その聖剣、私には抜けません
カランと軽やかなドアベルの音と共に、焼きたてのスコーンと淹れたてのハーブの香りが店内に満ちる。
王都の路地裏に佇む小さなカフェ「フラワーローズ」。
店主のライザはカウンターの内側で丁寧にカップを磨きながら、訪れた最初の客に微笑みかけた。
「おはようございます、エルマさん。今朝は冷えますね」
「本当だよ、ライザちゃん。年寄りには堪えるねぇ。いつものカモミールティーと、焼きたてのスコーンを一つちょうだい」
常連客の老婆エルマはいつもの窓際の席に腰を下ろす。
ライザは手際よくティーポットにお湯を注ぎ、黄金色のカモミールティーと湯気の立つスコーンを彼女の元へ運んだ。
「どうぞ、ごゆっくり」
その後も次々と客が訪れ、十数席ほどの小さな店内はすぐに賑わいを見せ始める。
客たちの会話のほとんどは、王国を蝕む災厄「魔力の淀み」と、一向に進展のない聖剣の儀式についてだった。
「また今日も、聖剣を抜けた者はいなかったそうよ」
「一体いつになったら、国を救ってくださる勇者様は現れるのかしら…」
不安げな声が飛び交う中、ライザは黙って客の注文を聞き、コーヒーを淹れ、お菓子を運ぶ。
彼女は内心で深くため息をついていた。
その話題に触れたくない。
自分には関係のないことだと、必死に自身に言い聞かせながら。
昼過ぎ、鎧が擦れる微かな音を立てて、大柄な男性が店に入ってきた。
近衛騎士団長のルッチだ。
非番なのか、いつもの厳めしい表情は少しだけ和らいでいる。
彼がカウンター席に腰を下ろすと、他の客たちが少しだけ緊張した空気を漂わせたが、ルッチはそれを気にする素振りも見せない。
「ライザ、いつものブレンドを頼む」
「はい、ルッチ様。今日は少し肌寒いので、体を温めるジンジャーを多めにしてみました」
ライザが差し出したカップから立ち上る湯気を、ルッチは静かに見つめている。
二人の間には言葉はなくとも通じ合う、穏やかな空気が流れていた。
ルッチはカップを一口すすると、重い口を開いた。
「城の空気は最悪だ。誰も聖剣を抜けん。焦りと苛立ちばかりが募っている」
「…そうですか」
ライザはただ、そう相槌を打つことしかできなかった。
ルッチは騎士団長としての責務からか、淀みの被害状況をぽつりぽつりと語り始めた。
「東の国境地帯の被害が拡大している。淀みの影響で土地は痩せ、森の動物たちが凶暴化して人を襲い始めたそうだ。騎士団から派遣した調査隊からの報告も芳しくない」
その言葉を聞きながら、ライザは無心にカウンターを拭いていた。
しかし、その指先は誰にも気づかれないほど微かに震えている。
彼女の脳裏に、忘れたはずの過去が鮮明に蘇っていた。
宮廷魔術師団に所属していた頃、彼女は誰よりも早く魔力の淀みの危険性に気づき、その性質と浄化方法に関する画期的なレポートをまとめていた。
しかし、当時の上司であり宰相の息子でもあるディルは、ライザの才能に嫉妬し、その功績を認めようとはしなかった。
彼はレポートを握りつぶし、あたかも自分の研究成果であるかのように上層部に報告した。
そして、ライザが儀式魔法で犯した些細な制御ミスを針小棒大に吹聴し、「これほどの魔法も扱えぬ無能」という烙印を押して、彼女を宮廷から追放したのだ。
『力は、幸せになどしてくれない。他人の嫉妬と、組織の束縛を生むだけだ』
追放された日、王城の門を一人で出ながら、ライザは固く誓った。
二度と、この力を使うものか。
二度と、誰かの注目を浴びるような生き方はしない。
この王都の片隅で、誰にも知られず、静かに生きていく。
それこそが自分の幸せなのだと。
「ライザ…」
ルッチの心配そうな声に、ライザははっと我に返る。
彼の深い色の瞳がじっとこちらを見つめていた。
彼は、ライザの過去を知る数少ない人物の一人だった。
「無理はするな。お前はもう、あんな場所に戻る必要はないんだ。お前には、ここで笑っていてほしい」
