第28話:コンプライアンスの襲来と、長すぎる同意書
新シリーズです!
「……現在の平均処理時間(AHT)、一四分三〇秒。平時の約五倍ね」
私は壁の魔導時計を睨みつけながら、脳内で絶望的な計算を弾き出していた。
時刻は十五時。通常であれば、夕方のピークに向けて事務処理のペースを上げ、完璧な退勤シークエンスへの助走を始める時間帯だ。
今日の私のターゲットは、大通り裏の洋食屋『赤煉瓦』が誇る、特大のドワーフ牛ハンバーグ。ナイフを入れた瞬間に溢れ出す肉汁と、三日煮込んだ濃厚なデミグラスソース。それに焼きたてのパンを合わせる至福の時を、私は朝から心待ちにしていたのだ。
だが、現在のギルドのフロアは、まるで暴動寸前のスラム街のように荒れ狂っていた。
「おい! さっきから何回同じことを読ませるんだ! 俺はただ、このゴブリンの耳を換金してエールが飲みてえだけなんだよ!」
「も、申し訳ございません! しかし、本部の新しい規定でして……っ! ええと、『第三項、当ギルドは冒険者様の魔物討伐に係る位置情報、および取得素材の流通経路に関する個人情報を、厳重に保護し——』」
隣の窓口で、顔を真っ赤にした荒くれ者を前に、ルークが泣きそうな声で分厚い羊皮紙を読み上げている。
原因は、フロアの中央でふんぞり返っている一人の男だった。
王都本部から派遣された内部監査官、フィデル。
撫で付けた金髪に、高価な仕立てのスーツ。彼は手にした銀のステッキで床を叩き、苛立った冒険者たちに向かって声を張り上げた。
「静粛に! これは君たち冒険者を守るための『コンプライアンス(法令遵守)』なのだ! 近頃、ギルドの個人情報管理が甘いという指摘が相次いでいる! 本日より、すべての窓口対応の前に、この『個人情報取り扱い同意書』の読み上げと、直筆の署名を義務付ける! ゼロ・トレランス(例外なき規則適用)だ、一切の妥協は許さん!」
……馬鹿なのだろうか、あの男は。
コールセンターにおいて、法令を守るためのスクリプト(台本)は確かに存在する。だが、顧客の状況や理解度を完全に無視し、ただ機械的に長文を読み上げさせるだけのそれは、もはや『形骸化したマニュアル』でしかない。
顧客のストレス値を無駄に跳ね上げ、窓口の回転率を物理的に崩壊させる、最悪のボトルネックだ。
「アイラ君。君の窓口は少しペースが速いようだが、まさか読み上げを省略したりはしていないだろうね?」
不意に、フィデル監査官が私の窓口へ近づいてきた。
彼特有の、ねっとりとした嫌味な声。
私は即座に『営業用スマイル・タイプC(表面的な服従と完璧な防御)』を顔に貼り付け、淀みなく答えた。
「滅相もございません、フィデル監査官。私は規定通り、一文字の漏れもなく二分間の同意書読み上げを実行しております。ただ、発声における『滑舌の最適化』と『息継ぎの排除』により、ルークよりも一分早く処理を終えているだけです」
「ふん。まあいい、コンプライアンスは絶対だ。ルールの遵守こそが、組織の品質(QA)を保証するのだからな」
フィデルが満足げに頷き、背を向けたその時。
私の【残響の波紋】が、彼の言葉の「色」を鮮明に捉えた。
——濁っている。
「コンプライアンス」や「組織の品質」と口にする彼の声の波紋は、正義感の青でも、規則を重んじる白でもない。
まるで腐った沼の底のような、粘り気のあるドス黒い緑色。それは典型的な【私欲と欺瞞(嘘)】の色だった。
(……なるほど。この男、ルールのためにルールを作っているわけじゃないわね)
私は周囲を見渡した。
長すぎる同意書のせいで、窓口の受付嬢たちは全員パニックに陥り、フロアの警備員たちも怒り狂う冒険者たちの宥め役に駆り出されている。
今、ギルドの裏側——素材の搬入口や金庫室の警備は、かつてないほど手薄になっていた。
(わざと窓口を混乱させて、大行列を作り出している。……その間に、誰の目も届かない場所で『何か』をしているのね)
時計の針は十五時半を回ろうとしている。
このままでは、私のハンバーグが物理的に消滅する。それだけは、世界の理が崩壊しようとも絶対に阻止しなければならない。
「……ルーク」
私は隣で息も絶え絶えになっている相棒に、カウンターの下からそっとメモを滑り込ませた。
「ひっ!? あ、アイラさん、なんですかこれ……?」
「いいから、次の同意書を読み上げている間に目を通しなさい。……そして、十七時までにその『証拠』を私のデスクに揃えること。さもないと、明日のあなたの昼食は、素材用の乾燥スライムになるわよ」
ルークの顔が青ざめる。
私がメモに記したのは、単純明快な指示だった。
『裏の第三倉庫の【魔物素材の在庫帳簿】と、本日の【搬出記録】を照合しなさい。特に、窓口が最も混雑していた十四時台の記録を』
コンプライアンス(法令遵守)を盾にするなら、その盾の裏側に隠した埃を、規則という名の箒で一網打尽に掃き出してやる。
「さあ、業務再開よ。……次の方、どうぞ。当ギルドのコンプライアンス規定に基づき、長々しい同意書を読み上げさせていただきます」
私は一切の感情を排した声で、反撃のスクリプトを回し始めた。
十七時の定時の鐘と共に、あのふんぞり返った監査官の首に、彼自身が編み上げた「ルールの縄」を巻きつけてやるために。
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次回お楽しみに。




