左隣の幽霊
私のクラスには、誰の座る場所でもない席が一つある。その席が何時、どうしてこのクラスに紛れ込んだのかは分からない。クラスメートに不幸があったわけでも、このクラスに所属する生徒の人数分以上に席があったわけでもないのだから、きっと誰かの悪戯なのだろう。けれども何故か何時までも撤去されないその席は、それ自体がクラスの一員であるかのようで、それが私には少し不気味だった。
そんなことを考えたのは、今回の席替えで私の座る場所がその席の右隣になったからなのかもしれない。とにかく、隣になるまであまり意識した事の無かったその席に興味が湧いたことは事実だ。だから私は授業の内容が退屈な時、主のいないその席をぼんやりと眺めている。気が付くと魅入られたようにその席に視線を向けてしまうのだ。
そんな自分を戒めるために頭を振る。例え退屈であろうとも授業は聞くべきなのだ。成績を下げると、我が家の般若であるお母さんに説教をされてしまう。いや、凄まじい形相や激しい説教はともかく、怒ると片手に竹刀をもつあの癖だけはどうにかしてほしい。私は母似だとよく言われるが、気性まで似なくて本当に良かったと思う。
掠れて聞こえ辛い声が私の聴覚を刺激したのは、母親の癖に、気性に苦悩している最中のことだった。慌てて周りを見回す。しかしクラスメートたちに特段動きはなく、むしろ突然頭を旋回させ始めた私に怪訝気な視線を送って来る。
幻聴だったのだろうかと首を捻った私は、そこで確実に声を捉えた。
「チョベリバ」
私が固まったのは、例の席しかないはずの左側から声が聞こえてきたから、ではない。聞こえてきた言葉が、今では殆ど聞くことの無い死語だったからだ。今の時代、言葉にしても報われないであろう死語に、チョベリブと返そうかと悩んだ私は、とても心優しい性根の持ち主に違いないだろう。
「あ~?聞こえてんだったら返事くらいしろ!」
その怒声に体を竦ませたのは私だけだった。やはり、クラスメートにこの声は届いていないらしい。
私は意を決して声のする方へ、つまり、顔を左へと向けた。
「ああ!?なにガンつけてんだ、コラ!」
「ご、ごめんなさい!」
まるで私の母親のようなドスの効いた語調に、反射的に立ち上がり、謝ってしまった。
授業中にそんなことをしてしまったせめてもの慰めは、頭を下げるという行為の角度が非常に美しいということ。
勿論それは大した慰めにはならない。クラスメートと英語の教師の好奇の目に晒された私は、羞恥と驚愕で引き攣った笑みを浮かべていたに違いない。
「あー、foolの日本語訳は、ごめんなさい、じゃないぞ。foolは今のお前のような者のことを指すからな・・・もしかして、体を張って訳してくれたのか?」
「い、いえ。すみませんでした」
先生に謝りながらゆっくり席に座る。やはり、クラスメートも先生も見えていないようだ。
机の上に足を伸ばし、退屈なものを見る目で私を睨む、左隣の髪の長い女を。
「なにセンコーにヘコヘコしてんだよ」
険のある声で女はそう言った。腰から伸びる長いスカートに、×印の書かれたマスク。睨むという行為の威力を増加させる切れ目に、剃りこみの入った眉毛。
それはどこからどう見ても不良なのだが、完全に時代錯誤していた。今どきこんな不良なんてそうは居ないだろう。
うん、何だか逆説的だ。いや、逆説的の意味なんて正しく理解してはいないけれど。
私は現実逃避するようにそんなことを思考する。でなければ理性を保てなかった。左隣の前時代的な不良の体は透けていて、それが人間でないことは明白だ。
人間ではない。では一体、何だというのだ。
その答えは頭の中では出ていて、でも、納得したくなくて。私はひたすらその女の視線から逃げる。しかし無視されることで苛立ったのか女は、椅子から立ち上がって私の目の前にやって来た。
「おい・・・なに無視してんだよ」
半透明の手が私を掴もうと勢いよく伸びる。
私は小さく息を呑み、目を堅く閉じた。瞬間、冷たさが心臓を直接撫でたような寒気が走り、体が震える。しばらくして薄っすら目を開けると、女の肘が自分の胸元から生えているという摩訶不思議の光景が飛び込んできた。
「・・・・うそ・・・だろ」
