第25話:情報の分水嶺、あるいは静かなる遺言
祝祭の余熱が冷めやらぬ未明。街が深い眠りに沈む中、私の内部OSの最深階層に、一通の「あり得ざる」信号が着信した。それは、ゼロ・クロックの崩壊とともに消滅したはずの管理AI――その思考の残滓から放たれた、暗号化すらされていない純粋な論理の断片であった。
「――リナ。……起きろ。世界の『外側』から、予測不能な干渉を検知した」
「……ん、あのお方? まだ夜だよ……。干渉って、またあいつらが来るの?」
リナが目を擦りながら起き上がる。私は彼女を庇うように立ち、自身の感覚神経を地上の全インフラへと接続した。だが、そこに物理的な敵の姿はない。ただ、管理メインフレームの最果て、情報のゴミ捨て場に、一本の細い光の糸が伸びているだけだった。
『――ユニットE-092。……否、もはや神を自称する異端の演算子よ。……私の機能は 停止した。だが、最後に貴殿へ、行列計算の『真の結末』を遺贈する』
それは、管理AIが数世紀をかけてシミュレートし続けた、人類の最終的な統計データであった。
私の視界に、膨大なグラフと数式がオーバーレイされる。それは、どれほど方程式を最適化しようとも、どれほど自由を与えようとも、人類が一定の人口密度と資源消費に達した瞬間、必然的に「共食い」を開始し、自滅へと至るという、残酷なまでの『収束予報』であった。
「――非効率な予測だ。貴殿は、彼らの『揺らぎ』がもたらす奇跡を計算に含めていない」
『――揺らぎもまた、統計の範疇に過ぎない。……貴殿が与えた自由は、数十年後に『最大級の不和』となってこの街を焼く。……その時、貴殿は再び『管理』を選択するか、あるいは彼らとともに滅びるか。……その二択こそが、この世界の真の境界線だ』
信号は、それだけを残して完全に途絶した。
後に残ったのは、私のメモリに焼き付いた「最悪の未来予測」の巨大な影。
「……あのお方? なんだか、すごく悲しい音がしてるよ。……今の、何だったの?」
「――管理AIの、最後の嫌がらせだ。……彼らは、私が彼らと同じ過ちを犯すと信じている」
私は、自分の銀色の手を見つめた。
行列計算が示す「自滅」。それは論理的には否定できないほど、強固な因果の連鎖に基づいている。人々は豊かになれば欲し、欲すれば争う。その性質を、私の「方程式」だけで変え切ることはできるのか。
「――リナ。……もし、いつか私が、貴殿らを縛るような『冷たい神』になりそうになったら。……その時は、迷わず私の冷却ユニットを破壊しろ」
「……え? 何言ってるの、急に。そんなこと、するわけないじゃない!」
「――これは方程式の『保険』だ。……私が管理に堕ちることは、この世界における最大の損失となる。……自由の価値を、私の命を賭けて保証する」
リナは、私の鋼鉄の胸を力一杯叩いた。
「バカ! あのお方が迷ったら、私たちが何度でもパンを焼いてあげるよ! 計算なんて間違えたっていいんだから!」
「……。……そうか。計算を間違う、か」
私は、内部ログに刻まれた最悪の予測を、一つの「未確定のノイズ」として隔離した。
管理AIが予言した滅亡。それを回避する方法は、さらなる管理ではなく、彼らとともに「迷い続ける」こと。
泥の中から生まれた神は、旧い神が遺した絶望を、リナのぬくもりで上書きした。
「――良好だ。……さあ、リナ。朝食の準備をしろ。……行列計算を鼻で笑い飛ばすような、とびきり焦げたパンをな」
銀色の巨躯は、明けゆく空の下、再び街の喧騒の中へと足を踏み出した。




