付録2:軍事幾何学の系譜 ジョミニとカール・マルクス
1813年8月。北方軍司令部 タウエンツィーンが合流する数日前
「――したがって! 我が至高の戦略理論『大軍事作戦論』に基づけば、ナポレオンの機動線は、この作戦基地から引いた幾何学的な角度によって完全に予測可能なのです!」
各国の雑多な軍服がひしめく蒸し暑い司令部。その中央に置かれた巨大な地図の前で、一人の男が朗々とまくしたてていた。彼の名はアントワーヌ=アンリ・ジョミニ。
フランス軍でネイ元帥の参謀長を務めていながら、書類の提出遅れによる逮捕の動きに憤慨し、そのまま敵陣営へと亡命してきた男。みずからを「ナポレオンを解明した天才戦略家」と任じて憚らない人物である。
ジョミニは完璧に手入れされた口髭を誇らしげに撫でつけ、周囲を見回した。
「王太子殿下! これこそが、私が『ナポレオンの戦法』として世に送り出し、皇帝本人からも絶賛された普遍的原則、『作戦線の集中』にほかなりません。先のバウツェンで私がネイに授けようと試みながらも、彼の無能さゆえに潰えた、世界を支配する幾何学です!」
「……あの、殿下?」周囲の沈黙に、ジョミニの笑みが、わずかに引きつる。
その時、司令部の隅から「フン……」と、地を這うような冷たい鼻笑いが漏れた。プロイセン第3軍団を率いているビューロー将軍である。
彼は腕を組んだまま、氷のような視線でジョミニを睨みつけた。
「失礼ながらジョミニ男爵。貴殿が『ナポレオンの至高の戦法』と称して世に喧伝されているその大著……恐縮ですが、中身は1799年に我が弟ハインリヒが書いた『近代戦争システムの精神』の、いささか無邪気な模倣に過ぎないのではないかね」
「な、何を仰る! これは私が独自に――」
「言葉が過ぎますよ、模倣者殿。しかも、その本質をろくに理解もせぬまま借用されたと見える」
ビューローの静かだが、有無を言わせぬ確証に満ちた声に、ジョミニの肩がビクッと跳ねた。
「我が弟は、幾何学的なアプローチによって敵の補給路を断ち、無駄な流血を避けて勝利に至る『理性の勝利』を説いたのです。貴殿の軽薄な大著は、その高尚な理論に、ナポレオンの野蛮な暴力を無理やり継ぎ足して汚したものに過ぎません。他人の美しき数理を、簒奪者の暴力で歪め、その名前で売り出すとは……随分と面の皮が厚いことですな」
ビューローは感情の消えた目で、ただフッと短く息を吐き捨てた。
「そもそもジョミニ男爵、貴殿はよりによって、この私の前でその幾何学とやらをご披露なさるのか。ハインリヒめは、生前は実戦を一度も経験せぬまま、この兄に向けて堂々とその机上の空論を自慢してきたものですが……。まさか彼の死後、貴殿のような無神経な模倣者の手によって、それを披瀝されるとは夢にも思いませんでしたよ」
ビューローが言葉を終えると、 ジョミニの顔から、一気に血の気が引いていく。
ベルナドットがようやくカリ、と羽ペンを置いた。二人の視線が地図の上で一瞬だけ交錯する。
「ちょ、ちょっと待ってください! 私のレクチャーは!? 作戦線の交差する角度が――!」
必死に地図を指差すジョミニ。しかし、ベルナドットはスッと立ち上がると、ジョミニの手元にある『大軍事作戦論』を、まるでゴミを見るような目で一瞥し、冷たく言い放った。
「誰か。このロシア皇帝が推薦する『模倣者』を、総司令部へ強制送還しろ。ここは本物の軍事幾何学を実践している現場だ。偽物に割く椅子はない」
「は、はいっ!」プロイセンの巨漢の兵士たちが、ジョミニの両脇を容赦なく抱え上げる。
「離せ! 私は中将だぞ! 私の本の売り方がどれだけ素晴らしいか分かっていないのか! 100年後の歴史家は、みんな私の味方をするぞーーー!」ジタバタと足を暴れさせながら、司令部から引きずり出されていくジョミニ。
その哀れな叫び声が遠ざかる中、ビューロー将軍はふと、懐にある亡き弟ハインリヒの遺品――手垢で汚れた『軍事幾何学』のノートをそっと撫でた。
こうして、歴史家が決して書かない「北方軍の、ジョミニ完全無視事件」は幕を閉じた。
だが、司令部を叩き出されたジョミニの、あの惨めな負け惜しみは、のちに奇妙な形で現実となる。ハインリヒが遺した原作には、自国への毒舌や過激な国家統一論といった「厄介な政治色」がこびりついていた。
ジョミニの真の才能とは、そこから面倒な政治思想を綺麗に削ぎ落とし、ナポレオンの野蛮な戦術を混ぜ合わせ、現場の指揮官が喉から手が出るほど欲しがる『純粋な戦術マニュアル』へと見事に改変し、自らの名前で売り出したことだった。
他人のアイデアを盗んで大衆向けにパッケージし直した彼の『戦争術概論』は、国を問わずに使える名著として世界的なベストセラーとなった。ナポレオン成分によって大損害がでることはあったものの、やがて地球を二分する二大巨頭――アメリカ軍とロシア軍の軍事原則の原典として、彼の本は永遠に歴史に君臨することになる。
この夜、彼を力ずくでつまみ出したプロイセン軍人たちの冷たい視線など、最初からなかったかのように。
しかし、歴史の神の悪戯は、ジョミニの大勝利だけで終わりはしなかった。ジョミニがハインリヒの理論から政治色を抜いて世界に売った一方、歴史の裏舞台では、もう一つの怪物がそのオリジナルを貪り食っていた。
のちにプロイセンが生んだ思想家、カール・マルクスと、軍事オタクの相棒フリードリヒ・エンゲルスである。
彼らはハインリヒの「戦いは人間性や精神ではなく、物質的システムで100%決定する」という非情なロジックに、ジョミニとは真逆に、極限まで純度を高めた政治思想を注ぎ込んだ。
そして、ハインリヒの理論を経済の力へと置き換え、世界を塗り替える『唯物史観』――すなわち共産主義へと変貌させたのだ。
ジョミニによって政治色をなくし、ナポレオン成分を南北戦争で消化し、ハインリヒの純粋なシステムのみを取り入れた、アメリカ軍。
そして、ハインリヒのシステム決定論の政治思想を、強烈な階級闘争に組み入れて先鋭化させたソ連軍。
一人の不遇な天才の頭脳から始まったシステム論は、やがて地球を真っ二つに引き裂く冷戦という名の戦争の基軸となり、世界のすべてを支配することになる。
司令部からジタバタと引きずり出されていくジョミニの叫び声は、人間がシステムに完全に支配される時代の幕開けを告げていた。




