婚約者が私を賭けた夜、幼馴染の求婚を受けました
「次の勝負で俺に勝ったら、リゼットと一夜を過ごさせてやる」
婚約者の声を、遊戯室の扉の前で聞いた。
中から笑い声が起こった。
「花嫁を貸すのか?」
「婚礼前だから、まだ花嫁じゃない。もっと有難がれよ」
私は扉に手をかけたまま、動けなくなった。
隣にいたテオも、何も言わなかった。
ジュリアン様を探しに来ただけだった。
この後、一緒に何人かの客へ挨拶をする約束だったのに、いつまで経っても戻ってこない。
探しに行く途中で、幼馴染のテオに会った。
「ジュリアン様なら、先ほど遊戯室で見かけたよ」
そう教えられ、ここまで案内してもらったのだ。
「リゼット」
テオが呼んだ。
私は遊戯室へ入った。
「今、何とおっしゃいましたか」
卓にはカードと銀貨、半分ほど残った酒杯。
ジュリアン様は私を見て、持っていたペンを置いた。
「来ていたのか。気にすることはないよ」
卓の端に、小さな紙があった。
次の勝負に勝った者に、婚約者リゼットと一夜を過ごさせる。
その下には、見慣れた署名があった。
「その紙をください」
ジュリアン様が紙を引き寄せた。
「余興だよ。本当に君を差し出せるわけがないだろう」
ほかの客が口を開きかけると、彼は先に笑った。
「リゼット。君も笑って、冗談だったと言ってくれ」
婚約してから一年、私は何度もそうしてきた。
遅刻も、父への軽口も、酒の席での大きな声も、笑って済ませた。
いずれ夫になる方の顔を、人前で潰してはいけない。母にそう教わっていた。
でも、今夜は笑えなかった。
「では、なぜ私の名を書いたのですか」
「皆が、私にはいい花嫁がいると羨むから。大きな賭けをしたように言って、驚かせただけだ」
彼は私へ手を伸ばした。
「君は伯爵家へ嫁ぐんだ。こんな席の戯れで騒いだら、かえって笑われる。ああ、私を賭けるほどお好きなのね、とでも言っておけばいい」
私はその手を避けた。
「父を呼んでください」
テオに向かって言った。
「今のことを、お父様にお話ししたいです」
「分かった。ここで待っていて。すぐ戻る」
テオが扉へ向かうと、ジュリアン様が呼び止めた。
「男爵。余計な口出しはしないでもらいたい」
「リゼット嬢のご希望を伝えます」
テオはそれだけ答えて、廊下へ出た。
ジュリアン様は、紙を上着へしまおうとした。
「それも父に見せます」
「君は本当に、家同士の話にする気か」
「家同士で決まった婚約です。私だけで、何もなかったことにはできません」
彼は周囲を見た。
カードを持っていた相手は、札を卓へ置いていた。
「まだ勝負はしていないぞ」
その客の言葉に、ジュリアン様が頷いた。
「そうだ。誰も勝っていない。君は何も失っていないだろう」
私は扉の方を見た。
父が来るまで、ここにいよう。
笑わずに、目の前にある紙を見ていようと思った。
*
ジュリアン様は、遠縁の伯爵家の嫡男だった。
十九歳の私より五つ年上で、社交に慣れ、親族の集まりでも中心にいる方だった。
私の父は子爵で、伯爵家とは長い付き合いがある。
この縁組には、両家それぞれの望みもあった。
伯爵は父を宮廷の役目へ推薦する。父は、伯爵家の古い館の修繕に必要な資金を、婚姻に伴う親族間の融資として貸す。
伯爵家との縁があれば、私も王都で不自由なく暮らせるだろうと、父は考えた。
テオの家には、同じ約束をする力はなかった。
けれど、妻を迎える財産がないわけではない。領地も屋敷もあり、借財も少ない。
父はその求婚を、不釣り合いだと退けたのではなく、家に得るものの多い方を選んだのだ。
私も、反対しなかった。
テオは小さな頃から知る人だった。庭を駆けて転んだことも、母の菓子を盗み食いしたことも知られている。
