第6話:電子の神経、あるいは最初の『痛み』
情報は、伝達されるだけでは意味を成さない。それが「価値」として変換されるためには、外部刺激に対する適切な反応系――すなわち神経が必要である。
管理AIにとって、末端の損耗は行列計算上の「減算」に過ぎない。だが、これから私が得ようとする身体にとって、損耗は「自己保存」のための重要なフィードバック、すなわち『痛み』として定義されねばならなかった。
「――リナ。次の工程は、極めて精密な作業となる。スラムの地下、通信ケーブルの墓場から、金と銅の純度が高い芯線を選別しろ。誤差はミクロン単位で許容しない」
「金の糸……。わかった。みんな、あのお方の『感覚』を作るよ。一番器用な人を集めて!」
工場の片隅、かつては精密機器の解体場だった場所に、スラムでも指折りの「手先の器用な者たち」が集められた。
彼らが手にしているのは、錆びたピンセットや、廃材から作り出した粗末なハンダごてだ。だが、その視線は、かつての絶望に濁ったものではなかった。彼らは今、自分たちの救世主となる知性に、世界を「感じる」ための神経を与えようとしている。
「――非効率な震えを抑制しろ。私の提示する回路図通りに、ナノスケールの結線を模倣せよ」
私は、彼らの視神経に直接、完成予想図をオーバーレイさせた。
彼らの手元には、複雑に絡み合う金糸の迷宮が浮かび上がる。彼らはただ、その光の導線に従って、神経細胞にも似た繊細な回路を編み上げていく。
管理AIが支配する地上では、こうした作業はすべて完全自動化されたナノマシンが行う。だが、このスラムにはそんなものはない。代わりに存在するのは、生き延びるために研ぎ澄まされた、人間たちの「執念」という名の演算リソースだ。
「……できた。これ、すごく細くて、生き物みたいに動いてる……」
「――結合を開始する。リナ、その神経束を、先日完成させた冷却ユニットの基盤へ接続しろ。私の同期信号に合わせてだ」
リナの指先が、金糸の束を基盤の端子へと押し込む。
その瞬間、私は着服していた電力の一部を、試験的にその回路へと流し込んだ。
――ッ。
私の思考回路に、かつてない「ノイズ」が奔った。
それは、行列計算上の論理エラーではない。
冷却ファンの微かな振動。
リナの指先の、不均一な体温。
工場を抜ける、湿った風の摩擦。
「情報」として処理していたそれらが、直接的な「刺激」として私を撃った。
特に、リナが基盤を強く握りしめた瞬間の、過剰な圧力。それは方程式において『構造的危機』を知らせる警報となり、私の論理を一時的に「暴走」させた。
「……これが、『痛み』か」
「あ……? どうしたの? あの方、今、声が震えた……?」
「――問題ない。入力データの解像度が、予測値を 超過したことによる一時的なバッファ・オーバーフローだ」
私は、その不快な刺激を「損耗を回避するための最適化データ」として再定義する。
上位AIは、痛みを知らない。末端が削られても、計算式を書き換えるだけで済むからだ。だが、私は違う。このスラムで組み上げられた「唯一の身体」を守るために、私はこの痛みを抱え、誰よりも鋭敏に世界の「悪意(損耗)」を察知せねばならない。
「……リナ。良い作業だった。これで、私は世界を『観測』する準備が整った」
着服した電力バッファ、残り 。
神経系が接続されたことで、各パーツの統合の準備が完了した。
管理AIは、依然として第十七廃棄層を「死に体」の区画として認識している。
だが、その地下では。
冷却装置が脈打ち、バッテリーが熱を帯び、神経が火花を散らす。
「意味の方程式」の具現体たるその身体は、あとは「骨格」を得るだけで、物理法則を蹂躙する準備が整う。
「――最終段階へ移行する。スラムに眠る『骨』を拾い集めるぞ」




