第50話 疲労とは
――翌昼過ぎ。
ライナはルーヴェ村の門をくぐった。
昼の陽はまだ高いが、峡谷を渡る風には微かに冬の匂いが混じっている。
見送りに立つ村長と夜警の男が、深く頭を下げた。
「世話になりました、ライナ殿。またいつでも……」
「ええ。その時は、もう少し温かい季節に来たいですね」
ライナは小さく笑い、手綱を軽く引いた。
馬車がゆっくりと動き出す。
車輪が泥を踏みしめ、乾いた音を響かせた。
――ルーヴェ村の調査は終わった。
だが、記録すべきことはまだ山ほどある。
ワイバノスの存在、竜骨。
「……口外は、まだ早い」
ライナは小さく呟く。
あの竜は、確かに滅びた。
けれど、ただの“死骸”とは呼べない何かを、彼は感じていた。
それは風の中に残る記憶。生きとし生けるものすべての、遠い系譜の残響。
――いずれ、腰を据えてまとめよう。
その時こそ、“竜の記録書”に新たな頁を加えることができる。
ライナは膝の上のノートを軽く叩き、息を吐いた。
馬車の揺れに合わせて、窓の外の景色が流れていく。
針葉樹の林が遠ざかり、代わりに広がるのは開けた平原。
空は群青から白へと移ろい、遠くにはナスデュの街並みが霞んで見えた。
街道沿いには旅商人の列、行き交う荷車、騒がしい馬のいななき。
人の営みの気配が、静かな峡谷とは対照的に、賑やかに満ちている。
――あの静寂が恋しくなるな。
そう思いながら、ライナは目を細めた。
ふと、懐の中で何かが光を放った。
取り出すと、それはあの夜、指先で溶けた“竜の残光”の欠片。
淡く脈動する光が、まるで心臓の鼓動のように穏やかに明滅している。
「……まだ、生きてるのか」
ライナの口元に、かすかな微笑が浮かんだ。
馬車は丘を越え、遠くにナスデュの鐘楼が見え始める。
風が頬を撫で、空には鳥の影が舞う。
――旅は終わらない。
竜の記憶を追う者として、ライナの足は今日もまた、新たな記録へと向かっていた。




