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第45話 始まりとは

――峡谷の風が、霧をかき混ぜる。


湿った空気の中、ライナは一歩、また一歩と足を進めていた。

心臓の鼓動が、耳の奥で不規則に鳴る。

それが恐れによるものなのか、興奮によるものなのか――自分でもわからなかった。


(ああ……この感覚は、いつぶりでしょう)


魔物と対峙する時、彼はいつも冷静で、記録者としての距離を保つ。

だが今は違った。

霧の向こうに確かに“それ”がいる――その事実だけで、胸の奥が熱を帯びていく。


低い唸り声。

空気が震え、霧が波のように揺れた。


「……近い」


声に出すと同時に、喉が渇く。

指先が自然と魔導剣の柄を強く握りしめていた。


やがて、視界の先――霧の幕の向こうで、巨大な影が動いた。

その輪郭が、ゆっくりと、しかし確実に浮かび上がってくる。


背中には折り畳まれた翼らしきものがあり、鱗が重なり、胴は獣のように太く、

だが両腕には、まるで盾をそのまま形にしたような鱗板を抱えていた。

角は鈍く光を反射し、吐息ひとつで霧が裂ける。


ライナは息を呑んだ。


「……まさか……」


震える手で、カバンを探る。

紙束を取り出し、ページをめくる。

霧に濡れた指先が滑って、紙がはらりと風に舞った。


「……頼む、ここに――」


ページが止まった。

古びた羊皮紙。

かすれたインクで描かれた、竜のようで獣のような姿。


亜竜種 ワイバノス・ミノタウロ

別名:竜の盾持ち


その文字を見た瞬間、ライナの視界が滲んだ。

喉の奥から、かすかな息が漏れる。


「……本当に……存在したんですか……」


研究者として、何度も文献で見た伝説。

“竜を守る竜”――その存在は、学会でもただの寓話として片付けられていた。

だが今、霧の中に確かに息づいている。


五感がひとつずつ鮮やかになっていく。

風の匂い、地面の湿り、剣の金属の冷たさ。

そして、目の前の巨影の鼓動――その一拍一拍が、胸の奥に響く。


(……これが、竜の系譜の、生き残り……)


気づけば、ライナの手は震えていた。

恐れではなく、畏敬。

ただ“生きる奇跡”を目の前にして、身体が勝手に震えているのだ。


ワイバノス・ミノタウロがゆっくりと顔を上げた。

その紅い瞳が、霧の向こうからライナを見つめ返す。

敵意も、怒りもない。

ただ、永い時間を超えて、何かを問いかけるような静かな眼差しだった。


「……あなたは……」


ライナの声は震え、かすれていた。

次の瞬間、彼の胸に込み上げたものが、言葉を押し出した。


「……ありがとう。あなたを“見られる”時代に、生まれてこれて……」


竜の盾持ちが低く息を吐く。

霧が音もなく散り、月光がその背を照らした。


ライナは剣を下ろし、ただ見つめた。

研究者でも、冒険者でもなく、ひとりの人間として。


霧の中で出会ったその存在は――

彼の知識を超え、信念を超え、

ただ“美しかった”。


そして、静かに微笑んだ。


「……伝説の真偽、確かめる価値は……充分にありますね」


その声には、畏敬と情熱が同居していた。

夜風が吹き抜け、霧が流れ、

竜の盾持ちの巨影が、ゆっくりと動き出す。


ライナはその後を、まるで導かれるように追った。

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