妻にしたいと望んでくれたと聞いても、どんな顔で会えばよいか分からなかった。
それでも、母がお祝いに仕立てようとする服の色を尋ねたとき、あの人は淡い桃色が好きだったと思い出した。
伯爵家との婚約が決まってから、その布は選ばなかった。
ジュリアン様との最初の踊りは、滑るように進んだ。
私が歩調を間違えても、誰にも気づかせなかった。
この方の妻なら、知らない社交の席でも困らないと思った。
婚礼は、三か月後の春。
今夜は父とともに、伯爵家の夜会に出席していた。
*
父は、私の話を聞くと、その紙を出すようジュリアン様に求めた。
伯爵も呼ばれた。
夜会の席から客を離し、隣の小客間で話すことになった。
テオにも同席してもらった。
彼は、私と一緒に聞いた言葉を、父たちの前でも繰り返した。
「一夜を過ごさせる」と口にするとき、私を見なかった。
伯爵は紙を読み、息子へ尋ねた。
「お前が書いたのか」
「はい。しかし、実際に何かをする約束ではありません」
「口にもしたのか」
「酒の席の余興です」
父が紙を受け取った。
「私の娘を、お前が客の寝室へ送ると言ったのだな」
「ですから、本当にはしません。父上にも子爵にも、そんな許しを得られるはずがありません」
「許されないと知りながら、娘の名を出したのか」
ジュリアン様が、私へ向き直った。
「リゼット。君も分かっているだろう。君をあんな連中に渡すはずがない。私は君と結婚するんだ」
その言葉に、初めて吐き気がした。
渡さないことを、喜んでほしいのだろうか。
私の名で客を笑わせた後に。
「私は、ジュリアン様と結婚したくありません」
父の方を見て伝えた。
「お父様。婚約を解いてください」
父はすぐには答えず、私を見た。
私は続けた。
「実際に寝室へ連れていかれたわけではありません。でも、私は、そうしてやると人前で言われました。嫌だと申し上げた後も、笑って済ませるよう求められました」
「君の評判を守るためだよ」
ジュリアン様が割って入った。
「大事にしたら、賭けの話が外へ広がる。笑い話にして結婚すれば、誰も気にしなくなる。君のためにも、婚礼を早めて……」
「娘の名誉を傷つけたのは、お前だ」
父が言った。
「その娘に、取り繕う役をさせるのか」
伯爵は紙を机へ置いた。
「子爵。息子の非は認めます。お詫びをさせます。ですが、両家の縁組を、ここで解くとなれば――」
「私も、その縁組で得るものを考えました」
父は椅子を私の方へ寄せた。
「伯爵のご推薦をいただけることは、有難かった。娘の結婚を通じて、親族としてお力を貸し合えると思いました」
私は父の袖を見た。
ここで、得るものが大きいから耐えなさいと言われたら、どうしよう。
「娘をこのように扱う息子へ、嫁がせることはできません。宮廷へのご推薦も辞退します」
父の言葉を聞いて、手の力が抜けた。
「婚礼準備は止めます。贈り物と支出の精算は、改めて話し合いましょう。修繕への融資も、婚姻が前提ですから実行しません」
ジュリアン様が伯爵を見た。
「父上。あの金が入らなければ、館の工事が……」
「お前は黙っていなさい」
伯爵は息子を座らせ、父へ頭を下げた。
「分かりました。婚約解消に合意します。娘御に不名誉があったための解消ではないことも、当家から親族へ説明しましょう」
父はその言葉を確かめ、紙を返さずに手元へ置いた。
ジュリアン様が、私の名を呼んだ。
「リゼット。私は何もしなかった。まだ賭けさえしていないんだ」
私は彼を見た。
「もう、私の名を使って、ご友人をお楽しませになりました」
「それくらいのことで……」
「そのくらいだとお考えなのですね」
彼の言葉が止まった。
「私には、あなたと同じようには笑えません。結婚してからも、きっと、何度も笑うよう求められます」
