07
──侯爵家を追い出された後のことだ。
身ごもっていることを知ったソフィアは、定期的に町医者の元へ訪れていた。
毎回ハリーが、悪路にも強いラバの荷馬車を出し、町はずれにある診療所に付き添ってくれた。その診療所が辺鄙な場所にあるのは、建物の横に薬草園が作られていたからだ。
迎えてくれたのは六十を過ぎた白髪交じりの男性医師と、彼の妻だ。その妻は、この町で最も多くの赤子を取り上げてきた産婆でもある。出産時は、彼女の手を借りることになっていた。
母子ともに健康であると診察を受けた後、ソフィアは外で待つハリーの元へ向かった。彼は正面玄関の入り口にはおらず、近くを捜せば薬草園にいた。
薬草に興味があるのか、声をかけても反応がなかった。ソフィアは彼の横に歩き寄り、同じく薬草ばかりの花壇を見下ろした。
「私、この薬草知っているわ」
「わっ! あ……ソフィ、終わったんだね。ごめん、気づかなかった」
ハリーは首の裏を撫で、素直に謝ってきた。プライドばかりが高い貴族男性とは違って実直で、憎めない人だ。
「いいのよ、ここまで連れてきてもらって感謝しているわ。それより薬草に詳しいの?」
「これでも王都で料理修行してきたからね。薬草には香りを付けるだけじゃなく、食材の保存にも使われていたし、病人に出す薬草スープの作り方も学んだことがあるよ」
料理の話になると、ハリーは子供のように目を輝かせた。料理を作っている時の彼は、仕事をしているはずなのに楽しそうだった。食材に話しかけているところを見てしまった時は、首を傾げたものだが。
「そうだったのね。それじゃ、この薬草の名前は知っている? その……妊娠に良いからって毎晩飲んでいたから」
数多くある薬草の中から、長く伸びた茎の先に黄金の花を咲かせた植物を指差した。
侯爵家では初夜の時から、妊娠を促すお茶として毎晩飲まされていた。ただ、お茶に入った植物を見たのは偶然だった。
侯爵家での生活に息苦しさを感じ始めた頃、庭園を散歩していると、邸宅の裏手から話し声が聞こえてきた。
『はい、今月分ね。そちらの若旦那様もお盛んなことで。それとも、若奥様のほうか?』
『余計なことは言わずに。命が惜しければ、頼まれたことだけをしなさい』
それは行商人の男と、侯爵家のメイド長だった。
メイド長の手には、黄色の花がついた植物が抱えられていた。代金を受け取った行商人は肩をすくめると、彼はそれ以上追及することなく裏門から消えて行った。
はじめはピンとこなかったが、行商人の言葉を反芻している内に、夜の営みのことを差しているだと気づいた。
なぜそれを行商人のような者が詮索してくるのかと思ったが、メイド長が大事そうに抱いている植物を見て察した。
毎晩出されているお茶は、子を授かりやすくなるためのもの。
ここの使用人たちにとっても、侯爵家の跡取りは必要だ。メイド長が誰の味方であっても、たとえ自分は良く思われていなくても、彼女たちが長年仕えてきた次期当主であるセルジュを、裏切るような真似はしないと思っていた。
──そう、思い込んでいた。
「ええ、と……ソフィ、それは本当……? この植物はシルフィウムと言って、避妊の効果があるんだ。あと、媚薬の成分も含まれていて、高貴な人たちの間では高値で取引されている物なんだけど」
「なん、ですって……?」
こんな所で実物が見られるとは思わなかった、と興味深そうに眺めるハリーの横で、ソフィアは思わず口元を押さえた。
同時に、足元が揺れるほどの眩暈を感じた。
貴族女性にとって、結婚すれば跡取りとなる子を儲けるのは至極当たり前のこと。
ただ、ソフィアの場合は愛する夫の間に子を授かりたいと強く願っていた。そして、ソフィアの気持ちとは別に、侯爵家の者たちも同じように望んでいるのだと思っていた。……だが、毎晩出されていたのは、まったく真逆の効果があるお茶だった。
「ソフィ? 顔色が良くないけど、大丈夫?」
一瞬ふらつくと、ハリーが気づいて腕を伸ばしてきた。けれど、男性に触れることができなくなったソフィアは片手を上げて、彼との接触を断った。
「本当に平気?」
「……ええ、大丈夫よ。それより、他にも知っている薬草があったら教えてくれない? 効果を間違って覚えていたら大変だわ」
「それはいいけど……」
心配そうに見てくるハリーを他所に、ソフィアは平静を装った。自分ですら、今の気持ちをどう表していいか分からなかったからだ。
「こっちの薬草は解熱効果があって、風邪をひいたときに使われることが多いかな。それから、こっちは傷や腫れ物の炎症を抑える効果があって。あっちの薬草は根や茎に不眠症を改善する効果が──……」
ハリーは驚くほど薬草に詳しく、一つずつ丁寧に効果と使用方法を教えてくれた。それだけ熟知しているのだから、ソフィアに教えてくれたシルフィウムの効果も間違ってはいないのだろう。
「はは……」
あれだけ毎日のように抱かれても、妊娠するわけがなかったのだ。
──ずっと、避妊していたのだから。
避妊をしながら房事を行っていたのだから、行商人がああ言ったことも頷ける。言い様のない羞恥に襲われ、体の血が沸騰するかと思った。
それでも子を身ごもることができた。
侯爵家の血を継いだ息子が。
あのお茶を最後に飲んだのはいつだったか。必死に記憶を辿っている自分に気づき、もはや乾いた笑いしか出てこなかった。