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シスター!  作者: 冬野 暉
プロローグ 
2/34

彼女たちの事情〈2〉

 マーニャはありふれた人生を歩んできた娘だった。

 貧しい農家の次女に生まれ、両手の指でも数え足りないほどの弟妹に囲まれて育った。父は末の弟が生まれて間もなく流行り病に倒れ、あっけなく死んでしまった。手のかかる幼子を何人も抱え、残された母は途方に暮れた。

 家計を助けるために兄は公都まで出稼ぎに行き、姉は家事と内職をこなしながら弟妹たちの面倒を見た。母も必死に畑を耕したが、それでも育ち盛りの子どもたちを養っていくには厳しかった。

 日に日に憔悴していく母や姉に、マーニャは訴えた――あたしを売ってちょうだい、と。

 母は怒り、姉は泣いた。だが貧しさゆえに子どもを売ることなど、周囲ではけして珍しいことではなかった。

 そうしなければ生きていけない現実が、故郷にはあった。

 それでも、母が我が子をひとりとして手放そうとしなかったのは、マーニャたちを愛していたからに他ならない。マーニャも家族を愛していたからこそ、母の想いを裏切ると決めた。

 気立てのいい姉には、いくつかの縁談があった。

 そのうちのひとつは、姉が密かに想いを寄せる幼なじみからの求婚だった。彼は無口だがとても働き者で、マーニャや弟妹たちのことも不器用ながらにかわいがってくれた。姉に身を売らせる真似など、絶対にさせたくなかった。

 幾日も話し合い、ときには口論し、とうとう母が折れた。ただし身売りではなく、修道院に入るという条件つきで。

 それでは口減らしにしかならないと訴えるマーニャに、母は頑としてして譲らなかった。我が子を売った金で生き延びるくらいなら死んだほうがましだという脅しのような哀願に頷くしかなかった。

 十四の春、マーニャは故郷の村をあとにした。

 母も姉も泣いていた。いたずらばかりしてマーニャを困らせていた二番目の弟も、マーニャがどこに行くのかも知らない三番目の妹も。

 見送りにきてくれた兄代わりの幼なじみはむっつりと黙りこみ、母の腕に抱かれた末の弟だけがあどけなく笑っていた。

 さよならは言わなかった。ただ、元気でね――と。

 マーニャは兄を頼って公都を目指した。たまたま公都に行商へ行くという気のいい商人の馬車に乗せてもらい、最初で最後の短い旅は穏やかに過ぎた。

 公都で迎えてくれえた兄は何も言わず、一度だけマーニャの頭を撫でた。修道院へ行く前にどこでも案内してやると言ってくれたが、マーニャは首を横に振った。幼いころのように兄に手を引かれ、公都で最も古い修道院の門を叩いた。

 別れのとき、兄はマーニャを抱き締め、声を振り絞って泣いた。

 マーニャを迎えてくれたのは、灰色のベールに白髪を隠した老境の修道院長だった。

 彼女は気難しそうな細い目でじっくりとマーニャを見つめたあと、こう言った。

「あなたは年若く、この世の喜びというものを知らぬままここへやってきたように感じられます。ここは神への愛と祈りだけを胸に抱いて生きる場所。あなたはその心を、神に捧げることを誓えますか?」

 マーニャは灰褐色の瞳を瞬かせ、素直に首を傾げた。

「わかりません。あたしは今まで神さまとは縁遠い場所にいたから、神さまがどんなひとなのかよく知りません。愛せるかどうかなんて、そのひとを知らない限りだれにもわからないと思います」

「よろしい」

 院長はひとつ頷き、思いがけず優しく微笑んだ。

「あなたはここで、心行くまで神を知る努力をなさい。そしてあなたの神を得たとき、もう一度答えを聞きましょう」

「あたしの……神さま?」

「そうです。あなたが生涯の愛を捧げるにふさわしい、尊い存在を見出すのです」

 こうして、マーニャは見習い修道女となった。

 正式な修道女になるためには、最低でも一年の修行を経なければならない。俗世への未練を断ち、信仰の道を歩めるのか――娯楽も贅沢も許されず、質素で変化のない修道院の生活になじめるかどうか見定める期間が必要なのだという。見習いの間は髪を切らず、身に纏うのは深い青のベールと尼僧服であった。

 青いベールの下、いつもどおり肩を覆う巴旦杏アーモンド色の髪を見たとき、知らず知らずのうちに張り詰めていた心がほっとゆるんだのを感じた。同時に、ほろりとこぼれた涙がひと粒、頬を濡らした。

 それはきっと、少女がようやく自分に許した「悲しい」という思いだった。

 自分の境遇が特別でもなんでもないことをマーニャは知っている。この世にありふれた、平凡な娘なのだと。

 だから嘆く必要はない。憐れむ必要はない。

 たったひと雫の涙が、マーニャの最後のわがままだった。

 喜ばしいことに、修道院での暮らしはマーニャにとって苦ではなかった。自ら鍬を振るって畑を作ることはもちろん、冷たい石壁に囲まれた部屋で寝起きすることも、味気ないパンとスープだけの食事にも、貧困のなかで育った村娘は慣れっこだった。

 確かに娯楽はないに等しかったが、知識や教養を身につけることは奨励されていたので、修道院にはすばらしい書物がいくつもあった。

 マーニャは院長や先輩の修道女たちに読み書きを教えてもらい、巨大な書庫の蔵書を片っ端から読み漁った。薄っぺらな紙の上に連なる文字の塊は、しかしマーニャにどこまでも広く深い世界を見せてくれた。

 朝と夕の祈りの時間には、家族の健康と幸福を願った。

 伏せた瞳が見つめるのは、微笑んで花婿に寄り添う姉の晴れ姿だった。

 静かな時の流れに身を浸していると、故郷に残してきた何もかも心から剥がれ落ちていくような気がした。すべてを失ったときこそ、マーニャは迷いとともに髪を断ち切ることができるのだろう。


 そうやって名もなき修道女のひとりになるのだと――ありふれた人生が続いていくのだと、思っていた。

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