「ええ、分かっています。私はもう、ただのカフェの店主ですから」
ライザは無理に笑顔を作って見せた。
その笑顔がひどく脆いものであることに、ルッチは気づいていた。
その日の営業が終わり、ライザが一人で後片付けをしていると、店のドアが乱暴にノックされた。
こんな夜更けに誰だろうと、訝しみながらドアを開ける。
そこには、宮廷の紋章が入った豪奢な鎧を身につけた使者が二人、無表情で立っていた。
彼らはライザの顔を一瞥すると、事務的な口調で告げた。
「カフェ『フラワーローズ』店主、ライザ。汝に、国王陛下からの召集令状を申し渡す。明後日執り行われる聖剣の儀式へ出頭せよ」
使者の一人が、羊皮紙の巻物を無造作にライザへと突きつける。
そこには、国内に在住する全ての魔力保持者を対象とした強制力のある召集命令が記されていた。
拒否権はない、とも。
ライザは血の気が引くのを感じた。
全身が冷たくなり、呼吸が浅くなる。
守りたかった平穏な日常が、たった一枚の紙によって音を立てて崩れ去っていく。
「…承知、いたしました」
震える手で令状を受け取ると、使者たちは機械的に一礼し、すぐに夜の闇へと姿を消した。
ライザは令状を握りしめたまま、その場に立ち尽くす。
どうして。
どうして、また私を巻き込もうとするのか。
私はもう、何も持っていないのに。
いや、何も持ちたくないのに。
カフェの温かい明かりが、今はひどく頼りなく感じられた。
その夜、ライザが店の明かりもつけずに一人でうなだれていると、再び店のドアが静かに開いた。
心配そうな顔をしたルッチが立っていた。
彼は宮廷の使者が街を巡回しているという噂を聞きつけ、ライザの身を案じてやってきたのだ。
「…令状が、来たそうだな」
暗闇の中、ルッチは静かにライザの隣の椅子に腰を下ろす。
ライザは顔を上げることができない。
ただ、小さな声で「はい…」と答えるのが精一杯だった。
ルッチは彼女の心の傷の深さを知っているからこそ、軽々しい励ましの言葉をかけることができなかった。
彼はしばらく黙っていたが、やがて意を決したように口を開いた。
「儀式は、ただ行けばいい。お前がお前である必要はない。誰も、お前に何かを強制することはできん。ただ、そこにいて、やり過ごせばいい」
それは、彼女の秘密を知る彼だからこそ言える最大限の配慮の言葉だった。
ライザはゆっくりと顔を上げる。
ルッチの瞳には深い憂慮と、彼女を心から案じる優しさが宿っていた。
「ありがとう、ございます…ルッチ様」
ライザは、やっとのことで微笑んだ。
しかし、その笑顔は月の光に照らされてどこか儚く、握りしめられた彼女の指先は冷たく震えていた。
ルッチはその震えを見逃さなかったが、それ以上何も言うことはできなかった。
* * *
儀式の当日、ライザは意図的にみすぼらしい格好を選んだ。
いつもカフェで身につけている、洗いざらしの地味な茶色のワンピース。
髪も飾り気なく後ろで一つに束ねただけだった。
きらびやかなドレスや真新しい騎士の礼装、豪奢なローブを身にまとった魔術師たちが集う王城の中庭で、彼女の姿は明らかに浮いていた。
まるで美しい庭園に紛れ込んだ雑草のようだった。
受付で「カフェ店主、ライザです」と名前を告げると、係の役人は侮蔑とも憐憫ともつかない視線を一瞬だけ向けた。
「あちらの列の最後尾へ」
役人は顎で示した。
ライザは言われた通り、参加者の長い列の最も後ろに静かに並ぶ。
周囲からは「なんだあの女は」「場違いにもほどがある」「平民風情が何を勘違いしたのか」といったひそひそ話が聞こえてくるが、彼女は一切耳を貸さずただ自分の番が来るのを待っていた。
その時、壇上から甲高く人を不快にさせる声が響き渡った。
「おい、見ろ。あれは誰だ?どこかで見た顔だと思ったら…」
声の主は、儀式の責任者としてふんぞり返っているディルだった。
彼はライザの姿を認めると、わざとらしい驚きの表情を作り、取り巻きの貴族たちを引き連れてにやにやと笑いながら近づいてきた。