父が私を立たせた。
私は伯爵へ挨拶をして、客間を出た。
*
帰りの馬車が用意されるまで、父と私は庭へ通じる回廊で待った。
テオも、夜会を辞するところだった。
「娘に付き添ってくれて、助かった」
父が礼を言うと、テオは私を見た。
「お一人で待たせてしまいました」
「お父様が来てくださると分かっていたから、待てたわ」
彼の顔を見たとたん、目の奥が熱くなった。
伯爵家の客間では泣かなかったのに。
テオはハンカチを差し出した。
私は借りて、目元を押さえた。
「あなたにも、聞かれてしまったのね」
「うん」
「忘れてほしい」
言うと、テオはすぐに頷かなかった。
「君があんなことを言われたのを、なかったことにはできない。でも、君が恥じるようなことは何もしていないと、私は知っている」
父は少し離れた窓辺へ行き、庭に背を向けた。
私たちから見えるところにはいた。
ハンカチの縁には、小さく彼の家の紋章が縫われていた。
私はそれを指で撫でた。
伯爵家との婚約が決まった後、親族の食事会で彼に会った。
隣の席ではなく、卓の向こう側に座っていた。
おめでとうと言われ、私は礼を返した。彼がほかの客と話し始めても、ついそちらを見てしまった。
帰るとき、以前なら一緒に歩いた玄関まで、私は母と歩いた。
「あの食事会では、あなたとほとんど話せなかったわね」
「君の婚約のお祝いの席だったから」
私は畳んだハンカチを、両手で持った。
「それは分かっていたの。でも、あなたが先に帰ったあと、何もお話しできなかったことばかり考えていた」
テオが私を見た。
私はその顔を見返した。
今度は、ほかの人の婚約者だからと、会話を終わらせなくてもよかった。
「テオ。以前、求婚してくださったでしょう」
彼の手が止まった。
「お父様から、伯爵家との婚約を選んだと聞いたあと、私はあなたと話さなかった」
「君の婚約が決まってから、あの話を持ち出すつもりはなかった」
「私も、聞けなかった。どうして私を望んでくださったのか」
テオは、父がいる方を確かめてから答えた。
「君が母と一緒に菓子を作った日、覚えている?」
「焦がした日?」
「母の誕生日だった」
私は思い出した。
テオの母上を喜ばせたくて、台所へ頼み込んだ。
焼き過ぎた菓子は固く、端が黒かった。
「失敗したから、別の菓子を買ってきたでしょう」
「それも出したけれど、君は、自分の作ったものも食卓へ出した。うまくできなかったと、母に渡した」
「隠して出さなかったら、お手伝いしてくれた人にも悪いと思って」
「母は嬉しそうだった。私はあの食卓が、ずっと続けばいいと思ったんだ。母の客ではなく、家族として君がいてくれたらと」
私はハンカチを握った。
その日には、まだ求婚のことを知らなかった。
「父に相談した。父も賛成してくれたから、子爵へ申し込んだ。伯爵家の話が選ばれてからは、取り下げたよ」
テオが、私を真っ直ぐ見た。
「けれど、今も、君を妻にしたいと思っている」
私は父を呼んだ。
父が戻るまで、テオから目を離せなかった。
「お父様。テオのお申し出を、改めてお受けしたいです」
父は私へ問い返した。
「今夜、そばにいてくれたことへの礼ではないか」
「それだけでしたら、求婚のことまで伺いません」
私はテオのハンカチを持ち上げた。
「伯爵家との婚約が決まってからも、テオに会うと、以前のように隣へ座りたくなりました。でも、もうそれはできないと思っていました」
声を整え、もう一度言った。
「今度は、この人と同じ食卓につきたいです。お父様がお話をしてくださるなら、私も、自分からそうお伝えしたいです」
テオが、父へ向き直った。
「子爵。改めて、娘御との結婚をお許しいただきたい。こちらから条件をお伝えします」
