幕間
脇息にもたれ、イツキは絵巻物をめくっていた。巻物の中には、権力争いに負けた親王が島流しにされ、怒りのあまり大天狗となって宮中を襲う場面が描かれている。先日読んだ絵巻には、都から地方に左遷された官吏が雷神となってやはり宮中を荒らしまわる物語が描かれていた。
(私にもそのくらいの気概が必要かな)
おどろおどろしい大天狗の絵を眺めながらイツキは苦笑した。世に生を受け、宮中で過ごすようになって早十五年。今上帝を父にもちながらも生母の身分の卑しさにより、イツキは親王にあるまじき不遇を受けていた。宮中の片隅にあつらえられた宮へ母子共に追いやられ、心労のあまり母は数年前に他界した。イツキ自身も日常的に蔑みや侮蔑の視線を向けられている。しかし、無論嬉しくはないし哀しくはあるものの、かと言って別段憤りが湧いてくることはなかった。諦観とも違う。怒りや憎しみといった負の感情が欠落してしまったかのように、イツキの心は常に凪いでいた。
(どうも私は足りない人間なのかな)
そんなことを考えながら腕を組んでいると、御簾の向こうから「親王様」という素っ気ない従者の声がした。
「皇太子様がお見えです」
「またですか?」
イツキは片眉を上げた。「お通ししてください」と答えれば、音もなく従者が去っていく。入れ替わりに来意を告げる少年の声が御簾越しに上がった。どうぞと促せば、藤色の直衣を身にまとったヒルミが御簾をくぐって室内へ入ってきた。
「ご機嫌よう、兄上」
くだけた調子でそう言うと、すすめられてもいないのにヒルミは勝手にイツキの正面に腰を下ろした。イツキは苦笑する。
彼は腹違いの弟だ。母は皇后、父は今上帝、祖父に関白をもつ、将来の権力を約束された皇太子である。イツキとは別世界の人間だ。しかし多くの身内がイツキを煙たがる一方で、この年の近い弟はなにかと兄の宮を訪れては無駄話をしに来るのである。
「今日もおしゃべりですか、ヒルミ。また皇后様に叱られますよ」
円座を寄越しつつ一応苦言を呈してやると、ヒルミは肩をすくめてみせた。
「勝手に喚かせておけばいい。兄上以外にいい話し相手がいないのです」
「弟君なら大勢おられるではないですか」
後宮には帝の側室が何人も控えており、子も多い。しかしヒルミは幼い柳眉をひそめて言い放った。
「みんなどん臭くてつまらない。兄上と話すのが一番有意義です」
イツキはますます苦笑を深めた。幼さゆえか、生来の性質ゆえか……次期天皇に間違いない身分であるのに、この弟は自由すぎていけない。
ふと、ヒルミが床に広げられた絵巻物に視線をとめた。怒り狂う大天狗の絵を興味深そうに眺めている。そしてちらりとイツキを見やった。
「兄上、天狗にでもなるおつもりですか?」
イツキは呆けた。が、ぷっと吹き出して「そんなはずないでしょう」と否定する。
「では雷神ですか。この前はそんな絵巻を見ていたでしょう」
「よく覚えていますね」
「兄上は都に復讐したいんですか?」
まじまじとヒルミが見つめてくる。イツキはとうとう声を上げて笑った。「相変わらず突拍子もないことばかり言って」と笑い混じりに窘めるが、ヒルミは笑わなかった。「違うんですか?」と探るようにイツキを見る。
「生まれた順番で優劣が決まるなんて、馬鹿馬鹿しいとは思いませんか。しかも本当なら、その馬鹿馬鹿しい決まりのおかげで兄上は皇太子になれるはずだったのに、母が高貴の出でないというだけで問答無用で出世から外されたんですよ」
幼い皇子は大人びた表情で言葉を続ける。その顔は次第に険しくなっていった。
「悔しくないんですか。腹が立つでしょう。私は、やっと兄上がやる気になって鬼神になろうとしたんだと思って、喜んだんですが」
イツキは穏やかな顔で弟を見つめた。笑みを佩いたままふぅと肩をすくめる。