「これはこれは、ライザじゃないか。宮廷を追放された無能が、まだ王都に寄生していたとは驚きだ。物乞いにでも来たのか?」
ディルの言葉に、周囲の貴族たちがどっと下品な笑い声を上げる。
ディルの隣に立つ父親の宰相も、まるで汚物でも見るかのような目でライザを睨みつけていた。
ディルは逃げ場のないライザの目の前に立つと、わざと周囲の全員に聞こえるような大声で、彼女の尊厳を踏みにじる言葉を続けた。
「聖剣の儀式は、国を救う英雄を選ぶための神聖なものだ。お前のような魔力の澱…いや、魔力のかすすら持っているか怪しい者が参加するなど、聖剣に対する冒涜だ。おこがましいとは思わないのか?」
侮辱の言葉の雨を浴びながらも、ライザは表情を一切変えなかった。
彼女はディルと視線を合わせることもせず、ただ静かに頭を下げた。
「召集令状をいただきましたので、国民の義務として参りました」
感情のこもらない淡々とした声。
その無抵抗な態度が、ディルの嗜虐心をさらに煽った。
「義務、か。結構なことだ。まあいい、せいぜい我々の貴重な時間を無駄にしないことだな。すぐに終わらせろよ」
ディルはそう吐き捨てると、満足げに壇上へと戻っていった。
中庭の隅で警護にあたっていたルッチが、その一部始終を苦々しい表情で見つめていた。
彼の眉間には深い皺が刻まれ、腰の剣の柄を握る拳は怒りで白くなっている。
儀式の最中でなければ、騎士団長の立場を忘れてディルの胸ぐらを掴み上げていただろう。
しかし彼にできるのは、ただ歯がゆい思いで耐えることだけだった。
やがて長い列が少しずつ進み、ついにライザの番が来た。
彼女は静かに聖剣が突き刺さった台座へと歩み寄る。
間近で見る聖剣は、神々しいほどの輝きを放っていた。
ライザには、その剣身の奥に渦巻く清浄で強大な魔力の奔流を感じ取ることができた。
まるで聖剣が彼女の魂に直接呼びかけてくるかのようだ。
『来たか、我が主よ』
ライザは一瞬だけ目を閉じ、その甘美な呼びかけを振り払うように、自身の体内に流れる魔力回路を完全に閉ざした。
全ての力を心の奥底に封じ込め、ただの非力で無知なカフェの店主になりきる。
そして、震えも期待も感じさせない落ち着いた仕草で、聖剣の柄にそっと手を触れた。
ライザが触れても、聖剣は微動だにしなかった。
まるで台座と一体化したただの石の彫刻のようだ。
周囲から「やっぱりな」という安堵と嘲笑の混じった空気が流れる。
ライザはすぐに手を離すと、壇上のディルに向かって深々と一礼した。
「やはり、私のような者には力が足りないようです。お役には立てませんでした」
その言葉を待っていたとばかりに、ディルは腹の底から笑い声を上げた。
「当然の結果だ!時間の無駄だったな!さっさと失せろ、無能め!二度とその汚い顔を我々の前に見せるな!」
ライザはディルの罵声にも動じず、もう一度静かに一礼すると、何事もなかったかのように背を向けその場を去ろうとした。
その小さな背中に、貴族たちの心ない嘲笑が容赦なく突き刺さる。
ルッチは悔しさに奥歯を強く噛みしめていた。
王城の重い門をくぐり抜けた瞬間、ライザは大きく安堵のため息をついた。
「これで、終わり…」
彼女は自分の愛するカフェへと足を速める。
これでまた、あの穏やかな日常が戻ってくる。
そう、心の底から信じていた。
カフェに戻り、自分自身を落ち着かせるために一番好きなアールグレイを淹れていると、突如外が騒がしくなった。
ゴーン、ゴーンと王都中に、不吉な早鐘の音が鳴り響く。
ライザが不安に駆られて窓の外を見ると、人々が広場の掲示板に殺到し口々に何かを叫んでいるのが見えた。
その日の夜、緊急の号外が配られた。
そこには王国を震撼させる報せが記されていた。
東の国境地帯にある砦が、魔力の淀みの影響で異常発生した大規模な魔物の群れに襲撃され、半壊状態に陥ったというのだ。
