第10話 森とは
ライナは山へと足を踏み入れた。
木々の枝が密集し、足元は湿った土と枯葉で覆われている。
風が葉を揺らし、低く、共鳴するような鳴き声が再び遠くから届く。
しばらく進むと、視界が開け、山森の中に異様な光景が現れた。
木々が根元から薙ぎ倒され、枝葉が散乱している。
その空間だけが、不自然に静まり返っていた。
「……これは……衝撃痕か」
ライナは低く呟く。足元に残る跡を慎重に観察する。
土には深く踏み込まれた跡があり、幾何学的な筋状の裂け目が木の幹や地面に残っている。
彼の胸に再び、5年前の調査の断片が浮かぶ。
あの時も、同じように木々が倒され、翼の影と鳴き声が報告された。
だが、その時は現場に辿り着く前に調査は途絶えた。
視線を前に戻すと、その先に黒い影があった。
羽ばたきを止め、羽を休めているかのように、巨大な生き物が静かに佇んでいる。
その翼は夜の闇に溶け込むような漆黒であった。
「……間違いない……これはあの生物だ」
ライナの声は震え、しかし確信に満ちている。
彼は素早くノートを取り出し、書き込む。
→対象確認:黒翼生物。翼膜休息状態。
→特徴:大型、漆黒の翼、共鳴鳴き。
→位置:倒木帯奥。
→行動:静止、羽休め。
ライナは息を整え、背中のリュックを確認する。
「……よし。ここからが本番だ。観察・記録・接近――全てを記す」
彼は剣を握り、音を立てぬよう足を踏みしめ、倒木帯へと慎重に進み出した。
風が止み、森の空気が固まったように感じられる。
遠くで、低く、共鳴する咆哮が再び響く。
その瞬間、ライナの胸に研究者としての決意が燃え上がった。
「……逃すわけにはいかない。5年前の未完を、今、終わらせる」
そして彼は、黒い生き物へと歩みを進めた。
ライナは倒木帯の近くで足を止め、息を整える。
視線を定め、呼吸を落ち着けながら観察を開始する。
最初に感じたのは、その影の規模と静けさ。
普通の生物なら警戒音を発し、動きを見せるはずだ。だが、そこにいる存在はほとんど動いていない。
ライナはそっとノートを開く。
→第一印象:大型竜種、黒翼。
→行動:休息。警戒
しかし視線を凝らすと、ある異質な点に気付く。
「……羽?」と思った部分は、よく見ると翼膜ではない。細部の形状は皮膚の繋がりであり、翼骨の構造も竜類とは異なる。
さらに驚くべきことに、その生物は一体ではなかった。
二体が密着し、互いの体を重ね合わせるように休んでいる。
「……二体……か」
ライナは小声で呟き、ノートに急ぎ書き込む。
→個体数:2体。
→配置:互いに密着。
→形態:翼状の皮膜ではなく、背部皮膚の延長。
慎重に観察を続けると、輪郭がより鮮明になる。
頭部、尾、鱗の質感――それらは竜種の特徴を欠いていた。
骨格や鱗の構造は、竜というよりも大型の爬虫類に近い。
「……竜種でも亜竜でもない。これは……大型トカゲだ」
ライナの声には驚きと興奮が混じっている。
研究者としての本能が昂ぶる。
ノートには、冷静にだが確信を持って記された。
→種別:大型爬虫類(トカゲ類)
→特徴:黒色鱗、翼状皮膜、低咆哮。
→個体数:2。互いに密着。
→行動:休息、警戒心薄。
ライナは深く息を吐く。
「……なるほど。だからこそ、この鳴き声と影。あの噂の正体は、大型のトカゲだったのか」
背中のリュックを再び締め直し、ライナは視線を固める。
「これは、記録すべき発見だ。研究者ライナ、調査開始――」
そして彼は、倒木帯を慎重に越え、黒い大型爬虫類たちへと近づいていった。