父は私たちを順に見た。
「まず先の解消を、書面でも整える。その後、男爵と話そう。今夜、婚約まで決めることはできん」
私は頷いた。
「ただ、お前たちの希望は受け取った。ほかの話を進めず、先に相談しよう」
テオが一礼した。
私は彼へ、初めて言えた。
「お父様がお許しになれば、あなたに嫁ぎたいです」
テオは、私の名を一度呼んだ。
それから、父の前でも隠せないほど嬉しそうに笑った。
*
婚約解消の書面には、私の行いや不貞を理由とするものではないことが、明記された。
あの夜、その場にいた客にも、伯爵から説明があったという。
私の名をこれ以上、酒の席の話にしないことも伝えられた。
伯爵家は、修繕資金をほかから調達することになった。
父は宮廷への推薦を辞退した。
ジュリアン様の遊興費も、伯爵が管理することになった。以前からのカードの借りを払い終えるまで、自由に使う金は減らされる。
私の父に詫びる手紙で、伯爵がその処置を知らせたという。
館の修繕費を融通してもらう相手を失い、今度は息子の借りまで支払わなければならなくなったのだ。
ジュリアン様からは、父へ詫びる手紙が届いた。
返事は父に任せた。
「私は、伯爵家の力があれば、お前にもよい暮らしをさせられると思った」
手続きを終えた父が、私へ言った。
「得られる縁と条件を比べて、夫となる者の振る舞いを見るのが足りなかった。お前がそれまで困ったことも、聞いておくべきだった」
私は、婚約中に気になったことを話した。
持参金が入れば気前よく遊べると言われたことも。
父は、もう冗談だからとは言わなかった。
テオの家との協議は、解消の手続きが済んでから始まった。
財産の内容に大きな変わりはなく、持参金も、初めの求婚で話に出た額をもとに決められた。
両家が書面を交わした後、テオが訪ねてきた。
私は庭へ案内し、侍女が少し後ろを歩いた。
「婚礼を秋にしたいとお願いした」
テオが言った。
「春までだと、君の部屋の暖炉を直すのに少し慌ただしい。大きな宴にはできないけれど、ちゃんと迎える支度をしたい」
「私の部屋は、どちら?」
「南側。庭の見える方だ」
私は笑った。
「お母様の部屋で、お菓子をいただいたときに見ていた庭ね」
「覚えている?」
「何度も行ったもの」
彼は私の手を取った。
「今度は、客としてではなく来てほしい」
私は頷いた。
新しい家に入ることは、少し怖い。
よい妻になれるか、うまく暮らせるか、心配はある。
「テオ。結婚してからも、困ったことを話していい?」
「話してほしい。私の方からも言う」
「嫌だと申し上げることも、あると思うわ」
「そのときは、聞くよ。君が庭へ出たがらない日に、無理に花を見せるようなこともしない」
私は顔を上げた。
「今は、もう少し歩きたい」
「それなら、向こうまで」
彼が、私の手を腕へ導いた。
馴染んだ庭なのに、並んで歩くと、どこへ目をやればよいか分からなくなった。
私はハンカチを返すのを忘れていたことを思い出した。
洗って、今度持っていこう。
そう考えると、次に彼の家へ行く日が待ち遠しくなった。
「まだ、何かある?」
私が黙ったので、テオが尋ねた。
「お母様のお菓子は、今もあの棚にある?」
彼が声を立てて笑った。
「あるよ。君が来ると聞けば、もっと増える」
「焦がしたものでも、置いてくださる?」
「君が作ったものなら。私も、一緒に食べる」
私はつられて笑い、彼の腕に少し身を寄せた。
テオが私の手を持ち上げ、指先へ口づけた。
笑いかけた言葉が止まった。
彼も少し照れたように笑ったが、手は離さなかった。
返すハンカチと、今度こそ焦がさずに焼いた菓子。
次に彼の家へ行くときは、どちらも持っていこうと思った。