さらに、ルッチ率いる近衛騎士団の精鋭部隊が救援に向かったものの、魔物の勢いは凄まじく、かつてないほどの苦戦を強いられている、と。
翌日から、王都には東部からの避難民が雪崩のように流れ込み始めた。
彼らは家財を失い、着の身着のままで、疲れ果て絶望した表情をしていた。
ライザは黙ってカフェのドアを開け放ち、有り合わせの材料で温かいスープとパンを作り、避難してきた人々に無償で提供し始めた。
あっという間に、彼女のカフェは避難民で溢れかえった。
彼らは震える声で故郷の惨状を語った。
「家も畑も、何もかもが黒い淀みに飲み込まれてしまった…」
「見たこともないほど巨大で、凶暴な魔物だった。騎士団の方々が命がけで戦ってくれているが、数が…数が多すぎるんだ…」
ライザは彼らの話に黙って耳を傾け、空になったスープ皿に新たなおかわりを注ぎ続けた。
自分が守りたかった「穏やかな日常」。
それは、もはや王国のどこにも存在しないのだと彼女は痛感させられた。
自分が無能を演じることで守れる平穏など、最初から幻だったのかもしれない。
自分の偽りの平穏は、今まさに前線で血を流しているルッチや騎士たち、そして故郷を追われたこの人々の犠牲の上に成り立っていただけではないのか。
一人の幼い少女が、母親の服の裾を握りしめながら、ライザを見上げていた。
その怯えた瞳が、ライザの心の奥を突き刺す。
* * *
東の砦からの戦況報告は、日を追うごとに絶望の色を濃くしていった。
王城に駆け込む伝令の騎士は皆、泥と血にまみれ、その報告は常に「魔物の勢いは衰えず」「騎士団の消耗は激しく」といった言葉で締めくくられた。
王都の空気は、鉛のように重く沈んでいく。
ライザのカフェ「フラワーローズ」は、もはやカフェではなく、避難民たちのための炊き出しと休息の場と化していた。
彼女は夜もろくに眠らず、オーブンでパンを焼き、大鍋でスープを煮込み、人々に配り続けた。
エルマをはじめとする常連客たちも、自分たちにできることをと、食材の差し入れや配膳の手伝いを申し出てくれた。
そんなある日の午後、息を切らした一人の若い兵士が、カフェに転がり込んできた。
彼は王城からの伝令の帰りだった。
「聞いたか…!たった今、砦からの報告があった…!」
カフェにいた全員が、固唾をのんで兵士の言葉を待つ。
「ルッチ団長が…!ルッチ団長が、魔物の不意打ちから新米の騎士を庇って、深手を…!」
その言葉は、静まり返ったカフェに衝撃となって響き渡った。
ライザは持っていたスープ皿を取り落としそうになり、カウンターに手をついてかろうじて踏みとどまる。
心臓が氷の塊になったように冷たくなった。
兵士は絶望的な声で続けた。
「命に別状はないとのことですが、もはや前線で指揮を執れる状態ではないと…!国の守りの要が…!」
その報せは、王都の人々に突きつけられた最後通牒のようだった。
最後の希望が、断ち切られた。
人々は顔を見合わせ、言葉を失い、ただ静かな絶望が店内を満たしていった。
ライザは、震える手でカウンターを強く握りしめる。
ルッチが、傷ついた。
いつも私のことを気遣ってくれた、あの人が。
私の代わりに、彼が。
もし、私が最初からあの儀式で力を示していれば。
もし、私がすぐに東へ向かっていれば。
彼がこんな危険な目に遭うこともなかったかもしれない。
「ああ…もう終わりだわ。この国は魔物に滅ぼされてしまうのね…」
カフェの隅で、避難してきた老婆が床に座り込んで静かに泣き始めた。
その嗚咽は、周囲の人々の絶望を伝染させていく。
子供を強く抱きしめていた若い母親が、虚ろな目で呟いた。
「聖剣の担い手さえ現れてくだされば…勇者様は、一体どこにいらっしゃるの…」
その言葉が、鋭い刃となってライザの胸に突き刺さった。
『勇者様は、どこにいるの?』
ここにいる。
ずっと、ここにいた。
過去の傷にこだわり、自分のことだけを考えて、力を隠し、見て見ぬふりをしてきた臆病者が。
私が守りたかったものは何だった?
