三
眩しい朝日に顔を照らされ、ナギは目を覚ました。半身を起こせば、破れかかった布団が身体から滑り落ちていく。寝ぼけ眼でザンバラ頭をぽりぽりと掻き、周囲を見渡した。
手狭な室。ナギが横たわっていた布団だけで部屋の面積はほぼ埋まっていた。奥には申し訳程度に床の間があるが、割れた壺が無造作に置かれているだけである。
開け放された引き戸からはふんだんに朝日が射し込んでいた。引き戸の向こうには荒れ放題の庭が見え、伸びっぱなしに成長している草木の隙間から母屋が見えた。
(……ここ、どこだっけ)
ぼんやりとしつつナギは欠伸をし、大きく伸びをした……と、ずきんと身体中の筋が痛んだ。ナギは我に返る。ああ、と思い出した。
「あいつの邸か……」
昨日の出来事が脳内で再現される。ナギは今までつるんでいた破落戸どもと完全に決別した。今さらのこのこと南の貧民窟へ帰るわけにもいかない。するとイツキが提案したのだ、よかったら自分の家に住まないか、と。イツキの邸は羽振りのいい貴族のそれと比べると小規模で古かったが、使われていない離れがあった。ナギとしては雨露が凌げるだけで十分なので、ありがたく彼の好意を受けることにしたのだった。
「布団なんて、久しぶりだな」
軋む身体を労わりつつ、ナギは破れ布団から抜け出した。都で賊徒として過ごすようになってから、まともな住居や寝具とは無縁の生活である。最後に布団で寝たのは、村を飛び出す前日か――ちくりと胸が痛む。ナギはごまかすように「あいつら、起きてんのか?」と独り言を呟くと庭に出た。
庭草は長いものでナギの胸ほどにまで達していた。まったく自由奔放に伸びているが、所々獣道のようになぎ倒されている場所もあった。ナギは草を掻き分けつつ、母屋に向かって獣道を進む。
やがて草が開け、庭に面する縁側に座り込む人影が見えた。ハルヤだ。ハルヤは藁のような植物を熱心に編んでいる。ナギはしばし躊躇した。彼女は自分のことを快くは思っていないだろう。ナギが居候すると決まったときも、喜ぶイツキに反して仏頂面をしていたのだ。
(……怖気づいてどうすんだよ、あんなガキ相手に)
ナギはよしとうなずくと歩を進めた。「よう」と声を掛ければ、ハルヤは顔を上げたが声の主がナギだと知るとぷいと下を向いた。ナギは苦笑する。幼い者――特に女の子は一度嫌ってしまった相手には頑ななものだ。郷里の妹にもよく大嫌いだなどと言われたものである……ナギは気を取り直して「早いな」と言うと、縁側に腰掛けた。
「なに編んでんだ?」
少女の手元を眺めつつ尋ねる。聞かずともそれが莚だと分かっていたが、話のとっかかりが欲しかった。
ハルヤはしばらく黙っていたが、ぶっきらぼうに「むしろ」と答えた。
「庭に生えてる草を干して、編んでるの」
「へぇ。荒れてんなぁと思ったけど、活用してたんだな」
ナギは庭を眺めながらうなずいた。同時に、村でも兄妹たちと一緒に莚や草履を編んでいたことを思い出す。
「それを市場に売りに行くのか?」
「……そうよ」
「おまえが?」
「……当たり前でしょ」
ハルヤは素っ気なく答える。しかし続きを待つように見つめてくるナギの視線に根負けしたのか、渋々というふうに言葉を続けた。
「イツキ様にそんなこと、させられるワケないでしょ。一緒に編んでくれるだけでビックリするのに……」
彼も莚を編むのか、とナギは少々驚いた。身分の高い人間がすることではないだろう。あまりその光景も想像できなかった。
イツキの名前が出た途端、ハルヤは急に饒舌になった。