「それが定めなんでしょう……私が今の境遇に置かれているには、きっと理由があるはずです」
「理由って、どんな?」
「さぁ。それはわかりません」
「天の思し召しとかいうやつですか?」
「そんなところかな」
「兄上は意気地がないですね」
落胆したようにヒルミがため息をついた。
「私は定めなんか信じません。だから兄上が鬼神になるときは応援しますよ」
彼が冗談なのか本気なのか判別がつかなかったが、イツキは笑ってうなずいた。
「それはありがたいですね」
「だから私のことはやっつけないでおいてください」
イツキは破顔した。「ええ、気を付けます」と応じれば、ヒルミは気がすんだのかすっくと腰を上げた。
「そういえば、来月は兄上の元服の儀でしょう」
「ええ、そうでしたね」
言われてイツキも他人事のように思い出した。本来皇族の元服ともなれば盛大に祝われるものだが、自分のことなど誰も言祝ぎたくはないだろう。気が付かぬままに、いつの間にか架空の宴でも執り行われるに違いない。
ヒルミがイツキを見下ろした。
「父上に頼んで、贈り物をしてもらうように手配します。兄上は暇でしょうから、絵巻物を何点かお贈りしますよ」
「それはどうも」
イツキは微笑んだ。確かに今の自分にとっては一番ありがたい贈り物かもしれない。彼が一体どんな内容の絵巻を自分に贈るのか楽しみでもあった。
それでは、とヒルミが退出しようとするので、イツキは「外まで送りましょう」と立ち上がった。本来親王自らがすることではないが、弟が来たときはいつもイツキはそうしていた。ヒルミも気にした風もなく、当たり前のように兄の見送りを受けた。
ヒルミを見送ると、イツキはそのまま中庭をぷらぷらと徘徊した。こんな境遇であっても庭の草木は最低限の手入れがなされてある。ありがたいことだとイツキは思う。
(私の世話をいくらしたって、栄達には繋がらぬというのに)
貴人に仕える使用人は、主人が出世すれば彼らもまた恩恵を受けることが出来る。そういった将来の安寧が約束されているからこそ、下々の者は身を粉にして仕えるのだ。しかしイツキに仕える者たちにはその旨味がない。まったく貧乏くじな役目だろう。
建物に沿って庭を歩き、裏手へと回った。この辺りには厨房への入口があるはずだ。そろそろ夕餉が近い。ついでだから自分で膳を持っていくか……そんなことを考えながら歩いていると。
ふと囃し立てる声が聞こえた。声の出所は勝手口のほうだ。イツキは首を傾げつつ足早に声のほうへ向かった。
「あれは……」
イツキは足を止めた。勝手口の前で数人の少女が輪になっている。まだ年端もいかぬ、幼い子どもたちだ。彼女らは輪の中心に囲った人物に向かって口々に悪口を連ねていた。
「やーい、親ナシ子!」
「捨てられっ子はわるい子だ!」
「どっかいっちゃえ!」
イツキは静かに少女たちの輪に近づいた。沓が地面にこすれ、わずかな音を立てる。囃し立てていた少女のひとりが振り返った。イツキの顔を見ると、怯えたように目を見開く。その怯えが隣の少女へと次々に伝線し、一瞬硬直した後、蜘蛛の子を散らすように彼女たちは逃げていった。
あとに残されたのは、たったひとりの少女。全身ずぶ濡れだった。足元には空の桶が転がっている。水を掛けられたらしい。
イツキは彼女のそばまで歩み寄り、跪いた。濡れた顔を袖で拭ってやると、驚いたように少女がイツキを見た。大きな瞳は頼りなげに揺れ、今にも泣きだしてしまいそうだった。
「あ、あの……袖が」
浅葱色の袖が濡れて濃い藍色に染まっていくのを見て、少女がうろたえた。困ったように袖とイツキの顔を交互に眺めているので、イツキは軽く笑った。
「あなたの、名前は?」
少女は戸惑いながらも、小さな声で「ハルヤ」と答えた。イツキは彼女の名を呼びながら頭を撫でた。
「ハルヤ。私の室においで。湯浴みをさせてあげよう。そのままでは風邪を引くよ」