この人々の涙か?
傷つき、倒れたルッチの姿か?
私が愛した穏やかな日常は、この人々の平和な暮らしという土台があってこそ成り立っていた。
その土台そのものが、今、目の前で崩れ去ろうとしているのに、私は安全な場所で、傷つくことから逃げていただけだ。
ライザの足元で、小さな女の子が服の裾をくいくいと引っ張った。
見下ろすと、大きな瞳に涙をいっぱいためて、ライザを見上げている。
「お姉ちゃん…怖いの…お父さんとお母さんは、お家に帰れるの…?」
その純粋な問いかけに、ライザの中で何かがぷつりと切れた。
彼女は膝を折り、少女と視線を合わせると、震える手でその頭を優しく撫でた。
そして、これ以上ないほど優しい、しかし決意に満ちた声で微笑みかけた。
「大丈夫よ。もう、怖がらなくてもいいように、お姉ちゃんが何とかしてあげるから。約束するわ」
ライザは静かに立ち上がると、身につけていたカフェのエプロンを外し、カウンターの上に丁寧に、そしてきっぱりと畳んで置いた。
その一連の動きには、もう一切の迷いも揺らぎもなかった。
「ライザちゃん、どこへ行くんだい?」
心配そうに声をかけるエルマに、ライザは振り返り、店にいる全員に聞こえるように、はっきりとした声で言った。
「少し、忘れ物を取りに行ってきます。でも、すぐに戻りますから。温かいハーブティーを淹れて、待っていてくださいね」
彼女はカフェのドアを開け、まっすぐに王城へと向かった。
その足取りは力強く、確信に満ちていた。
王城の中庭では、もはや形骸化した儀式がだらだらと続けられていた。
希望を失った参加者たちと、それを無策のまま見つめる貴族たち。
ディルと宰相は、壇上で不機嫌そうに腕を組み、責任のなすりつけ合いでもしているかのようだった。
そこへ、場違いなカフェ店主の格好をしたライザが、一人でまっすぐに歩み寄ってくる。
ディルは彼女の姿を認め、忌々しげに眉をひそめた。
「なんだ、またお前か。性懲りもない無能め。ここは見物小屋ではないと言ったはずだぞ!」
宰相も「警備の者は何をしていた!この平民をつまみ出せ!」とヒステリックに怒鳴る。
しかし、ライザは彼らの言葉を完全に無視した。
彼女は壇上に座す国王をまっすぐに見据え、そして聖剣へと歩み寄る。
「あなた達が国を救えないというのなら、私がやります」
凛とした声が、静まり返った中庭に響き渡る。
「もう、誰も傷つくのを見たくありませんから」
ライザは、聖剣の柄に手を伸ばした。
彼女の指が柄に触れた、その瞬間。
これまで誰が触れてもただの鉄塊のようだった聖剣が、まるで主の帰りを待ちわびていたかのように、激しくまばゆい光を放ち始めた。
その光はライザの全身を包み込み、彼女が長年心の奥底に抑えつけていた膨大な魔力が、堰を切った奔流となって解放される。
中庭に、清浄でありながら嵐のように強大な魔力が吹き荒れた。
「な…なんだ、これは…!?」
「ありえない…あの無能だったはずの女から、これほどの魔力が…!?」
ディルと宰相は、その凄まじい魔力の奔流に圧倒され、腰を抜かして壇上で無様に尻餅をついた。
ライザは、柄を握った手に軽く力を込める。
すると、あれほど多くの猛者たちがびくともさせられなかった聖剣が、何の抵抗もなく、すっと彼女の手に抜かれた。
ライザが聖剣を天に掲げると、その輝きはさらに増し、王都の上空を覆っていた淀みの気配をわずかに晴らすかのように、天を衝いて輝いた。
その場にいた誰もが、言葉を失い、その奇跡のような光景に釘付けになる。
やがて、誰からともなく歓声が上がった。