「波風立てないように……ってこっそりイツキ様を宮中から追い出したくせに、貴族の偉い人たちは、ほとんど事情を知ってるの。そういう人たちが面白半分に都で噂話するから、有名になっちゃったのよ……嫌な意味で」
ぎゅ、と藁を編むハルヤの手に力がこもる。
「……いっぱい悪口言われたわ。皇族も落ちぶれたらあのザマだ、いい気味だ、て……汚れた血、不敬だとも言われたわ。……だからイツキ様はあんまり外を出歩かないようにしてるの。こそこそ陰口叩かれるのなんて、誰だって嫌でしょ?」
まるでナギがそう言ったかのように、ハルヤは責める眼差しでナギを睨んだ。ナギは黙る。初めて会った夜、似たような罵倒を自分も彼にぶつけたのだ。ハルヤに酒を掛けられたことを思い出す。彼女が怒るのも無理はないと、今ならそう思う。
「……悪かったよ、ひどいこと言ってさ」
ナギは素直に詫びた。ハルヤは不意打ちを食らったようにぽかんとしたが、すぐに取り繕うように莚編みに没頭した。
「わ、わたしに謝ってもしょうがないでしょ! ……別に……イツキ様はなんでか知らないけどあんたを気に入ってるから、わたしが口出しすることじゃないし……」
ぶつぶつと気まずそうに呟きつつも、幼いまろやかな頬は赤くなっていた。ナギは笑う。年の割に口達者ではあるが、やはりまだ子どもだ。
「なぁ、おまえ、いくつなんだ?」
ナギは尋ねた。ハルヤがぶっきらぼうに「十二」と答えた。ナギは片眉を上げる。
「へぇ、俺の妹と同い年だ」
同じ年頃だろうとは思っていたが同い年だったとは。ナギはこの少女に対する親近感を深めた。一方ハルヤも探るようにナギを見上げた。
「妹、いるの?」
「ああ、故郷の村にいるぜ。俺は三兄妹の真ん中だ。兄貴と妹がいる」
ハルヤがじっと見つめてくる。あからさまに興味を抱いたふうな視線を受け、ナギは軽く笑った。
「妹はナミっていうんだ。泥臭ぇガキだよ。すぐ泣くし拗ねるし、勝ち目もねぇのに俺に突っかかってばっかきやがる。兄貴の名前はスグリ、俺より十も上だ。嫌味なくれぇによく出来た兄貴だよ」
兄妹の話をしながら、ナギは無性に村が懐かしくなった。それぞれ歳の離れた兄妹であったためか上下関係は歴然としていたが、ナギはスグリもナミも好きだった。劣等感を刺激されはしたが頼れる優秀な兄に、手がかかるけれど可愛い妹――彼らは今どうしているのだろうと、郷里に思いを馳せた。
ハルヤが俯く。「いいな、楽しそう」と呟くと、のろのろと莚編みを再開した。そういえば彼女は捨て子だと言っていたなと、ナギは思い出した。
「……おまえにもいるじゃねぇか、兄貴みてぇなのが」
「え?」
ハルヤがきょとんとした。「イツキがいるだろ」と補足すれば、少女は慌てたように首を振った。その頬はほんのり染まっている。
「イツキ様がお兄様なんて、そんな……! 怒られるわ!」
「誰に怒られるってんだよ」
「だって、そんなもったいないこと……」
うろたえつつもハルヤはどことなく嬉しそうである。ナギは笑った。この少女は相当あの青年に心酔しているらしい。
「じゃあ俺が兄貴になってやるよ。ナミと歳も同じだし、ついでだ」
ぽんぽんと小さな頭を叩いてやれば、あからさまに嫌そうな視線が向けられた。
「あんたみたいなのが兄様なんて……ゲンメツだわ」
「なんだとぉ?」
ナギはおかっぱ頭をぐしゃぐしゃと掻きまわした。「やめてよ!」とハルヤは抗議するが、次第にくすぐったくなったのかきゃっきゃと笑いだした。「お返し!」と小さな手で繰り出される張り手を受けてやりつつ、ナギはおかっぱ頭をこねくり回してやる。
「ずいぶん楽しそうだね」