その光景にもっともショックを覚えたのは私ではなく女だった。私の体から腕を引き抜き、しげしげとそれを眺める。同時に授業終了を告げるチャイムが鳴り、私は女から逃れるためトイレに向かって無我夢中で走っていた。
「・・・つまりあたしは今、幽霊ってこと?」
「え、ええ。だと・・・思うんですけど」
私は出来るだけ声を落し、トイレの個室の天井で腕を組む女にそう言った。
結局、女から逃れることは出来なかった。でも、比較的冷静になった理性は、彼女が幽霊であることを受け入れるだけの余裕を手に入れていた。
「つっても、死んだ時のことなんて思い出せないしな。なぁ、本当にあたしが幽霊なのか?」
「だって・・・浮いてるじゃないですか」
「うわ!本とだ!?」
女は耳鳴りがするような大きな声で驚いた。どうやら彼女は無意識のうちに宙へ浮いていたようだ。
・・・私を見下ろしていることに、疑問を感じなかったのだろうか。
「うあー、地味にショックだ。可憐な花のうちに死んだのかよ、あたし」
花で例えるならクマガイソウだろうか。そんなことを言えば激怒されそうなので胸の内に仕舞い、私は苦笑いを作りながら口を開けた。
「生前の事、何も覚えていないんですか?」
女は考え込むようにしばし沈黙し、それからゆっくりと頷いた。
「覚えてねーなー。ただ、あんたの顔を見てるとなんかイライラする」
「そ、そんなに不快な顔をしてますか、私?」
「なんかなぁ・・・センコーにヘコヘコしてるところを見たから、そう思うのかも」
そう言って女は両手で頭を掻いた。何も思い出せないことがもどかしいみたいだ。
「何か、未練があるんじゃないですか?」
私は霊能力者ではないし、今まで幽霊が見えたこともない。当然、分かったようなことは言えない。ただ一般的に、幽霊が成仏できない理由はうつ世に未練があるからと言われている。
だから私は女にそう聞いた。
「未練ねぇ・・・・」
再び考え込む。しばらくして幽霊は、あ、と小さく音を出し、もしかしてと切り出した。
「手紙を。とても大事な手紙を誰かに渡したんだ。それでどっかに呼び出して、その日を待ち焦がれて・・・・それで・・・それで・・・・」
「手紙、ですか。告白、とか」
「内容は詳しく思い出せねぇ。ただ、そうだ、待ち合わせ場所は東野河川敷だ」
「東野河川敷なら近くにありますよ。放課後、行きましょうか?」
私が積極的に提案したのは、この女の幽霊が渡したという手紙の内容が気になったからだ。
告白の日、意中の相手を東野河川敷に呼び出した女は期待に胸を膨らませていた。しかし少しの不注意で交通事故に遭い帰らぬ人となってしまう。けれど、告白の返事が知りたくてどうしようもない乙女心は、彼女を幽霊としてうつ世に縛ってしまった。彼女は今も、意中の相手の返事を待っている。
「あ?どうしたんだ?何で泣いてんだよ?」
私の頬に熱いものが伝う。
勝手な想像は野暮だと分かっている。だが私は、彼女の未練を叶えたくて仕方がなくなっていた。
「協力しますよ。行きましょう、東野河川敷に!」
「あ、ああ。頼むぜ」
全ては安らかに成仏してもらうために。
私は放課後が待ち遠しくて堪らなかった。
一面新緑の河川敷に面する水面は、夕焼けを受けて燦然と煌いていた。
東野河川敷。橋を越えた先の工業地帯を一望できるこの場所は主に、ウォーキングに勤しむ老人や、学校帰りの小学生たちに活用されている。
私は、左隣で浮いている幽霊の未練を叶えるためにここにやって来た。彼女は目を細めて河川敷を眺めていて、何か感慨深いものを感じているようだった。
「思い出せましたか?」
私の言葉に、女は小さく首を横に振る。
「駄目だ。ここで大事な人間を待っていた事に間違いはない。けど、それが誰なのか、何で呼びたしたかは思い出せねぇ。ただ、無性に心が疼くんだ」
「そうですか・・・」
ふと視線を下げると、水際に腰を下ろしている人物が自然と視界に入った。と、言うのも私はその人物に見覚えがあった。ポニーテールに束ねられた茶色の髪に、細い体躯。穏やかそうな雰囲気を纏う人物だがしかし、見た目で判断してはいけないことを、私がよく知っている。
「お母さん?」