それは瞬く間にさざ波のように広がり、王城を揺るがすほどの大歓声となって響き渡った。
国王は玉座から立ち上がり、驚きと喜びに目を見開いている。
その時、衛兵に肩を借り、腕に包帯を巻いたルッチが、中庭に姿を現した。
彼はライザが決意したと聞き、負傷した体を押して駆けつけたのだ。
聖剣を手に、まるで女神のように毅然と立つライザの姿を、彼は安堵と、そしてこの上ない誇りに満ちた表情で見つめていた。
* * *
聖剣を手にしたライザの行動は迅速だった。
彼女はすぐさま王城の魔術師たちを招集すると、淀みに汚染された東の国境地帯への大規模な転移魔法陣『マス・テレポート』を構築するよう、淀みなく指示を飛ばした。
「魔法陣の基軸は陽光の魔石を。補助回路には銀のミスリルを編み込み、座標の安定を図ります。エネルギーの供給は私が聖剣を介して行いますから、皆さんは術式の構築に集中してください」
魔術師たちは最初、つい先日まで「無能」と蔑んでいたカフェ店主からの命令に戸惑い、反発すら覚えた。
しかし、彼女から放たれる底が見えないほどに強大で純粋な魔力と、聖剣の神々しい輝きを前にして、誰も逆らうことはできなかった。
彼女の指示はあまりに的確で、淀みの浄化に関する知識は、宮廷の誰よりも深く正確だった。
彼らは、目の前の女性が真の天才であることを遅まきながら悟ったのだ。
数時間後、中庭に巨大な魔法陣が完成する。
ライザは、彼女と共に戦うことを志願した騎士団と魔術師団の精鋭を率いて、魔法陣の中心に立った。
国王や、傷を押して見送りに来たルッチが見守る中、ライザが聖剣を掲げると、魔法陣がまばゆい光を放って起動した。
一行の姿は光の粒子となってその場から消え、次の瞬間には東の国境地帯の砦の上空に出現していた。
眼下に広がるのは地獄のような光景だった。
邪悪な魔力の淀みに覆われた大地、砦の城壁に群がるおびただしい数の異形の魔物たち。
同行した騎士たちは息を呑み、その絶望的な光景に顔を青くした。
しかし、ライザは動じなかった。
彼女はただ一人、空中に静かに浮かび上がると、聖剣を天高く掲げた。
「浄化の光よ、我が声に応えよ!この地に満ちる全ての穢れを払い、生命の息吹を取り戻せ!『セイクリッド・ノヴァ』!」
ライザが究極の浄化魔法を唱えると、聖剣からまるで第二の太陽が生まれたかのようなまばゆい光が放たれた。
その光は、慈愛に満ちた浄化の力を宿し、温かい波紋となって大地へと降り注いでいった。
光に触れた魔力の淀みは、朝霧が太陽に溶かされるように瞬く間に消滅していく。
凶暴化していた魔物たちは、浄化の光を浴びると、苦しみの叫びを上げながらもその邪気を払われた。
彼らは本来の森の動物としての穏やかな姿に戻ると、次々と森の奥へと逃げ去っていった。
汚染され黒ずんでいた大地にはみるみるうちに緑が蘇り、枯れていた木々には新しい若葉が芽吹いた。
濁っていた川の水はキラキラと輝く清らかな流れを取り戻す。
空を覆っていた分厚い暗雲は完全に消え去り、そこにはどこまでも澄み切った青空が広がっていた。
砦で絶望的な籠城戦を続けていた兵士たちは、その奇跡としか言いようのない光景を、武器を落とし、ただ呆然と見上げていた。
ライザのたった一度の魔法によって、王国を長きにわたり苦しめてきた災厄は完全に終息したのである。
王都に凱旋したライザと騎士団は、国民から救国の英雄として熱狂的な歓迎を受けた。
王都の大通りは、彼女の名を呼ぶ人々の歓声で埋め尽くされた。
「ライザ様!」「ありがとう、ライザ様!」と、人々は惜しみない感謝と賞賛の声を彼女に送った。
