表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ヴァスを探す旅〜ドラゴン研究家の冒険譚〜  作者: 海木雷


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

64/66

第63話 寒さとは

――谷の最奥。


雪煙が一瞬だけ途切れ、氷壁の奥から姿を現したそれを見て、

ライナの瞳が大きく見開かれた。


「……スノーヴァインド・リザード――いや、これは……!」


灰色の体表はところどころ氷結しており、鱗の間に白い霜の筋が走っている。

呼吸のたびに蒸気が漏れ、背中の突起が凍てついた結晶のように光を返す。

普通の亜竜よりも一回り小柄だが、異様なほど密度の高い冷気をまとっていた。


「極地適応……いや、遺伝的変異による寒冷耐性。

つまり――“変異種”のスノーヴァインド・リザードですか。」


ライナは半ば呆然と呟き、次いで興奮を隠せずに手帳を開いた。

「亜竜種の中でも、スノーヴァインドは氷地帯を生息圏とする唯一の個体群。

しかし記録上、ここまで北の個体は確認されていない……!

この環境で生きるために、さらに魔力構造そのものが変化している……!」


彼の声が震える。

まるで、氷の下で眠っていた伝説を掘り当てた学者のように。


だが、目の前の生物はゆっくりと頭をもたげた。

金属のように鈍く光る瞳が、まっすぐライナを射抜く。

一歩、また一歩。雪面を踏みしめるたび、氷が軋んで低い音を立てた。


「……威圧行動。ですが――理性的だ。」

ライナはその場を動かず、ただ観察の筆を走らせる。


「体長、およそ三メートル。体温は氷点近く。

鱗の密度……魔導伝導率が極端に高い。

おそらく、自身の魔力を“冷却”に変換している……!」


亜竜が唸る。

氷壁が振動し、雪がぱらぱらと落ちる。

その声は、風鳴りと共鳴して谷全体を震わせた。


「……なるほど。あなたたちの“鳴き声”が風の音と重なって、

“竜の声”と誤認されたというわけですか。」


ライナは微笑む。

「いやはや――自然現象と生物学的要因の融合。完璧です。」


その瞬間、背後の氷壁の上から、もう一つの影が現れた。

先ほどよりも明らかに大きい。

その鋭い眼光が、子を守るようにライナを見下ろす。


ライナは帽子を取り、静かに一礼した。

「……失礼いたしました。あなた方の領域を荒らすつもりはありません。

記録だけで十分です。」


風が一陣吹き抜け、雪が白い幕を作る。

次に目を開けたときには、二体の姿はすでに消えていた。


ライナはしばしその場所に立ち尽くし、

氷の欠片が手の中で融けていくのを見つめていた。


「スノーヴァインド・リザード――亜竜の変異種。

この地に適応し、竜の伝承を生んだ“生きた証拠”か。」


手帳を閉じると、彼は静かに微笑んだ。

「やはり来て正解でしたね。……さて、帰還報告が楽しみです。」


そう言って、ライナは雪を踏みしめ、谷をあとにした。

風が背を押し、彼の残した足跡をゆっくりと消していく。


その奥深く、氷壁の中で微かに響く咆哮。

それはまるで、学者の名を記憶するかのように、長く、低く、鳴り続けていた。


――夕刻。


吹雪はようやく静まり、谷を包んでいた灰色の雲が薄れていく。

雪面には淡い夕光が差し込み、氷の粒が宝石のように瞬いていた。


ライナは白い息を吐きながら、ゆっくりと来た道を戻っていた。

手帳を胸に抱え、歩幅を崩さず、何度も後ろを振り返る。

谷の奥はすでに影に沈み、あの灰色の亜竜たちの気配も感じられない。


「……無用な干渉は、避けるべきですね。」

そう小さく呟き、彼は帽子の庇を整えた。


やがて、雪の斜面を抜けた先で、待機していた御者が飛び出してきた。

「お、おい兄さん! まさか本当に戻ってくるとは……!」

顔は真っ青で、肩に積もった雪を払いながら駆け寄ってくる。


ライナは微笑み、軽く頭を下げた。

「お待たせしました。ご心配をおかけしましたね。」


「で、どうだった? 中の“鳴き声”の正体は……あれは、一体なんだったんだ?」


ライナは少し間をおいて、淡々と答えた。

「スノーヴァインド・リザード。――亜竜の仲間です。

ただし、寒冷地に適応した“変異種”のようでした。」


御者はぽかんと口を開けたまま固まる。

「……亜竜、だと? そんなもんが本当に……」


「ええ。ですが、心配は要りません。」

ライナは鞄を閉じながら、穏やかに続けた。

「彼らは非常に警戒心が強いものの、敵意はありませんでした。

人を襲う気配もなく、むしろこの環境に静かに溶け込んでいます。

害がない以上、下手に手を出すべきではないでしょう。」


御者は眉をひそめて頭を掻いた。

「……つまり、放っとけってことか?」


「その通りです。」

ライナは軽く頷く。

「“未知”を排除するのではなく、共に観測する――

学問とはそういうものです。」


御者はため息をついて、馬車の荷台を指差した。

「ったく……あんたみたいな物好きは初めてだ。

ま、無事ならいいけどよ。」


ライナは笑って馬車に乗り込み、手帳を開いた。

ページの端には、灰色の鱗片が一枚、丁寧に挟まれている。


「記録完了。“スノーヴァインド・リザード・変異種”。

行動は限定的。知性低~中度。敵意なし。――観察継続対象。」


風が再び谷を吹き抜け、雪面が淡く揺れる。

遠くで、かすかな“グォォン”という鳴き声が響いた。


御者がびくりと肩をすくめる。

「な、なあ兄さん……今のも、そいつか?」


ライナは微笑を浮かべたまま、目を閉じた。

「ええ。おそらく――挨拶でしょう。」


馬車が雪を踏みしめて動き出す。

白銀の谷が遠ざかる中、風が彼の頬を撫でていく。

それはどこか、穏やかで、優しい風だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