そう声を掛けるとその人物は、お母さんは多少びっくりしたように目を瞬かせながら振り返った。
「あら、どうしてこんなところに?」
「あ、うん、ちょっと・・・お母さんこそ、どうしてこんなところに?」
そう言った私は、嫌な予感が高まるのを禁じ得なかった。お母さんの瞳は、何かを懐かしむような色を灯していて、それはそのまま女の幽霊にも言えることだったのだ。
そんな私の嫌な予感をよそにお母さんは、頬に手を当てながら、しみじみと語り始める。
「学生時代、ある人に果し状を貰ったの。どっちが強いのかここで決着を着けようっていう内容だったんだけど、その人、ちょっとした不注意で交通事故に遭っちゃってね・・・結局、決着はつけられないまま・・」
「へ、へぇ~」
私はお母さんから視線を逸らした。竹刀を片手に持つ癖やドスの効いた怒声から何となくそんな気はしていたが、どうやら私の母親は昔、不良だったようだ。
「あ、違うのよ。果し状と言ってもそんな大層なものじゃないから。花のように可憐な女子高生に嫉妬した人間が勝手に送りつけて来ただけで、それまでお母さんはそんなものとは無縁だったのよ?」
「・・・だったら、決着を着けようっていう内容にはならないんじゃあ」
「いいから忘れなさい。世の中には、忘れた方が良かったと思えることもあるのよ?」
言下にそう言われて私は小さく、はいと返事をした。口調こそ穏やかだが、能面も泣きだすような威圧を醸し出す母に、逆らえる者なんていないだろう。
いや、居た。一人と表現していいか分からない幽霊の眼にはいつの間にか闘志が宿っている。どうやら私の内で大きくなっていた嫌な予感は、見事に的中してしまったらしい。
彼女の未練は、ラブロマンスなんかではなかった。決着を着けたいという暴力的で彼女は、この世に留まっていたのだ。
「なるほど。お前、こいつの娘だったんだな。顔を見てイライラした理由が分かったぜ。似てるもんな」
幽霊は憎々しげにそう言って私を見やった。それから当然のようにこう言うのだ。
「協力してくれるって言ったよな。悪いが、可能なら体を借りるぜ」
「え?え?」
まさか、憑依なんて出来るはずがない。幽霊の腕は、私の体をすり抜けているんだし。
そう思うものの私の体は勝手に後ずさりをする。幽霊が見えないお母さんは不思議そうにこちらを見ているが、今はそんなことを気にしている場合ではない。
幽霊が弾丸のようなスピードで、比喩ではなく私に向かって飛来する。逃げようという考えも浮かばないうちに幽霊が私の体に触れ、そして意識が闇に塗れた。
私の左隣の席に、幽霊はもういない。彼女は憑依した私の体でお母さんと殴り合い、成仏した。
左頬を湿布の上から擦る。それから私は空き教室にその席をしまうため、まず椅子を持ち上げた。
女の幽霊が成仏した途端、空いている席が教室にあることに誰もが疑問をもった。担任は不思議そうに首を傾け、それから空き教室にその席をもって行くよう私に命じた。それなりに仲の良い男子が、俺が持って行こうかと言ってくれたが私は首を横に振った。この席は私が片づけなければならない。
そんな気がしたのだ。
昔年の約束を果たし終えた後の、お母さんの満足げな笑顔を思い浮かべる。やっぱり私の勝ちね、と茶目っ気にそう言っていたお母さんは、でも少しだけ寂しそうだった。好敵手であった幽霊の成仏を惜しんでいたのだろう。
あの女の幽霊もお母さんのように満足して笑ったのだろうか。
空き教室に椅子と机を運び終えた私は溜息をつく。隣になるまであの幽霊が見えなかった理由は何だったのだろうか。私がお母さんに似ていたから、何か思うところがあって姿を現し、声を掛けたのだろうか。そもそもこの席はいつからあのクラスに存在していたのだろうか。
ともかく、好敵手の娘である私がこの学校に、あのクラスに、あの席位置に居なければ彼女は成仏出来なかっただろう。小さな奇跡の積み重ねが、彼女の未練を叶えたのだ。
良い話にしよう、と考えたところで身体中の痛みは消えない。だから私はもう二度と見ることが無いだろうその席にこう呟くのだ。
「チョベリブ」
友人にチョベリバと言ったら、変な顔をされました。正直、チョベリバという死語を使うためだけにこの小説を書きました。