第33話 悲鳴とは
――深夜。
ライナは宿の硬い寝台に身を横たえていた。
眠りは浅く、常に意識のどこかで外の気配を探っている。
だからこそ――あの悲鳴が夜を裂いた瞬間、彼は反射的に目を開いた。
「……!」
外套を引っ掴み、剣を腰に差し、音のする方へ駆け出す。
冷たい夜気が肌を刺し、広場に近づくほど血の匂いが濃くなる。
そこには村人たちが集まり、灯された松明に照らされて一人の男が倒れていた。
胸から腹にかけて大きく裂かれ、周囲には血が広がっている。
「ま、魔物だ! 黒翼の魔が出たんだ!」
誰かが叫び、怯えた村人たちが後ずさる。
ライナはその言葉を無視し、すぐに膝をついて遺体を調べた。
裂傷に指を当て、線の深さと角度をなぞる。
「……妙だな。」
傷口は獣の爪のように見せかけてはいるが、不自然に整っている。
しかも周囲の地面に残された爪痕は、土を掻きむしる力強さではなく――細く、同じ角度で刻まれている。
「これは……刃物で切った痕だ。」
ライナは低く呟いた。
その声に、近くで耳をそばだてていた数人の村人が顔を上げる。
「な、何を言ってるんだ……? こんな傷、魔物じゃなきゃ……」
「違う。これは人間の手によるものだ。魔物に襲われたように“偽装”されている。」
村人たちは一斉にざわめいた。
「じゃ、じゃあ……黒翼の魔なんて……?」
「影を見たのも錯覚か……?」
その時――。
遠く山の方から、低く響く鳴き声が夜を貫いた。
「――グゥォォォォ……」
村人たちが悲鳴を上げ、四散して家の中へ逃げ込む。
残されたのは、ライナと数人の若者だけ。
ライナは夜空を仰いだ。月明かりの向こうに、確かに大きな“影”が横切るのを見た。
その姿は一瞬で、まるで闇に溶けるように消えていく。
「……人の手による偽装、か。しかし影は……確かに存在する。」
ライナの瞳に、冷たい光が宿った。
「――真実を確かめねばならんな。」
そう呟き、彼は血痕と足跡を追うため、夜の広場を後にした。
――翌朝。
エルダ村は夜の惨劇の余韻を残していた。
広場の血痕には藁が敷かれ、村人たちは顔を曇らせたまま朝の仕事に追われている。
家々の扉は重く閉ざされ、子供の声すら聞こえない。
ライナは宿を出ると、約束していた村人に案内され、昨日名を聞いた若者――トーヴァンの家を訪ねた。
戸口に現れた彼は顔色が悪く、夜も眠れなかったらしい。
「……君が、影を見たという若者か。」
ライナの問いに、トーヴァンは唇を噛みしめ、小さく頷いた。
「……あれは、本当に……俺の頭がおかしくなったんじゃないかと思うくらい、でかい影でした。羽ばたきで木々が揺れて……。でも、姿ははっきりしません。ただ……」
「ただ?」
「山道のあたりで、誰かに呼び止められたんです。黒い外套の男でした。顔は見えなかったけど……『気をつけろ』って、低い声で言われて……」
ライナは黙ってノートを開き、昨日の遺体に残された“均一な傷痕”の記録と照らし合わせる。
――魔物の爪痕に見せかけた殺傷。
――現場に散らばる人為的な痕跡。
――そして“影”の目撃を利用して村人を恐怖させる者の存在。
全ての点が、一本の線で繋がり始めていた。
「……つまり、黒翼の影は“本当に存在する”可能性がある。だが、昨夜の殺しは――人の手によるものだ。」
ライナの冷ややかな声に、トーヴァンは顔を上げ、怯えたように問い返した。
「じゃ、じゃあ……あの人が……?」
ライナは窓の外、山を指差した。朝靄に包まれた渓谷の入り口が、薄い光の中に見える。
「昨夜、君を呼び止めた黒い外套の男。足跡は山道に向かっていた。……真相を確かめるには、そこへ行くしかない。」
彼は地図を折り畳み、外套を羽織ると、淡々と立ち上がった。
「トーヴァン。君には案内を頼む。恐怖を思い出すかもしれんが……君の証言が必要だ。」
若者は逡巡したが、やがて拳を握りしめて頷いた。
「……わかりました。」
こうしてライナは“黒翼の影”の真偽、そして魔物の仕業に偽装された殺人事件の真相を追い、山へと向かうことを決めたのだった。
――その瞳には、研究者の好奇心と探求心、そして冷徹な決意が燃えていた。