不意に穏やかな声がした。二人が驚いて手を止めると、部屋の奥からイツキがやってきていた。その顔にはまだ傷痕や痣が痛々しく浮いている。寝間着姿のまま縁側に出ると、ナギとハルヤの顔を交互に眺めてくすりと笑った。ハルヤが慌てて髪を整えつつイツキのもとまで駆け寄る。
「起き上がって大丈夫なんですか? お怪我は痛くないですか?」
心配そうに尋ねる姿を眺めつつ、ナギは苦笑した。
(一応こっちも怪我人だったんだけどな)
しかしそれぞれの関係を無視しても怪我の度合いはイツキのほうが上だった。ナギも「まだ顔が青いぜ」と気遣ったが、イツキは笑って肩をすくめた。
「日ごろ引きこもっていたせいかな、身体がなかなか動かなくてね……いっそ起きていたほうが治りも早いような気がするんです」
「そんなわけあるかよ。まぁ、平気だって言うんならいいけどよ」
「ナギ殿こそお加減はいかがか?」
イツキが気遣わしげに尋ねてくる。「俺は慣れてる」と答えつつ、ナギはむず痒いものを感じて彼に言った。
「……それよりそのナントカ殿っての、やめてくんね? 尻のあたりがムズムズする」
イツキが目を丸くした。と同時にハルヤが「そうよ、こんなヤツ呼び捨てで十分だわ!」と合いの手を入れてくる。イツキが破顔した。
「ではナギ、ハルヤ、まずは朝餉にしよう。ちょうど芋が蒸かしあがる頃です」
朝餉は蒸かした芋と青菜の汁だけという粗末なものだった。しかしもともと貧しい農村育ちのナギにとっては別段驚くような献立でもない。三人は取り留めのないことを話しながら慎ましく食事を済ませた。
食後、イツキも莚編みを手伝うと申し出たが、ハルヤによってあっさり却下され強引に寝室に押し込まれた。そして代わりに駆り出されたのがナギであったのだが、ナギが思いのほか上手に莚や草鞋を編むのを見て少女は目を丸くしていた。
「おまえとは年季が違うぜ」
子どもの頃から――それこそ今のハルヤよりも幼い時分からナギは農作業や莚編みに従事している。手際よく綺麗に藁を編んでいく姿にハルヤも見直したらしい、態度が急速に軟化していくのを実感しながら、ナギはそっとほくそ笑んだのだった。
では気を付けて――寝間着姿のままのイツキに見送られ、ナギとハルヤは莚を背負って都の市場へ向かった。
都には南北に渡って大きな通りが走っており、市場はその通りの真ん中よりやや北寄りの位置に日中の間のみ開かれている。南北の中間に位置しているためか、行き交う人々は貴族から貧民まで雑然としていた。
ナギも市場を訪れたことはあるが、目的は物の売り買いではなくスリだった。無防備な貴族から小金を頂戴するのだ――あまり楽しくない思い出が蘇り、ナギは小さく舌打ちする。
やがてハルヤは市の片隅でささやかな店を広げた。自分用に持ってきた莚の上にちょこんと腰を下ろす。ナギも隣に座った。かつての破落戸仲間と出くわさないよう、行き交う人々にそれとなく視線を走らせる。
「……売れんのか?」
一刻ほど経った頃、ナギはぼそりと尋ねた。同じくハルヤも「売れるわよ」と低い声で答える。
「三日に一枚くらいは」
「途方もねぇなぁ」
ナギは空を仰いで苦笑した。恐らく自分があの雑踏の中を一刻も歩き回っていれば、ハルヤのひと月分ほどの稼ぎを得ることが出来るだろう。……ただし、身の安全は保障できないが。
ハルヤがジト目でナギを見た。
「なによ、あんたみたいな悪党にはわかんないわ。盗んだほうが儲かるとかって、どうせ考えてるんでしょ」
「鋭いな」
ナギは笑った。「確かに考えてた」と告げれば、ハルヤの顔がますます険しくなる。
