第47話 会話とは
――峡谷の奥。
霧がさらに薄れ、月光が岩壁を照らす。
ワイバノス・ミノタウロは動かないまま、ただ穏やかに呼吸を続けていた。
その姿は、まるで長き時を生きた守護者のように、静かで、そして厳かだった。
ライナは少し距離を詰め、岩の上に腰を下ろす。
風が頬を撫で、草が擦れ合う音が耳に届く。
しばらくの沈黙のあと、彼はぽつりと口を開いた。
「……君のような存在を、ずっと探していたんです」
言葉は静かに、霧の中へ溶けていく。
ワイバノスは動かない。ただ、わずかに耳のような角を傾け、ライナの声を聞いているように見えた。
「――子どもの頃、私は古代竜ヴァスラフに出会いました」
その名を口にした瞬間、胸の奥が熱くなる。
「あれは……信じてもらえない話なんですが、本当なんです。
燃えるような鱗と、深い琥珀の瞳。あの目に映った空を、今でも忘れられません」
彼は空を見上げた。
霧の向こうに、星々が淡く瞬いている。
「それからずっと、竜の影を追い続けてきました。
姿を見たという噂を聞けば、どんな辺境でも向かいました。
けれど、どれも幻のようで……たどり着く前に消えてしまう」
苦笑を浮かべながら、ノートを閉じる。
手のひらの温もりが、まだ微かに震えていた。
「でも、今日は違う。君はここにいる」
目を向けると、ワイバノスは依然として動かず、目を閉じたまま微睡むようだった。
その胸が静かに上下するたび、空気がわずかに震える。
「……君にとって、人間はどう見えるんだろうな」
ライナは問いを投げるように呟く。
「争いばかりして、知を振りかざして、自然を壊して……
でも、それでも、君たちのような存在に憧れてやまないんです」
風が吹いた。
ワイバノスの翼がかすかに揺れ、薄く積もった砂塵が月光を帯びて舞い上がる。
まるでその問いに、“聞いている”と答えてくれているかのようだった。
ライナは目を細め、ゆっくりと頭を垂れた。
「ありがとう。こんな夜に、君と出会えたことを、心から感謝します」
静寂の中、ワイバノスの瞼がわずかに動いた。
閉じられたその目元には、どこか穏やかな安らぎがあった。
それはまるで――
長い孤独を過ごした古き竜が、人の声を子守歌のように聞きながら、
ひとときの眠りに落ちていくかのようだった。
ライナは火を焚かず、ただ月の光の下で筆を取った。
頁に静かに書き記す。
「――本日、峡谷にて“竜の盾持ち”と遭遇。
敵意なし。人に害意なく、むしろ静穏を尊ぶ気配あり。
その存在は、竜というより……世界の記憶そのもの。」
ライナはペンを置く。
ワイバノスの穏やかな寝息が、夜風に混じって響いていた。
「……また、会えるといいな」
その囁きに応えるように、風が一度だけ、優しく吹いた。
霧が淡く流れ、月光の中で、竜と人とが――ひととき、夢を分かち合っていた。
霧はすっかり晴れ、峡谷の底に月光が射し込む。
岩肌が淡く光を返し、静けさの中に、竜と人の呼吸だけが響いている。
そのとき――
ワイバノスがゆるやかに立ち上がった。
重厚な鎧がこすれるような低い音。
翼の金属質な縁がわずかに光を受け、銀の火花のように煌めく。
その圧倒的な存在感に、ライナは思わず立ち上がり、息をのんだ。
「……どうした?」
問いかける声に応えるように、ワイバノスは一度だけライナを振り返る。
そして、ゆっくりと歩き出した。
その歩幅は大きく、しかしどこか優しい。
峡谷の奥へ、奥へと――導くように。
「……案内しているのか?」
ライナは呟きながらも、その後を追った。
岩肌を伝う水の音、足元に散る光苔の淡い輝き。
まるで、古代の聖域へと足を踏み入れていくような感覚だった。
やがて、彼らは峡谷の最奥にたどり着いた。
幾重にも岩が折り重なり、外からはまったく見えない――天然の隠れ場のような洞窟。
中からは冷たい空気が流れ出し、微かに湿った風がライナの頬を撫でた。
ワイバノスはその入り口の前に立ち止まる。
しばらくライナを見つめたあと、ゆっくりと膝を折り、その巨体を地に伏せた。
まるで――“中に入れ”と促すように。
「……中に、入れと?」
ライナは戸惑いながらも、その眼差しに悪意の欠片がないことを確信した。
むしろそれは、古き守護者が訪れた者に“許可”を与えるような、静かな慈しみの目だった。
彼は深呼吸をひとつして、足を踏み出す。
洞窟の入り口に一歩入ると、外とは異なる空気が流れてきた。
湿り気の中に、どこか懐かしい――“魔力”の匂い。
背後で、ワイバノスの息づかいが低く響く。
それはまるで、
「ここがお前の探していた場所だ」
――そう告げているようだった。
ライナの胸が熱くなる。
目頭がじんと滲むのを感じながら、彼は一歩、また一歩と奥へすすむ
そしてその背後で、ワイバノスが静かに翼を広げ、
洞窟の入り口を覆うように守りの姿勢をとった。




