第42話 徹夜とは
――夜が明ける頃、修道院の窓から淡い光が差し込んでいた。
外はまだ霧が立ち込め、鐘楼の影が白く溶け、庭を幽かな光で照らす。
机の上には羊皮紙とインク壺、散乱した筆記用具、そして昨夜二人が語り合った竜の記録が残されている。
「……夜が明けましたね」
ライナが微笑みながら呟くと、ヘルダスは細く息を吐いて笑った。
「竜の話をしていると、時間など消えてしまうな。老骨には応えるが――悪くない夜だった」
「ええ。知の炎というのは、歳を重ねても消えないものですね」
ライナは背負っていた鞄から羊皮紙の束を取り出し、机にそっと置く。
その中には、彼女が最近討伐した魔物の詳細な記録が含まれていた。
「……これは、お前が討伐した魔物か?」
ヘルダスは眉をひそめ、慎重にその紙に目を落とす。
「はい」
ライナは頷き、低く語り始めた。
「先月、北東の峡谷で討伐した魔物です。討伐そのものは危険を伴うものでしたが、それ以上に重要なのは、その戦いの後に残された痕跡でした」
彼女は紙を広げ、手元のスケッチを机に押し出す。
そこには、背中に深く裂かれた魔物の姿が描かれている。
五本の爪による深い傷痕が、肉の中にくっきりと残っていた。
「……五本の爪痕。見たことがない形状だな」
ヘルダスの声は驚きを含んでいる。
「ええ。間隔は人の指と似ていますが、爪自体は太く長く、裂け方は極めて規則的で……まるで意図的に刻まれたようでした」
ライナは視線を上げ、低く言った。
「これは、単なる偶発的な戦闘痕ではありません。
その傷は資料や伝承にある竜種に酷似していたのです」
ヘルダスは長く息を吐き、唇をかすかに震わせた。
「……つまり、お前が討伐した相手は、ただの魔物ではなかったということか。
それが竜種、あるいは未確認の竜種による痕跡なら……それは重大な発見だ」
「はい。現場の状況からも、その可能性は高いと思います」
ライナは鞄からさらに一枚の羊皮紙を取り出し、丁寧に机に広げた。
そこには、討伐戦の経緯が記された詳細な報告と、魔物の死骸の写真に似せたスケッチが並んでいる。
「この魔物は、通常の戦闘なら既に瀕死のはずでしたが、何かを伝えようとする意思があって逃げてきたとしか思えません」
ヘルダスはしばらく黙ってスケッチを眺め、やがて静かな声で言った。
「……お前はその痕跡を追うつもりなのだな」
「はい」
ライナの瞳は真剣だった。
「この傷が示すのは偶然ではなく、竜種の存在です。
そして、その存在はまだこの世界に生きている。
私は、その痕跡をたどり、真実を突き止めたい」
ヘルダスは重い息をつき、古びた本棚から擦り切れた革装丁の手帳を取り出した。
「これは、若き日の私の調査記録だ。未整理で稚拙な推論も多いが……北方に伝わる“消えた竜群”について記されている。お前に託そう」
ライナはその手帳を両手で受け取り、深く頭を垂れた。
「……よろしいのですか?」
「もう私に歩ける道ではない。だが、お前なら歩ける。問いを継ぐ者が現れたなら、それは知が生き続ける証だ」
ヘルダスは静かに頷き、微笑んだ。
ライナもまた深く頭を下げる。
「必ず、この続きを記します。
五本の爪痕の正体――未確認竜種の真実を、必ず明らかにしてみせます」
外では朝の鐘が響き渡る。
白い霧が晴れ、北方の峰々が朝日に照らされ金色に輝き始める。
――こうして、ライナは再び旅立った。
自ら討伐した手負の魔物が残した、竜種のような五本の爪痕を辿り、
未確認竜種の存在を追い求めるために。