番外編:完全定時退勤と、地獄猪(ヘルファイア・ボア)の黄金カツレツ
飯テロです
「……本日の業務は、これにて終了」
十七時〇〇分〇〇秒。
ギルドの魔導時計が退勤の鐘を鳴らしたその瞬間、私は窓口のシャッターを完璧な速度で下ろした。一切の遅滞も、一ミリのブレもない。
前世のコールセンター時代から培ってきた、私の最も美しく、最も神聖な動作だ。
今日の私は、極めて機嫌が良い。
なぜなら、いつも私の背後で「アイラさぁん!」と尻尾を振ってついてくる大型犬——後輩のルークが、今日は本部での研修で不在だからだ。
彼には悪いが、誰にもペースを乱されず、自分の歩幅と最適化された経路で目的地へ向かえるソロ稼働は最高に快適である。
私は「完璧な受付嬢」の仮面を外し、夜の王都へと足を踏み出した。
今夜のターゲット(目的)はすでに決まっている。
王都の東区、職人街の裏路地にひっそりと佇むドワーフの洋食屋『燻り窯』。
(……今日の胃袋の要求は、圧倒的な『暴力』よ)
上品なコース料理でも、あっさりとした魚料理でもない。
理性を吹き飛ばすような、ジャンクで、カロリーの暴力に満ちた一皿。それこそが、今日一日、クレームと事務処理に耐え抜いた私のメンタルHPを回復させる唯一の手段だ。
裏路地を抜け、重厚なオーク材の扉を開ける。
店内には、香ばしいニンニクの香りと、肉が焼ける暴力的な匂いが充満していた。
「いらっしゃい、嬢ちゃん。今日も一人かい?」
「ええ、親方。いつもの奥の席へ」
カウンターの隅、厨房の熱気が直接伝わってくる特等席。
私はメニューを開くこともなく、明確かつ簡潔にオーダー(発注)を告げた。
「『地獄猪の厚切りカツレツ』。ソースは焦がしバターと濃厚チーズのダブルがけ。それと、山盛りのキャベツと、一番冷えているドワーフ・エールをジョッキで」
「おう! 疲れた身体には最高の選択だな。すぐに出すぜ!」
注文を終え、私は目を閉じた。
ここからは、全感覚を研ぎ澄ます『アクティブ・リスニング(積極的傾聴)』の時間だ。
厨房から聞こえてくる、分厚い肉に衣をまぶす音。
そして、高温に熱されたラードの海へ、肉が投下される破壊的なサウンド。
——ジュワァァァァァァッ!!
(……あぁ、なんて素晴らしい周波数。クレーム客の怒鳴り声とは比べ物にならない、極上のヒーリング・ミュージックね)
弾ける油の音を聴きながら、私は冷えたジョッキのエールを一口煽る。
喉の奥を駆け下りる強烈な炭酸と、ホップの深い苦味。カラカラに渇いていた食道の粘膜が、歓喜の産声を上げるのを感じる。
「お待ちどお! ヘルファイア・ボアの黄金カツレツだ!」
親方が、熱々に熱された鉄板を私の前にドン、と置いた。
「…………っ!」
私は思わず息を呑んだ。
鉄板の上で、黄金色に輝く巨大なカツレツが、暴力的なまでの存在感を放っている。
厚さはおよそ三センチ。サクサクに揚がった衣の上には、バーナーで炙られたトロトロの濃厚チーズが雪崩のようにかかり、さらにその上から、ニンニクの効いた焦がしバターのグレイビーソースが『ジュージュー』と音を立てて煮えたぎっている。
湯気と共に立ち昇る、肉の獣っぽさと、チーズの芳醇な香り、そしてニンニクの刺激。
視覚、聴覚、嗅覚。すべての感覚器官が「早く食え」と緊急警報を鳴らしている。
私はナイフとフォークを手に取り、カツレツの中央に刃を入れた。
——サクッ、ザクゥッ。
完璧な抵抗感。
衣を突破し、弾力のある肉を断ち切ると、断面から透明な肉汁が滝のように溢れ出し、鉄板の上でソースと混ざり合って弾けた。
地獄猪は、常に熱を帯びた魔力を持つため、その肉は驚くほど柔らかく、脂身には強烈な甘みが凝縮されているのだ。
私は、チーズとソースがたっぷりと絡んだ一口大の肉を、フォークで突き刺し、そのまま口へと運んだ。
「……〜〜〜〜っ!!」
(……KPI(重要業績評価指標)、達成)
口の中に入れた瞬間、熱々の衣がサクッと崩れ、中から尋常ではない量の肉汁が爆発した。
赤身の野性味あふれる強烈な旨味。それに負けない、ガツンと脳を殴るようなニンニクバターの塩気。さらに、それらを円やかに包み込む、とろけるチーズの圧倒的なコク。
噛めば噛むほど、肉の繊維から無限の旨味が溢れ出し、口内が暴力的なまでの「美味」で支配されていく。
(なんて凶悪な味……! これよ、私が求めていたのはこの圧倒的なカロリーの質量! 理不尽なクレームも、終わらない事務処理も、この一口の肉汁の前では塵芥に等しいわ!)
私は脂でテカテカになった唇を舐め、すかさず冷えたエールを流し込む。
濃厚な肉の脂が、冷たい炭酸によって胃袋へと勢いよく洗い流されていく。この「重たい肉」と「爽快な酒」の無限ループ(サイクル)。これこそが、大人の特権だ。
「……ふぅ」
一息つき、鉄板の隅に盛られた千切りキャベツに手を伸ばす。
カツレツから溢れ出た肉汁と、焦がしバターソースをたっぷりと吸い込んだキャベツ。もはやこれは野菜ではなく、立派な『肉の副産物』だ。シャキシャキとした食感が、見事な口直し(リセット)として機能する。
(ルークがいたら、きっと『アイラさん、そんなに食べて太らないんですか?』なんて野暮なことを聞いてくるでしょうね。……ええ、太らないわよ。私のカロリーはすべて、あの窓口での【営業用スマイル】と【トークコントロール】で消費されているのだから)
カツレツを切り、食し、エールで流し込む。
誰とも喋らず、ただ目の前の「食」とだけ向き合う、神聖な時間。
前世の言葉で言えば、一軒の店で完璧な満足感を得る『FCR(一次解決率)一〇〇%』の達成だ。
最後の一切れを口に放り込み、ジョッキの底に残ったエールを飲み干す。
「……ごちそうさまでした。完璧な品質だったわ、親方」
「へへっ、嬢ちゃんのその食いっぷりを見てると、こっちまで気持ちよくなるぜ!」
銀貨をカウンターに置き、私は店を出た。
夜風が、火照った頬を冷やしてくれる。
胃袋の中には、地獄猪の重厚な命の質量が、確かに収まっている。
「……さて。明日も定時で帰るために、一歩も動かず世界を回してやろうじゃない」
私は満足げに唇の端を吊り上げ、月明かりの王都を、羽が生えたような足取りで歩き出した。
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次回お楽しみに。