「だけどよ、見つかったら最悪だぜ。初めの頃は下手だったからな、とっ捕まって袋叩きなんてしょっちゅうだった。アバラも何本かイッたな」
「そんなの、あんたが悪いんじゃない。泥棒」
心底あきれ果てた顔でハルヤが睨んでくる。「その通りだよ」とナギは小さく笑う。
「だからもう、やらねぇ。俺は馬鹿だっただけだ……やっと、気づいた」
「……」
ハルヤが俯いた。腰かけている莚のほつれをいじりつつ、「わたしだって……」とぽそぽそと口を開く。
「ほんと、言うと……わたしだって、貴族は嫌いだわ」
ナギは横目で少女を見やった。ハルヤは慌てたように顔を上げると「イツキ様には内緒よ、ぜったい!」と釘を差しつつ、言葉を続けた。
「目が、嫌いなの……汚いものでも見るみたいに、わたしのこと見下ろしてくるのよ。そりゃわたしは下働きだったから、手が汚れてるのは本当なんだけど……」
少女の話を聞きながらナギはぼんやりと往来を眺めていた。小汚い貧民の間を、従者に囲まれた貴族が悠々と歩いているのが見える。彼らは貧民とすれ違うたびに、袖で口元を覆って顔を顰めていた。「ああ、わかるぜ」とナギは短く相槌を打つ。
「いつか仕返ししてやりたいって、何度も思ったもの。でも……イツキ様はそんなわたしにとても優しくて、同じ目線で話をしてくれて……嬉しかった。イツキ様も宮中で大変な身の上だったのに、ちっとも文句とか悪口とか、言わないの。だからわたしも見習おうと思ったわ」
なかなかうまくいかないけど……と結び、ハルヤは困ったように笑った。ナギは肩をすくめる。
「おまえみたいなガキがそうそう悟れちゃ、俺の立つ瀬がないだろ。……あいつは人格者なんだ。時々いるんだよ、そういう希少生物みたいなのがさ」
「それ、イツキ様を褒めてるの? 馬鹿にしてるの?」
胡乱な目でハルヤが見つめてくる。ナギはニヤリと笑みつつ、「馬鹿にはしてねぇ」と答えた。
(やっぱりあのとき殺してなくて、よかったな)
ナギはこそりと心中で安堵する。懐に手を入れれば、そこにはまだ短刀が仕込んである。いつでも身代わりを殺せるようにと身に着けていたものだ。彼の命を救ったのは偶然という他なく、もしあのときイツキを殺めていれば、ナギは無事この世で再び生を謳歌していただろう――けれど、きっと失うものも多かったに違いない。
(こいつを、どうすっかなぁ)
ナギはため息をつく。が、まだ期間はある。とりあえず保留にしておくことにした。難しい問題は後回しにするのは昔からの悪い癖だ……苦笑しつつ、ふと指先に硬いものが触れた。おやと思って懐から取り出せば、銭が数枚だった。
(ヤマからとった金か)
ほんの昨日のことだというのにもう随分と昔のように感じられる。ナギは銭を握ると、「よし」と声を上げて立ち上がった。
「今日は店じまいだ。もう売れねぇよ」
「ええっ、なに言ってるの? 一枚くらい売っておかないとお金が……」
「金ならある」
ナギは銭を軽く放ってパシリと握りこむと、ニッと笑った。ハルヤがしかめっ面になる。
「どうせ盗んだお金なんでしょ。嫌よ、そんなの使うの」
「盗んじゃいねぇ。破落戸から巻き上げた金だ」
「……おんなじことじゃないの」
ハルヤが呆れ顔になる。「同じでもいいじゃねぇか」とナギは片眉を上げた。
「金に貴賤はねぇよ。あるもんは使わなきゃ、損だろ? 干し肉でも買って怪我人に体力つけさせたいじゃねぇか」
さぁ片づけだ、と意気揚々と言い放ってやれば、呆れ顔だったハルヤがぷっと吹き出した。
「やっぱりあんたって、悪党なのね」
そう言い放つ表情は、朗らかだった。
「まだ寝ないのですか?」
