器の電子音と空気を送るポンプの音、それから、微かに雛の呼吸をする音が聞こえる。雛に繋がれたケーブルを全て取り去ってしまったなら、雛は苦しまずに、逝くことができるだろうか?そんな考えが頭をよぎったとき、鞄の中に隠して連れて来た猫が、いつの間にか鞄から出て鳴き出していた。俺はケーブルに伸びていた手を慌てて引っ込め。看護婦さんが気づく前に猫を大人しくさせようと、猫を宥めようとしたが、直ぐに猫は鳴き止み。動かなくなった。人で言うところの立ち尽くすとか、茫然自失に近い。不思議に思ったけれど、これ幸いと猫をまた鞄に入れて病室を後にした。途中、病院内で母さんと出くわして驚かせはしたが、仕方ないかと、許してくれた。


 家に帰って、急いで自分の部屋に入った俺は、ドアに鍵をかけ、ドアを背にして座り込んだ。あのとき、自分のしようとしたことが信じられなかった。震える手が全てを物語っている。もし、あのとき、あの猫が鳴きださなければ、確実に雛に繋がれたケーブルを抜いていた。


「…はははははっ、何でだよっ、なんでっ、こんなっ、くそっ」



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