第42話 資金とは
――スラン帝国・交易都市ナスデュ。
修道院から街に戻り、早朝だというのに、露店では朝食を求める人々の列ができ、馬商が鉄蹄を打ち直す音が通りに響いていた。
香辛料、革、鉄、そして人の汗――帝国北部の要衝にふさわしい、濃密な匂いが混じり合っている。
ライナは、その雑踏を無言で歩いていた。
肩まで伸びた黒髪は無造作に束ね、外套の下にはたくさんの資料があった。
腰の革帯には魔導剣と、使い古されたインク壺と筆記用具。
冒険者であり、同時に竜種の生態を追う研究者でもある彼にとって、旅の装いはいつもこの形だった。
――修道院の出会いから三日。
ヘルダスの手帳を携え、竜種の痕跡を求めて北へ向かう準備をしている。
「…やっぱり、どこの街も人が増えてますね」
露店の軒下で、干し果実を買いながらライナは呟いた。
手に取った小袋の重さを確かめると、胸の奥に軽い焦りが浮かぶ。
食料、移動費――どれもこれも値が上がっている。
袋の中で鳴る金属音は、心許ない。
「……これは、放っておくと宿代も払えなくなりますね」
ライナはため息をつき、腰の小袋を軽く振って確認した。
銀貨が数枚、乾いた音を立てるだけ。
ターナルを出る前に受け取った報酬は、道具と移動費でほぼ消えた。
竜を追うために惜しみはしなかったが、現実的な問題はそう甘くない。
「仕方ありません。ギルドで依頼を受けましょう」
彼は露店を離れ、街の中心へ向かう。
通りには、武具を身につけた傭兵や冒険者が肩をぶつけ合いながら行き交っていた。
宿屋兼酒場〈獅子の爪亭〉の前では、昨夜の酔っ払いが路上でまだ寝息を立てている。
そんな喧噪を抜け、彼は一際大きな建物――冒険者ギルド〈鋼獅子の館〉の前に立った。
灰鉄色の壁と、門上に掲げられた獅子の紋章。
重い扉を押し開けた瞬間、酒と油の匂い、そして人の声が押し寄せた。
依頼をめぐる口論、討伐帰りの笑い声、報酬を数える音。
ギルド特有の熱気の中、ライナは迷うことなく受付へと歩み寄った。
「おや、見ない顔だな。どこから来た?」
帳簿を整理していた中年の受付官が、彼に気づいて顔を上げた。
「南のターナルから来ました。ライナと申します」
「ターナル、ね。帝国まで来るのは珍しいな。依頼か何か?」
「ええ、今は竜種の調査を兼ねて旅をしています。ただ……資金が少々心許なくて」
受付官はふっと笑い、棚から何枚かの依頼書を取り出した。
ライナも少し笑みを出し
「北に向かう予定なので、そちらの街道沿いの依頼があれば」
「なら、これがいいかもしれん」
男が差し出した紙には、簡素な文字が並んでいた。
【依頼名】獣の調査
【発生地】北街道沿い・ルーヴェ村
【依頼内容】獣か、魔獣らしい物の調査,排除
【目的】実態の確認および被害防止。
【報酬】報告のみで銀貨十五枚、討伐時は金貨三枚。
ライナは眉をわずかに動かした。
「……獣ですか」
「ああ。姿を見たって奴はいねえ。けど、夜中に低い鳴き声が響くらしい。
村の連中は魔獣だとか言ってるが、実際は熊か、でかい猪の類だろうな」
「なるほど……」
ライナは依頼書を指先でなぞりながら、思考の海に沈む。
報告された場所――北街道の先、峡谷地帯の入り口――そこは彼が目指す地域に近い。
(……偶然とは思えませんね)
ライナは顔を上げ、静かに言った。
「この依頼、受けさせていただきます」
受付官は軽く肩をすくめ、契約書を差し出す。
「気をつけろよ。あの辺りは夜になると霧が濃くなる。魔物より先に道に迷う連中も多い」
「心得ています」
署名を終え、依頼書を丁寧に折り畳むと、ライナは礼をしてギルドを後にした。
外の空はすでに明るく、霧の向こうに街の尖塔が浮かび上がっている。
北の方角へ視線を向けると、遠くに霞む山並みがうっすらと黄金に染まり始めていた。
「……夜鳴きの獣。」
小さく呟き、外套の襟を正す。
行商の馬車が街門へと列をなす中、ライナはその一団に混じって歩き出した。
旅支度は質素だが、胸の奥で燃える決意は揺るぎない。
竜の影を追う旅は、まだ始まったばかりだ。