幼い頬が、ぽうっと薄紅色に染まった。イツキは夢心地になってしまった少女の小さな手を引いて、自身の室へと導いてやった。
まさか彼女の胸に甚大なる憧憬の念を抱かせていようとは、つゆ知らず。
***
隙間風に煽られ、燭台の炎が歪に揺れる。夜の掘っ立て小屋は暗く沈み、燭台の灯りだけが頼りだ。いびきをかいて寝こける男たちをしり目に、イワギは数人の手下たちと酒を呑んでいた。壁には炎に照らされた破落戸たちの影が、まるで魔物のように揺らめいている。
「大将!」
ヤマがうろたえた様子で外から入ってきた。目線だけでイワギが促せば、ヤマは小さな体躯を更に縮めて外を指差した。
「ちょっと来てやってくださいよ、仲間がうるせぇ餓鬼を拾ってきちまって……」
「餓鬼だぁ? 女か?」
「いや、男で」
イワギはあからさまに顔をしかめた。女ならばともかく、子どもの男になど用はない。しかしどうしても頼むと請われ、イワギは渋々腰を上げた。
月明かりの下、数人の破落戸に囲まれながらも憤然と立っている少年がいた。年の頃は十五、六といったところか。ヤマがこそこそとイワギのそばに寄り、説明を加える。
「こいつ、俺たちの狩り場で貴族の野郎に殴りかかってたんでさ。馬鹿みてぇに騒ぎになってたもんだから、とりあえず引っつれてきたんでして」
イワギたちはスリや盗みを働く縄張りをもっている。穏便に狩りを済ませたいゆえ、そこではなるべくなら目立った騒動は避けたい。貴族に警戒されれば衛士の数が増やされてしまうからだ。
少年は周囲の破落戸どもを睨みつけている。不利な立場に置かれているというのに、怯えた様子はまったく窺えない。
「見ねぇツラだな、餓鬼」
少年を見下ろしつつイワギは話しかけた。ザンバラの若い黒髪は月明かりの下で濡れたように艶を帯びている。まだどことなくあどけなさの残る顔立ちながらも、彼は目をぎらつかせてイワギを見上げた。
「俺たちのシマ勝手に荒らされちゃ、困るんだよ」
「……知るかよ、どうせ盗賊かなんかだろ。偉そうに命令すんじゃねぇよ」
少年がそう言うや否や、イワギは彼を殴り倒した。唐突な攻撃に受け身をとることも出来なかったのか、少年が軽々と吹っ飛んでいく。周囲の男たちが息を飲む気配がした。
「……いきなり……っにすんだよッ!」
切れた口元を拭いながら少年が起き上がる。なおも揺らぐことのない眼光に、イワギはわずかな興味を抱いた。
「てめぇ、名前は?」
「人にきく前にまずてめぇが名乗れよ、デカブツ」
イワギは彼の腹を蹴った。少年が膝を折ってうずくまる。
「うっ……あ……」
相当堪えたらしく、吊り上げていた眉が初めて歪んだ。イワギは彼の胸倉を掴んで引き起こすと、苦悶に喘ぐ顔を覗き込む。
「俺はイワギだ。てめぇは?」
脂汗を流しながら、「……ナギ」と素っ気なく少年が名乗る。イワギは嗤った。なかなか面白い拾い物かもしれない。
「ナギ、てめぇ、貴族に殴りかかっただって? 気でも狂ってやがるのかよ?」
ナギが咳き込みながらイワギを睨んだ。「うるせぇ」と毒づく。
「俺は貴族が嫌いなんだ。だからぶっ飛ばしてやろうと思っただけだ」
「へっ、そいつは御大層だな」
イワギは鼻で笑う。「おい小僧」と顔を寄せて凄んだ。
「賊には賊なりの秩序ってもんがあんだよ。てめぇみてぇな馬鹿に好き勝手やられちゃ、困るんだ。……てめぇに悪事のイロハを仕込んでやるよ」
「頼んでねぇよ、そんなこと」
忌々しそうにナギが言い放つ。イワギは再び彼の横っ面をはたいた。さすがに堪えてきたのか、少年は起き上がろうとするものの叶わず、地面に伏せたまま呻いている。
震える少年のそばまで歩み寄ると、イワギは爪先でつついて彼を仰向けに転がした。
「……その前に、まずは躾が必要そうだな」
せせら笑いながら言い放てば、ナギは憎々しげに顔を逸らした。