墓石の熱
八月中旬の橿原は、盆地に溜まった熱気が逃げ場を失っていた。
安井哲平は市役所の食堂で、ぬるくなったうどんの汁をすすりながら、スマホの画面を親指で滑らせていた。インスタグラムのタイムラインには、青い海を背景にした家族写真や、小さな子供の手を引く同級生の背中が交互に現れる。
『ご報告。第一子が誕生しました』
『家族で久々の帰省!やっぱり地元は落ち着く』
「よかったな」
声に出すと、それは偽りのない本心だった。学生時代に伏見の安い居酒屋で泥酔していた奴らが、ちゃんとした父親の顔になり、どこかの街で生きていくのは純粋に嬉しい。しかし画面を閉じ、黒い液晶に映る三十歳の自分の顔と向き合った瞬間、食堂のざわめきが、急に遠くなったように感じられた。
哲平は龍谷大学の経営学部を出て、深草の古い木造アパートでの下宿生活を終えると、そのまま地元の橿原市役所に就職した。大学時代に二年間付き合っていた彼女とは、奈良と京都という距離と就職の慌たたしさのなかで、いつの間にか連絡が途絶えた。以来、彼女はいない。
「市役所勤めなら売り手市場やろ」「安泰やな」
飲み会でそう言われるたび、哲平は適当な苦笑いを浮かべてきた。仕事は窓口での書類発行や整理が中心で、特に劇的なやりがいも不満もない。週末には軽自動車で吉野の山奥まで一人で走りに行ったり、地元に残った友達とお好み焼き屋で泥臭く飲んだりして、それなりに自分の時間を気に入っている。ただ、世間が「結婚」や「家庭」という枠組みをあまりにも当たり前の前進として語るとき、そこから少しだけ外れた場所に立っている自分を意識させられるのが、なんとなく居心地悪かった。
とりわけ、お盆という季節はそうした空気が街に満ちる。
東京や大阪へ出た連中が、子供の手を引いて帰省してくる。スーパーの駐車場は他県ナンバーで埋まり、どこの店に入っても大人数で囲むテーブルの熱気が溢れている。
お盆には、畝傍山の麓にある祖父の家に親戚が集まる。その視線が、哲平にはどこか重かった。
「哲平も今年で三十やろ? ええ人おらんのか」
畳の間に座り、缶ビールを片手に叔父が言った。
「まあ、ぼちぼちな」
いつもの定型句ではぐらかすと、台所から母が割って入ってきた。
「今はそういう時代ちゃうねんから。哲平はてっぺいのペースでやってるわな」
母は悪気なく言っているのだろうが、その言葉がかえって部屋の中に小さな沈黙を作った。首を振る古い扇風機が、端にいくたびカチリと引きつった音を立てる。缶ビールの底から垂れた結露が、古畳の上に小さな黒い染みを作っていった。
今年で九十になる祖父は、従兄弟の息子——四歳になるタツキを膝に乗せ、目を細めていた。そして、ぬるい茶の入った湯呑みを置き、ふと哲平の方を見た。
「哲平、お前も早よひ孫見せてくれや。死ぬ前の土産にな」
哲平は「また今度な」と笑って、缶ビールの表面に溜まった水滴を指で拭った。
---
翌朝、哲平は祖父の家から祖父とタツキを軽自動車に乗せて、畝傍山の裏手にある古い寺の墓地へ向かった。
従兄弟夫婦が買い物に出かけていたため、消去法で哲平が運転手を申し出たのだ。盆の午前中だというのに、日差しは容赦なく車のフロントガラスを炙っていた。
墓地は日を遮るものがなく、黒御影石の墓石群が陽炎の向こうで揺れていた。蝉の声が耳の奥でジリジリと鳴り続けている。
祖父は足を引きずりながら、自分の家の墓の前で立ち止まった。哲平は水道でプラスチックのバケツに水を汲み、重そうに両手で運んできた。
タツキは墓石の周りを走り回り、足元の砂利を運動靴で蹴り上げている。哲平は柄杓で水を汲み、熱せられた黒御影石の頭頂部から注いだ。
ジュッ、と微かな音がして、白い蒸気が一瞬立ち上った。水は黒い染みになり、石の上を流れるそばから乾いていった。
「あつそうやな」
祖父が言った。
「え?」
「墓石も、こんな日に叩かれたら堪んらんやろ」
祖父は腰を折り、震える手で持った小さなタワシを墓石の側面に当てた。こびりついた緑色の苔を、カシカシと硬い音を立てて擦り始める。
哲平は黙って柄杓で水を足した。祖父の首筋には深いシワが刻まれ、シャツの背中が汗で肌にへばりついていた。
「哲平」
祖父はタワシを動かす手を止めずに言った。
「わしが死んだらな、こんな暑い時期にわざわざ来んでええぞ」
「……何言ってんのや」
「暑いやろ。お前、昔から暑いの嫌いやったからな。秋口の、涼しくなった頃に一回来てくれたらそれでええ」
タワシが石を擦る規則的な音が、蝉の声に混じって響いていた。
「てっちゃん、おみず」
タツキが哲平のズボンの裾を引っ張った。哲平は屈み込み、柄杓の柄をタツキの両手に握らせた。汗でぺたっとした小さな手の感触が指に伝わる。
「ほら、上からかけるんやで」
ふたりで持ち上げた柄杓から放たれた水が、再び石の頭を濡らした。タツキは「かかった!」と声をあげて笑い、祖父はその横顔を、小さく口を開けて見つめていた。
線香に火をつけると、独特の甘い煙が真っ直ぐ上へ伸びた。濡れた石と土の匂いが混ざり合い、熱気の中にわずかに低い匂いが残る。
哲平は手を合わせ、目を閉じた。
まぶたの裏で、熱を孕んだ赤い光がゆらゆらと揺れていた。蝉の声が耳の奥で途切れなく鳴り響いている。
目を開けると、黒御影石のフチに残った一滴の水が、太陽の光を吸い込んで小さく光り、静かに砂利へと落ちて消えた。
「帰ろか」
祖父が腰を伸ばしながら言った。
「おん」
哲平は空になったバケツを持ち直し、タツキの手を握った。
駐車場へ向かって歩き出すと、砂利が靴の下で鳴った。
タツキが何か言ったが、蝉の声にまぎれて聞こえなかった。
車のドアを開けると、中に溜まった熱気が顔にかかった。
哲平はタツキを先に乗せ、それから自分も乗り込んだ。




