06
当主を亡くして喪に服しているランドリー侯爵邸は厳かな雰囲気はあるものの、富麗絢爛な建物に圧倒させられる。
馬車が停まると従僕がドアを開き、タラップを用意する。
セルジュが何も言わず先に降りた後、ソフィアはレオンを抱えたまま馬車から降りようとした。
「──手を」
「いいえ、結構です」
触れたくもない嫌いな相手であっても、紳士のマナーは忘れていなかったようだ。しかし、ソフィアはセルジュに触れることを拒否し、ゆっくり馬車から降りた。
すると、出迎えた使用人たちの顔色が一瞬にして変わった。
歓迎されないことは分かっていた。皆の目を見れば一目瞭然だ。
なぜ今頃になって帰ってきたのか。よくも戻ってこられたものだ。あんなことをしておきながら──直接言われなくても、彼らの顔にはそう書かれていた。
鋭い視線が突き刺さってくる中、ソフィアはレオンを極力彼らの目に触れないようにしながら、セルジュの後に続いた。
それでもソフィアが紫色の髪をした子供を抱いていれば、誰だって勘繰りたくなるだろう。
まさか、侯爵家の血を引き継いだ子供なのか。
そうであれば、一体どちらの子供なのか。
「ソフィア・クアン。君の滞在する部屋はこちらだ。それから子供部屋は別で用意する」
「その必要はありません。息子は私と同じ部屋を使います」
案内されたのは、邸宅の中で最も狭い客間だった。そこは、招かざる客が来訪した際に通す部屋だ。嫌な相手と顔を合わせないで済むように、当主の部屋からも一番遠い。
しかし、住んでいる屋根裏部屋より豪華だ。隣の部屋にはバスルームも併設されている。まさか、自分がこの部屋を使う日が来るとは思わなかったけれど。
「子供はランドリー侯爵家の跡取りだ。子供とはいえ個室を与えるべきだ」
「……何を仰っているのですか? レオンは私の子供です。侯爵家とは関係ありません」
「その話は後だ。まずは湯あみと食事の用意をさせる。今後の話をするのに、君のみすぼらしい格好を見せられては判断が鈍る」
──同情する気などないくせに。
背筋がゾッとするほど冷たい目で見下ろされて、ソフィアはレオンを抱きしめた。
絶対に奪われてなるものかと睨み返すと、セルジュは舌打ちし「着替えもこちらで用意させる」と言い残し、部屋を出て行った。
「……ママ?」
「大丈夫よ、レオン。……疲れちゃったわね」
昼に出発して、着いたのは朝方。夜の移動を避けて馬車の中で夜を明かした。けれど、慣れない場所といつも使っているベッドではなかったせいか、ぐっすり眠ることはできなかった。
レオンもまた欠伸をして、下がってくる瞼を擦り始めた。
「眠っていいわよ」
「んー……」
ソフィアはレオンをベッドへ運んだ。
だが、隅々まで整えられた天蓋付きベッドに近づいた瞬間、胸が苦しくなって呼吸ができなくなった。
あの日の忌々しい記憶が、鮮明に蘇ってきたからだ。
夫ではない男が、夫の弟が、どんな顔で義姉の服を脱がし、肌に触れてきたのだろうか。意識のない女を組み敷いて、どんな顔をして抱いたのだろうか──。
考えただけで吐き気を催して、息を止めた。
ソフィアは腕の中で眠りに落ちたレオンを抱え、ソファーに移動した。ソファーとはいえ、自分たちが普段使っているベッドより寝心地は良いはずだ。
レオンをソファーに寝かせると、ソフィアはその横に腰を下ろした。
戻ってきてはいけないところへ、戻ってきてしまった。疲れた体をシートに預けると、眠気が襲ってくる。
しかし、この屋敷では何があっても隙を見せてはいけない。油断すれば足をすくわれて、人生を狂わされるのだから。
それでも精神的にも肉体的にも限界にきていたソフィアは、眠りに落ちてしまった。
★ ★
婚約期間から続いていた使用人からの陰湿な嫌がらせは、セルジュと結婚してからも度々続いた。
「若奥様、本日お召しになるドレスが……」
王宮で催される舞踏会や、大規模なパーティーに招待されると、その日のために作ってもらったドレスが破損していることがあった。
レースや装飾品が取れ、スカートが破れていたこともある。最初は偶然だと思い、セルジュや他の者たちに相談せずにいると、その後も二、三回続いて、故意であることを気づかされた。
だからと言って、誰に伝えられるというのだろうか。全員が侯爵家に雇われた使用人で、敵かもしれないのに。夫であるセルジュを疑ったこともある。
ただ、破損されたドレスの代わりに用意されたドレスは、流行遅れや、露出が激しいものだったため、彼への容疑は晴れた。そのドレスは、セルジュが顔を顰めるものだったからだ。
「なぜそのようなドレスを……」
「申し訳ございません。準備していたドレスが着られなくなってしまい、こちらしか用意できず……」
そう答えるのが精一杯だった。
セルジュは怯えるソフィアを見て、それ以上訊ねてくることはなかった。
「これから君がドレスを選ぶときは、メイド長たちの意見も参考にするといい」
「……はい、そのように致します」
的外れな助言は、ソフィアを失望させた。いっそ問い詰めてくれたら、正直話せていたかもしれない。
けれど、そんな日がやって来ることはなかった。
夫に不評なドレスでパーティーに参加すると、ソフィアの服装に対して至るところから「まあ、なんてはしたない」「侯爵家ではドレスもまともに買ってもらえないのかしら」と、ソフィアを誹謗してきた。
それらの陰口から逃げれば、同じく出席していたロマーナにセルジュを奪われ、最初から彼女が彼のパートナーだったように振る舞っていた。
お似合いの二人に、彼らが踊り始めるとホールは華やぎ、音楽が止めば拍手の嵐だ。
最初はソフィアの結婚を祝福してくれていた人たちも、今では背中を向けてしまった。
皆から「お飾りの次期侯爵夫人」と言われている気がした。味方だと思っていた家族からも厳しく責め立てられ、早く子を身ごもるように言われた。それ以外に、妻として認めてもらう方法はないのだから──と。
婚約者から夫になったセルジュは、初夜からソフィアと肌を重ねてくれた。
ガラス細工を扱うように優しく、時間をかけてゆっくり、大切そうに抱いてくれた。その次の夜も、また次の日も。夫婦の寝室だけは、ソフィアにとって唯一心の休まる場所だった。
子供ができるのも時間の問題と思っていた。
けれど、セルジュとの結婚に浮かれていたのは、自分だけだったのかもしれない……。