背後から声を掛けられ、ナギは振り返った。寝間着の上から羽織を肩にかけ、イツキが静かに立っている。すでに幾日も養生していたためか、顔の痣もだいぶ消えかかっていた。髪は結っていたが冠はかぶっていない。粗末な衣服を着ていてもどこか気品があり、権力はもうないというのに誰よりも雲上人として相応しい容貌に見えた。
ナギは縁側で草鞋を編みながら「ああ」と答える。
「久しぶりに働いたら、なんか楽しくなっちまった」
朝日と共に規則正しく起き、莚を編み、食事の支度をし、市へ出る――黙々と仕事をすることで、ナギは村に残してきた家族に罪滅ぼしをしているような気分になれた。ただの自己満足だとはわかっているが、真っ当な生活を送ることこそが、今の自分には必要なことのように思えてならなかったのだ。
「じゃあ、私もお手伝いしなければ」
イツキがナギに並んで腰掛け、藁を手に取る。器用に編んでいく手元を見やりつつ、ナギは首を傾げた。イツキの技術はすでに何度も見ているが、改めて疑問を投げかけてみる。
「あんた、どこでそんなの覚えたんだよ? ハルヤか?」
「いや……どうしてかな、身体が覚えているというか、教えられなくてもなんとなくやり方がわかるんです」
「ふぅん……偉い奴はなんでも出来るのかね」
そういうものかとナギは納得したが、イツキは苦笑した。
「私は偉くなどない。ただの落ちぶれた人間です」
「そうかな。俺は偉いと思うけどな。……あんたも、ハルヤも」
語尾は小さく消えていく。ナギは編み終わった草鞋から飛び出た余った藁を、短刀で切った。いつの間にかこの短刀は藁を切るためだけに活用されている。
短刀を月明かりにかざした。短い刀身が月光を弾き、きらりと輝きを放つ。
「なぁ……」
刀身に映る己の顔を見つめつつ、ナギは問いかけた。
「……人を殺せば自分が生きられる……って言われたら、あんたどうする?」
「え?」
イツキがきょとんとした。「戦での話ですか?」と問われるので、ナギは首を振った。
「そうじゃねぇ。なんつうか……誰かを身代わりに殺せば自分が生き返るっつぅか、そんな感じだ」
「お伽噺のようですね」
イツキが笑みを見せる。確かに現実離れした話だと、我ながらナギもそう思った。
そうですね……とイツキは手を止めて考え込んでいたが、やがてあっさりと言った。
「私には無理でしょう」
「そっか……ま、そうだよな」
ナギは苦笑いした。この青年が自分のために人殺しをするとも思えない。愚問だろう。
しかしイツキは更に言葉を続けた。
「私には、その勇気がない」
「勇気……?」
「勇気というか、根性というか……」
首を捻ってイツキは言葉を探している。ナギはじっと答えを待った。
「誰かを殺めるということは、その相手の人生を背負って生きていくことにもなるでしょう。私には到底出来そうもない。自分の人生ですら覚束ないのだから」
「……そういう、もんか?」
「殺すということは、その者の生を呑みこむこと……相当な覚悟と、器が大きくなければ出来ません」
ナギは黙り込んだ。胸の中にある種の驚きが芽生えていた。ただ自分が死にたくないというだけで、ナギは殺すのに相応しい相手を探していたのだ――
イツキが困ったように笑った。「申し訳ない」と早口で謝る。
「知ったような口を利きました。引きこもっていると口ばかり大きくなるようだ」
「いや、そんなことねぇよ。というか、あんたが言うからこそ説得力もあるぜ」
ナギは真面目な顔でそう告げた。そして再び短刀に視線を向ける。刀身に映った己の顔。果たして自分は、誰かを犠牲にしてまで生き残るだけの価値があるのだろうか?
