第63話 足跡とは
――午後。
雪は止んだが、風はなお唸りを上げていた。
空の色は鉛のように重く、音ひとつで崩れそうな静寂が支配している。
ライナは足元の雪を踏みしめ、後ろの御者を振り返った。
「ここから先は危険です。あなたは入口で待機を。」
御者は顔を引きつらせる。
「お、おい兄さん。まさか一人で行く気か? あんな音がしてたんだぞ!」
「ご安心を。私は研究家です。戦いには向きませんから。」
にこりと笑って、ライナは雪の谷底へと進んだ。
「……そういう奴が一番危ねぇんだよな」と御者は小声で呟いたが、
すでにライナの背中は吹雪の向こうに消えていた。
谷の奥は、まるで別世界だった。
風の音は低く、雪面の下で何かが鳴っているような錯覚を覚える。
ライナは手帳を片手に、慎重に足を運ぶ。
「ふむ……風圧の変化、氷層の屈折、温度差による共鳴……。これで“鳴き声”の正体は説明がつきますね。」
彼は満足げに頷いた。
「自然現象。つまり――竜ではない。」
そう言って、足を止めた。
――ただし。
雪の上に、奇妙な痕跡があった。
丸みを帯びた三つの爪跡。深さは十センチ、間隔はやや不規則。
人でも獣でもない。けれど、“何かの足跡”であることは確かだった。
ライナはしゃがみ込み、指で雪を払う。
「……この配置、踏み込みの角度……前傾姿勢で、脚が左右に開いている。」
手帳をめくり、古い記録と照らし合わせる。
「雪地行動が可能な亜竜種――該当するのはスノーヴァインド・リザード。しかし……ここまでの寒さには弱いはず。」
彼は唇に指を当てて考え込む。
「……ということは、“普通の亜竜ではない”可能性が高い。」
少し間をおいて、くすりと笑う。
「亜竜の中でも、寒冷適応型……つまり“変種”ですね。ふふ、これは面白い。」
遠くで風が鳴る。
その音がまるで、嘲笑うように谷を駆け抜けた。
ライナは頬を撫でる冷気を感じながら、さらに奥へ進んでいく。
雪の下には無数の細かな足跡――しかしそれらは、途中でふっと消えていた。
「……飛んだ?」
彼は上を見上げた。
氷壁の上に、黒い裂け目のような洞が開いている。
風がそこを抜けるたびに、まるで生き物の喉が鳴るような音を立てる。
「……やはり、“鳴き声”の共鳴はこの構造が起点か。」
そう呟いて、記録を取りながらふと足元に目をやる。
雪の間に、うっすらと灰色の鱗片が落ちていた。
指先でつまむと、光を反射して淡く輝く。
「……鱗。だが……竜ではない。構造が細かすぎる。」
唇の端がゆっくりと上がる。
「ふむ。未知の生物、……実に興味深い。」
風が一段と強くなる。
谷の奥から、まるで返答するように――“グォォォォン”と再び鳴き声が響いた。
ライナはその音の方を向き、つぶやく
「よし、次は“ご挨拶”の時間ですね。」
彼の背に雪煙が舞う。
学者特有の冷静な笑みを浮かべながら、彼はさらに氷の迷宮の奥へと消えていった。
その後ろ姿を、風が追いかけるように吹き抜ける。
まるで――彼の探求心を試すかのように。




