第46話 尊敬とは
――峡谷の奥。
風が静まり、霧がゆっくりと落ち着いていく。
その中心に――“竜の盾持ち”はいた。
ワイバノス・ミノタウロ。
体高は五メートル強、幅広い肩には竜鱗のような装甲板。
そして背中には、金属のような質感をもつ“翼”が折り畳まれていた。
それはまるで、長い戦を終えた戦士が、鎧と剣を静かに休めているようにも見える。
ライナは、呼吸をひとつ整える。
そして、ゆっくりと魔導剣を鞘に納めた。
「……敵意は、ありませんね」
霧の向こうの巨体は、微動だにしない。
ただ、風に合わせるように胸がわずかに上下し、静かに息をしている。
その穏やかな気配に、ライナの緊張がほどけていった。
「……まさか、本当に……」
呟きながら、彼はカバンからノートとペンを取り出した。
震える手でページを開き、筆を走らせる。
「体高、五メートルから五メートル半……胴回りは推定三メートル。
皮膚表面は鱗状で、金属反射あり……これは“魔導硬化層”の可能性。
背部に折り畳まれた翼構造……骨格の伸縮機能を持つようだ。
飛翔よりも、防御姿勢に特化していると見える……ああ、なんと見事な……」
独り言が途切れず続く。
それは観察というより、祈りのようだった。
「……あなたは、戦うための竜ではなく、“守る”ための竜なんですね」
その言葉に応えるように、ワイバノスがわずかに頭を上げた。
真紅の瞳が月光を映し、静かに瞬く。
光が揺れ、霧が淡く透けて――
その姿は、まるで神話の断片のように、静謐で、美しかった。
ライナは、筆を止めた。
ノートの端が少し震えている。
「……この世に、まだあなたのような存在が残っていたなんて……」
彼は深く息を吸い、ゆっくりと吐き出す。
距離を保ちながら、ひとつ膝を折り、礼を示した。
「私は――ライナ。
竜の研究者として、あなたに出会えたことを、心から光栄に思います」
風が吹き抜けた。
ワイバノスの翼が微かに動き、霧が円を描くように舞い上がる。
その音は、まるで答えるように優しく響いた。
ライナは微笑む。
それは学者としての誇りでも、冒険者としての高揚でもない。
ただ、ひとつの命を前にした“敬意”そのものだった。
(……この出会いを、必ず記録に残さなければ)
ノートに最後の一行を書き足す。
「亜竜種ワイバノス・ミノタウロ――竜の盾持ち。
その眼差しは、確かに“守護”の理を映していた。」
静かな夜。
竜と人の間に、ひとときの静寂が訪れていた。