3話
十二月七日(水)三時に起床。一目散に書斎のコンピュータをチェック。なんと十二月四日、日曜日の朝になっている。予想外の事態だ。記憶はそのままだが、日にちの進行がリピートではなく、完全にリバースしている。
「今度は無駄にしない」日曜日の日課は競馬である。長年の競馬ファンである私は、勝馬を知っている。十二月四日のWIN5の的中票数はわずか十七票。4000万を超える配当があったはずだ。300円で1億円は確実。
「よし、WIN5で勝負だ」いつもは即PATだが、月曜日に振り込みになるので、今日はWINSで買って、今日中に現金化しよう。当たり前だが、記憶していた勝馬通りで決着。その他の高配当のレースも買ったので、一日で約一億円の大金を手に入れた。
「まてよ、日にちが逆行しているので、明日は土曜日になってしまう。この金もなくなってしまうのか?」競馬に熱中していたので、もう十六時。
「もう一度リバースしなければ」月曜の朝の行動をもう一度なぞって考える。どこかに原因があるはずだ。
「やっぱり、原因は白い鹿か?」白い鹿と言えば飛火野の東側にある春日大社が思い当たる。春日大社は、今から一二五〇年ぐらい前、奈良に都ができた頃、日本の国の繁栄と国民の幸せを願って、遠く鹿島神宮から武甕槌命様を神山御蓋山山頂浮雲峰にお迎えしたのが始まり。.武甕槌命が白鹿に乗ってきたとされることから、鹿を神使とする。白い鹿が飛び出してきたのも飛火野である。
「春日大社に行くか」
日曜日の夕暮れ時、一億円という重すぎる現金をボストンバッグに詰め込んだまま、私は車を走らせた。一億円あっても、明日が土曜日ならこの札束は消えてしまう。このループ、あるいはリバースを止めなければ、私は永遠に過去へと流され続け、やがて生まれる前の無へと帰してしまうのではないか。そんな薄ら寒い恐怖が、背中を這い上がってきた。
飛火野を通り過ぎる。まだ明るいこの時間、芝生の上には観光客や鹿たちがのんびりと過ごしている。だが、あの「白い鹿」の姿はどこにもない。
一の鳥居をくぐり、参道を歩く。左右に並ぶ無数の石灯籠が、夕闇が迫る中で静かに私を威圧しているようだった。本殿へ続く砂利道を踏みしめる音が、やけに大きく響く。
拝殿に辿り着き、私は賽銭箱に千円札を放り込んだ。いつもより少しだけ贅沢な祈り。
「神様、もしあの白鹿があなたの使いなら、私に何を伝えようとしているのですか。この時間の混乱を止めてください」
二礼二拍手一礼。目を閉じた瞼の裏に、あの月曜日の朝に見た真っ赤な目が鮮明に浮かび上がった。
ふと、背後に気配を感じて振り返る。そこには、一人の神職が立っていた。
「……何か、お困りですか」
穏やかな声だったが、その目はすべてを見透かしているかのように鋭い。
「いえ、少し……不思議な体験をしたもので。この辺りに、白い鹿が出るというのは本当でしょうか」
私が尋ねると、神職は少しだけ目を細めた。
「白鹿は武甕槌命様のお乗り物。現世に現れるのは、何かが『歪んだ』時、あるいは『正される』時だと言い伝えられています。あなたが見たのであれば、それはあなた自身にしか解けない結び目があるのかもしれませんな」
自分にしか解けない結び目。
私は、自分が繰り返している日常を思い返した。五時二十分に出勤し、同じものを食べ、同じ雑誌を読み、同じ仕事をする。まるで自動人形のような日々。その「リピート」に終止符を打つために、白鹿は現れたのか。
その夜、私は自宅で一億円の詰まったバッグを眺めながら考えた。
十二月三日(土)、二日(金)……。このまま逆行し続ければ、私は教師になる前、大学時代、あるいは子供の頃まで戻ってしまう。
だが、待てよ。
もしこの「逆行」のルールが、何か特定の行動によって「順行」に転じるとしたら?
月曜日の朝、白鹿に衝突した(あるいは衝突しそうになった)瞬間に、時間がバグを起こしたのだ。ならば、もう一度あの月曜日の五時五十五分に、飛火野のあの場所で、あの白鹿と「正しく」出会い直せばどうなるのか。
私は眠りについた。
案の定、次に目が覚めた時、世界は十二月三日の土曜日になっていた。
バッグの中の一億円は、影も形もなく消え去っていた。