(わかんねぇ……ただ、)
この青年を殺さなくてよかったと、改めてそう思った。
「……どうかしましたか?」
訝しげにイツキが尋ねてくる。ナギは肩をすくめた。
「いや、あんたと出会ったのも不思議な縁だなって思ってた」
まさか本当のことを打ち明けられるはずもない。お茶を濁すようにそう言うと、イツキが微笑した。
「私もそう思いますよ、ナギ。あなたが来てからハルヤも楽しそうだし……」
「そうかぁ?」
ナギはおどけたように笑った。あの少女は自分には憎まれ口ばかり叩いてくるのだ。「それが彼女の愛情表現ですよ」とイツキが瞳を和ませる。
「もしかすると、私たちはあなたと出会う定めだったのかもしれないな」
大真面目にそんなことを言われ、ナギは呆けた。が、すぐに笑い飛ばす。
「前もそんなこと言ってなかったか、あんた。やっぱ皇族様は言うことが違うねぇ」
「冗談で言ったのではないんだけどな」
イツキは困り顔だったが、それでも楽しそうだった。ひとしきり笑い合ったのち、「ま、いいや」とナギは腰を上げた。
「夜更かししちまった。あんた、もう寝ろよ。俺も寝る」
「そうします。……おやすみなさい」
イツキは律儀に軽く頭を下げると、静かに部屋の奥へ戻っていった。彼の背中を見送ってから、ナギはふぅと息を吐いて散らかった藁を持って庭に降り、納屋へ向かった。
藁をしまい、虫の声が密やかに響く庭の中で、ナギはぼんやりと立ち止まった。月が眩しくナギの頭上に輝いている。納屋のそばに置かれた水瓶を見れば、水面にも同じように明るい月が光っていた。夜風に吹かれ、時折水面と月がゆるやかに波打っている。
なんとはなしに眺めていると、不意に波打つ水面に波紋が広がり始めた。風はもう止んでいる。不審に思ってナギは水瓶を覗き込んだ――そのとき。
「うわっ?」
ナギは驚いて飛びすさった。水面に突然赤い髭面が映ったのだ。よくよく見れば、それは閻魔大王だった。
「な、なんだオッサンか、おどかすなよ!? 妙なとこから出てきやがって……!」
心臓がどきどきと波打っている。ナギが文句を言うと、閻魔大王は渋面をつくった。
「せっかくわざわざ教えに来てやったというのに……文句を言われるとは心外じゃ」
「……なんだよ、教えに来たって」
再び水瓶を覗き込み、ナギは不機嫌もあらわに睨みつけた。閻魔大王は巻物をさらりと広げると、
「あと二週間じゃぞ」
厳かな声で言い放った。ナギは呆ける。
「おぬし、期限付きの仮再生だということを忘れておらんか? 様子を見てみれば毎日藁ばかり編みおって、ちぃとも誰かを殺す気配がない。あと十四日でおぬしは死ぬんじゃぞ? それを教えに来てやったんじゃ」
「うるせぇよクソジジィ」
ナギは思い切りしかめっ面をしてやった。「相変わらず口が悪いのう……」と閻魔大王がぼやく。
「……俺には、他にやんなきゃならねぇことがあるんだ」
「ほう?」
水面の向こうで閻魔大王が片眉を上げた。「して、なにを?」と尋ねてくるが、ナギはぶっきらぼうに「うるせぇ」と拒絶する。
「オッサンには関係ねぇだろ。ほっとけ」
「本当に口が悪い男だのう……」
閻魔大王がぶつぶつとぼやいているが、ナギは無視して水瓶に背を向けた。そして寝静まった邸を眺めつつ、
「……そうだ、俺には、やんなきゃならねぇことが、あるんだ」
小さく、けれど力強く呟いた。