国王はライザを正式に城の玉座の間へと招き、全ての廷臣たちの前で最大限の賛辞と感謝を述べた。
「国を救ってくれたこと、心から感謝する。ライザ、君こそがこの国の真の勇者であり、誇りだ」
その公式な謁見の場で、ルッチと、かつてライザを慕っていた数少ない元同僚の魔術師たちが国王の前に進み出た。
彼らは、ライザがディルによってその才能を妬まれ、不当に追放された経緯の全てを詳細に証言した。
さらに、今回の危機に際しても、宰相とディルが自己の保身と権力維持のために有効な対策を怠ったことなどが次々と他の貴族や役人から暴露された。
聖剣の儀式を国民の不満を逸らすための政治的なパフォーマンスとして利用していたことも明らかになった。
動かぬ証拠を突きつけられ、ディルと宰相は顔面蒼白となってその場に崩れ落ちた。
国王は激怒し、雷のような声で断罪した。
「貴様ら親子は、己の私利私欲のために、この国を滅ぼしかけたも同然だ!断じて許すことはできん!」
国王は即座に、父子を全ての役職から解任し、彼らが不正に蓄えた全財産を没収して国境地帯の復興費用に充てることを宣言した。
さらに罰として、二人には復興事業の最前線で生涯にわたり肉体労働に従事することを命じた。
彼らが「無能」と罵り蔑んだ一人の女性によって国が救われ、自分たちがその最も忌み嫌う泥にまみれた労働に従事するという、これ以上ないほど皮肉な結末が下されたのだった。
裁きを終えた国王は、穏やかな表情でライザに向き直り、宮廷魔術師団のトップの地位である「大魔術師」の称号と、望むだけの領地や財宝を与えようと申し出た。
しかし、ライザは静かに、しかしきっぱりと首を横に振った。
「陛下、そのお言葉だけで十分でございます。ですが、私には過ぎた地位です。私の居場所は、王都のあの路地裏にある、小さなカフェ『フラワーローズ』です。皆の笑顔を見ながらハーブティーを淹れ、お菓子を焼く毎日こそが、私の何よりの宝物ですから」
ライザの変わらない意志の強さに、国王は深く感銘を受けた。
彼は彼女の望みを受け入れ、「王家の名において、君と君のカフェの平穏を、生涯にわたり保障しよう」と約束した。
ライザは、王都の路地裏にあるカフェ「フラワーローズ」へと帰ってきた。
店の前では、エルマをはじめとする常連客や近所の人々が、彼女の帰りを今か今かと待ちわびていた。
ライザの姿を見つけると、彼らは心からの祝福で彼女を迎えた。
「おかえり、ライザちゃん!」「ありがとう、我らが英雄様!」と、大げさな称号でからかいながらも、人々は歓声を上げた。
カフェは以前にも増して、人々の笑顔と温かい活気に満ち溢れるようになった。
数日後、すっかり怪我の癒えたルッチが、騎士の制服ではなく、少しよそ行きの、しかしどこか着慣れない様子の私服姿で店を訪れた。
彼は少し緊張した面持ちで、ライザの前に立つ。
ルッチはカウンター越しに、お菓子を並べていたライザの手をそっと取った。
「ライザ。俺は、ずっとお前のことを見てきた。お前の優しさも、強さも、そして誰にも見せない弱さも。これからは、俺がお前を守りたい。お前の隣で、これからの人生を共に歩んでほしい」
不器用で飾り気はないが、彼の誠実な人柄がにじみ出る、真っ直ぐな心のこもった告白だった。
ライザは、彼の言葉に頬を染めながらも、満面の笑みで頷いた。
「はい、ルッチ様。喜んで」
救国の英雄は、再び一人のカフェ店主に戻った。
彼女の隣には愛する人がいる。
周りには、大切な常連客たちの笑顔がある。
窓から差し込む柔らかな陽光が、店先に植えられた赤い花を優しく照らしていた。