第52話 フェンル北峰とは
――翌朝。
霧がまだ丘を包んでいる。
ライナは修道院跡の門前で、鞄の留め具を整えていた。
風が白い外套を揺らし、鐘楼の残骸の向こうに薄日が差す。
「もう行くのかね」
背後から静かな声がした。
振り向くと、ヘルダスが杖を手に立っていた。
老いた身体には疲労の影が見えたが、その目だけは、昨日よりもはるかに澄んでいる。
「ええ。北へ向かいます。――フェンル北峰へ。」
「……あそこか。竜を“風の記憶”と呼んだ、古い文献に出てきた場所だな。」
ライナは微笑み、頷いた。
ヘルダスは静かに目を細めた。
「君のような者が現れてくれて、本当に良かった。
私のように古い記録を追うだけでは、もう届かぬと思っていたからな。」
「……ヘルダスさん。あなたが記してきたものがなければ、私はこの道に立っていません。
“記録”は無駄ではなかった。それを証明するのは、私の仕事です。」
しばらく沈黙があった。
やがてヘルダスは杖を支えに一歩近づき、ライナの手を握った。
「行きなさい、ライナ。
竜の記憶を、君の目で――君の言葉で綴るんだ。」
その言葉に、ライナは深く頷き、手を放した。
丘を下る道の途中で一度だけ振り返る。
修道院跡の前で、ヘルダスが小さく手を上げていた。
風が吹き抜け、朝靄の中にその姿がゆっくりと霞んでいく。
――そして数日後。
静かな朝。
修道院跡の書庫で、ヘルダスは机に向かっていた。
開かれたままの本の上に、彼は穏やかな表情で身を預けていた。
まるで読書の途中で、ほんの少し休んでいるかのように。
窓から吹き込む風が、一枚の紙をめくる。
そこには、震える筆跡でこう記されていた。
《竜の記録は、終わらない。――私ではなく、次の筆が綴るだろう。》
その傍らに置かれた小さな銀の懐中時計は、止まっていた。
だが、老学者の顔には、満足と安堵が入り混じった微笑が浮かんでいた。
彼は確かに見届けたのだ。
自らの信念が、次の世代へと受け継がれた瞬間を。
――その頃、ライナはすでに北の街道を進んでいた。
風は冷たく、空には雪雲が広がっている。
けれど彼の胸の奥には、確かにひとつの温もりが残っていた。
「……見ていてください、ヘルダスさん。」
彼は小さく呟き、歩を進める。
旅の終わりではなく、記録の続きへ――




