第2話 恵華山
当たり一面の雪化粧を前に、雪玲は上掛けの襟元を手繰り寄せた。義父が北方の遊牧民から仕入れた獣皮の上着は肌馴染みもよく暖かいが、外気の寒さには勝てない。もう一枚、内衣を着てこれば良かったと後悔する。
(やはり、取りに戻るべきでしょうか)
振り返ると銀世界の中、先程、出立したばかりの屋敷がぽつんと点在していた。今なら取りに戻っても夕方までには帰宅できるはず。来た道を帰ろうとするが一歩踏み出したところで頭を振った。
(香蘭に見つかってしまうかもしれません)
せっかく、義弟が香蘭の気をひいてくれたのに戻っては水の泡だ。屋敷を抜け出して、鴆に会いにいったと知られれば、香蘭の監視は更に厳しくなるだろう。
「このまま進んだほうがいい、ですよね」
息を吐くと、雪玲は腕を擦りながら、愛しい鴆の巣穴へと歩き出した。
*
鴆の巣は木や岩の隙間に作られる。彼らは己の羽と泥を混ぜ固めて、外敵から卵を守る毒の防御壁を作る。泥を混ぜるのは羽の毒によって巣を設置した場所が溶けないようにするためだ。……それでも周囲の空気や土は汚染されるため、鴆が住処と選んだ場所の周囲には草木一つ生えてこない。
恵華山に住む、かつて董家が所有していた鴆達は洞穴を住処に選んでいた。
洞穴に近付く度に肺が圧迫されるように、呼吸が苦しくなるのを感じながらも雪玲は臆することなく歩を進めた。常人ではこの距離で死んでいるだろうが雪玲には問題ない。身体は弱いとはいえ、これでも董家の血をひく人間だ。
(おかしいですね)
いつもより息苦しさは感じられず、平常のように軽快な身体に、雪玲は心の内で首を傾げた。
(やはり、毒が弱まっている。食べ物が見つからなかったのでしょうか)
冬場のため、鴆の主食である毒蛇や毒虫が見つからないにしても例年より毒素が薄い事に雪玲は柳眉をひそめる。これでは密猟者に「獲ってください」といっているようなものだ。
(ここが董家ならこんな事はなかったのだけれど……)
董家は冬でも毒性を一定に保つため毒を含む動植物の育成にも力を入れていた。
けれど、ここは自然界。こればかりはどうしようもないが、毒という防衛手段を失えば、絶滅までの期間が短くなるという事。雪玲が解決策を考えつつ、歩を進めると洞穴に辿り着いた。
それと、ほぼ同時に無数の羽音が雪玲を襲う。木々が揺れる音に酷似しているこの羽音は鴆が敵を威嚇する時に発する音である。
「久しぶりですね。昨夜は酷い吹雪でしたが大丈夫でしたか?」
優しく声をかけると羽ばたきは静まり、代わりに軽やかなさえずりが周囲に響き渡った。
鴆は鳥類の中でも賢い部類に入る。犬程ではないが、簡単な言葉を理解し、飼い主の顔を区別する程度には知恵が備わっていた。現に、声の主が雪玲だと知ると洞窟から姿を表し、嬉しそうに喉を震わせた。
健気な姿に頬を綻ばせつつ、雪玲は背負った袋から皮製手袋を取り出した。素手でも触れれるが長時間の接触は体調を崩す原因になる。それを防ぐためだ。
手袋を装着した手を伸ばすと集団の中から小柄な鴆が飛びついてきた。
「あら、蓮華。あなたは本当に速いですね」
手に止まった蓮華はくるくると喉を鳴らす。甘えん坊の彼女は雪玲が会いに来るたび、一目散に駆け寄って来てくれる。
続いて寂しがりやの椿と薊が雪玲の足元を飛び跳ねて存在を主張し始めた。どうやら雪玲が蓮華ばかり可愛がっているのが不服なようだ。
開いてる片手で二羽の背を交互に撫でながら雪玲は集まる鴆達の数を数え始めた。
「……ひい、ふう。……あら?」
数が足りないのでもう一度、数えてみる。
「……とお。……ひい、ふう」
全八十二羽。やはり一羽足りない。
また、誰か越冬できなかったのかと雪玲は花顔を曇らせた。誰がいなくなったのか、一羽一羽の顔を見て、名前と照らし合わせる。
いなくなったのは一番正義感の強い馬酔木だと気付いた。
「馬酔木はどこですか?」
雪玲の足に体を添わせて甘える蓮華に問いかける。問いかけの意味は分からなくても馬酔木という名が誰を指すのか理解している蓮華は地面を飛び跳ねながら山中へと向かった。
(山の奥、ということは密猟者でしょうか……)
馬酔木はこの群れの頭であり、持ち前の正義感もさる事ながら恵まれた体躯の持ち主だ。今までも勇敢に密猟者と対峙して仲間を守っていた。
そんな彼が仲間を放っておいて一羽で遠くにいくはずない。
(まさか、ひとりで?)
雪玲の脳裏に最悪な光景が過ぎ去った。いいや、違う。馬酔木が殺されるわけがないと自分に言い聞かせても、一度、浮かんだ悲観的な未来は簡単には覆せない。馬酔木の無事を願い、早足で蓮華の後を追いかけた。




