第41話 意志とは
――修道院の中は、外観からは想像もつかないほど整っていた。
崩れかけた壁の内側には、本棚が幾重にも積まれ、羊皮紙と鉱石の匂いが漂っている。
蝋燭の光が、古い魔法陣の刻まれた机を照らしていた。
「……ずいぶんと、研究熱心な隠居生活ですね」
ライナが呟くと、ヘルダスはくぐもった笑い声を漏らす。
「隠居したとはいえ、知の炎は消えんよ。竜の謎に魅せられた者は、墓に入るまでその熱を手放せん」
ライナは静かに頷いた。
そして、背負っていた鞄から一冊の古びた本を取り出す。
革装丁の表紙には、擦れて読みにくくなった金文字――
《竜種図鑑・第一版》とあった。
「……これは」
ヘルダスの目がわずかに見開かれる。
ライナは微笑んだ。
「あなたの著書です。――この本を、子供の頃に読んで以来、私は竜に魅せられました」
ヘルダスの顔に、初めて柔らかな光が灯る。
「まだ、こんなものを持っている者がいたとはな……。だが、もう古い知識ばかりだ。今となっては恥ずかしい限りだよ」
「いいえ」
ライナは首を振る。
「この本がなければ、私は今ここにいません。あなたの言葉に出会って、世界の広さを知った。竜はただの恐怖の象徴ではなく――“理”そのものだと」
その声に、ヘルダスは息を呑む。
まるで長い年月、閉ざされていた扉が開く音がしたかのように。
「……若い頃、そう言ってくれる弟子がいればと思っていたものだ」
ヘルダスは椅子に腰を下ろし、震える手で本を撫でた。
「それで? お前が追っている竜とは、どんなものだ?」
ライナは少しだけ迷い、そして言葉を選ぶように口を開いた。
「――古代竜。」
「……ヴァスラフ?」
その名を聞いた瞬間、ヘルダスの手が止まる。
ライナは頷いた。
「十歳の頃、私は北の峡谷で“それ”を見ました。――いや、出会ったと言うべきでしょう」
修道院の空気が、音もなく変わる。
遠くで風が鳴き、蝋燭の炎がかすかに揺れた。
「黄金の鱗は夕陽を映し、瞳は深海のように静かでした。あの瞬間、心の奥に何かが流れ込んだ。
“見ている”と、確かに感じたのです」
ヘルダスは息を詰め、言葉を失った。
しばしの沈黙ののち、彼の頬を一筋の涙が伝う。
「……伝説ではなかったか。半生を費やしても、見つけられなかった真実を――お前が」
ライナは静かに首を振る。
「私は、ただ“導かれた”だけです。ですが、それ以来ずっと、あの竜がこの世界のどこかで生きていると信じてきた」
ヘルダスは深く息を吐き、椅子にもたれかかる。
「……愚かな老人だと思っていたよ。竜を追い続けても答えは見つからず、帝国にも見放された。だが――」
彼は涙を拭い、微笑んだ。
「お前のような者が現れたのなら、それだけで報われた」
ライナは静かに頭を下げた。
「あなたの知があったからこそ、私はここまで来られた。次は私が――続きを記す番です」
蝋燭の炎が二人の影を壁に映す。
師と、志を継ぐ者。
夜はまだ深い。
だが、その灯の中で、竜の記憶は確かに受け継がれていた。