05
婚約によって人脈が広がると、ソフィアは社交界で最も注目される令嬢となった。
ひとたびパーティーに参加すれば、入れ替わり立ち代わり人が挨拶に訪れ、ソフィアのご機嫌を窺いながら囲い込もうとする。
気難しいランドリー侯爵に気に入られ、無愛想な宰相を笑わせたという話が出回っているせいだ。壁や柱が話し相手だったのが、遠い昔のことのようだ。
家族はランドリー侯爵家の後ろ盾を得たことで、精力的に社交界活動を行い、事業拡大に乗り出していた。ソフィアに感謝してきたのは最初だけで、今では前と変わらない。
「ソフィア、ちょっといいかな。……香水に酔ったみたいだ」
「セルジュ様、こちらに」
ソフィアがお茶会などで知り合った貴族令嬢に囲まれていると、別で知人たちに挨拶を済ませてきたセルジュが戻ってきた。
セルジュが甘えた声ですり寄ってくると、周りにいた令嬢たちが小さな悲鳴を上げ、真っ赤になった顔を扇で隠す。しかし、ソフィアはセルジュの顔色が悪いことに気づき、彼を連れて外の空気が吸える場所へ向かった。
中庭に続く窓から大広間を抜け出すと、セルジュはすぐにソフィアの肩に頭を載せてきた。
「はぁ……生き返る」
「ハンカチを濡らしてきましょうか?」
「いや、大丈夫。ソフィアのそばにいたら落ち着くよ」
さらりと恥ずかしくなることを言われ、思わず息を止めてしまう。
どうしてですか、とセルジュの気持ちを確かめたことはないけれど、今だけは彼を独占できているのが嬉しかった。
自分だけが、彼を癒すことができる。その優越感と喜びで胸が震えた。
歓喜に酔いしれていると、室内からセルジュを捜す声が聞こえてきた。ソフィアは一瞬、セルジュの耳を塞いでしまいたい衝動に駆られたが、近しい者を大切にする彼の気持ちを無下にしたくなかった。
「セルジュ様、ロマーナ公女様がお捜しのようです」
「……もう少しだけ」
「ですが、こんなところを見られたら……」
「見られたら? 婚約者同士なのだから、何も悪いことはしていないよ。それとも他に問題が?」
結婚すれば夫婦になる者同士。二人きりのところを見られて困ることはない。ソフィア自身もこの時間が長く続いてくれればと思った。
けれど、セルジュを呼ぶロマーナの声がするたび、心臓が跳ね上がって恐怖を感じた。
「……分かった、戻ろうか。ハインツが引き留めておけるのも限界そうだ。このままだと兵士まで捜索を命じかねない」
何も答えずにいると、セルジュは察して中へ戻ると言ってくれた。しかし、安堵したのもつかの間、セルジュがソフィアの手を握りしめてきた。
「堂々と入っていけば怖くないさ」
「あ、あの……でもっ」
セルジュなりに気遣ってくれたのだろう。ソフィアが皆の目を気にせず、元いた場所へ戻っていけるように。
だが、ソフィアが恐れているのは、皆の視線ではなかった。
大広間に戻ると、ソフィアたちに気づいた者たちが小さく騒ぎ立てる。おかげで、彼らに見つかるのもすぐだった。
「セルジュ、今までどこに──」
捜していた兄の姿を見つけて、弟であるハインツは胸を撫で下ろす。その横で、仲良く手を繋ぐソフィアとセルジュを見た途端、ロマーナは表情を険しくさせた。
「まぁ、ソフィアも一緒だったのね!」
しかし、ロマーナは顔を綻ばせ、ソフィアの胸元に飛び込んできた。ソフィアは驚きのあまり後ろに倒れそうになって、セルジュに支えてもらった。
「──……痛っ」
瞬間、セルジュと手を繋いでいた腕に鋭い痛みが走った。皮膚をつねられたような痛みだったが、一瞬のことで気のせいかと思った。
「ソフィア?」
「……いいえ、何でもありません」
衝撃を受けてセルジュから手を放したソフィアは、ジンジンと痛みだす自分の腕をさすった。
ロマーナを見れば、彼女はソフィアにだけすごい形相で睨んできた。それは、大切な物を奪われた子供のように。
「そういえば、私のお父様が皆に会いたがっていたの」
「ああ、公爵閣下か。それならソフィアも……」
ロマーナはすぐに表情を変えて、セルジュにすり寄っていく。彼を見つめる彼女の目は、兄のような存在を慕うそれとは違っていた。
「私は気分が優れないので、休憩室に行ってきます。……失礼いたします」
「待って、ソフィア……っ」
ソフィアは彼らから一歩下がり、自ら離れた。
腕の痛みはだんだんと強くなっていき、わけもなく堪えきれなくなった涙が溢れだす。
──泥棒。
ロマーナに睨まれたとき、彼女がソフィアにだけ聞こえるように言ってきた。何も盗んだ覚えはないのに、一方的な敵意に恐怖が走る。
ソフィアは一人きりになれる場所を探し、多くの視線から見つからないように身を隠した。
息が、胸が苦しくて、うまく呼吸ができない。
それでも助けを呼ぶこともできなかった。
『ロマーナは、王弟であるビューヘン公爵閣下の娘だから、来年には同盟強化のため帝国に嫁ぐことが決まっているんだ。……皇帝陛下の第三夫人として』
ソフィアが侯爵邸に訪れるたび、見計らったようにロマーナもやって来て、セルジュを困らせていた。けれど、彼は彼女を追い返すことなく、ロマーナもそれを分かっているようだった。
それに、セルジュだけではない。ランドリー侯爵家全体が、傍若無人なロマーナに甘かった。彼女が格上の公爵家の令嬢だから、という感じではなかった。何か弱みを握られている、そんな気がしたのだ。
『本来は末の王女が嫁ぐはずだったんだけど、生まれつき病弱で二十歳を迎えられるか分からないそうだ。だから私の父上が、公爵の娘であるロマーナを推薦したんだ』
王弟の令嬢と、宰相の息子であれば顔を合わせる機会も多かっただろう。また年齢も近いことから、他の結びつきも考えられたが、そうはならなかったようだ。
『一度だけ、私とロマーナの婚約話も上がったけど、父上が反対してね。宰相が王弟と親密な関係になるのは良くないと仰っていたが、実のところロマーナに次期侯爵夫人が務まると思えなかったんだろう』
今まで知り得なかったことを聞かされ、ソフィアは言葉を失った。ソフィア自身もつい最近まで、愛する人との結婚は諦めていたばかりだ。
しかし、ロマーナは生まれ育った国を出て、妻がすでに二人もいる皇帝の元へ嫁がなければいけない。
ノブレス・オブリージュ──高貴な者は、それ相応の社会的責任と義務が伴う。それは、王弟の娘であるロマーナも例外ではなかったということだ。
『だから、今だけロマーナの我儘を許してやってほしい。行き過ぎたときは私が注意するから。……最後は笑顔で見送ってあげたいんだ」
ロマーナもまた、セルジュが守りたいと思っている内の一人。侯爵家の皆が、彼女に対して腫れ物を扱うように接する理由が分かった。
そして、ソフィアを蔑ろにする訳も……。
ロマーナと顔を合わせてから、使用人たちの態度が明らかに変わった。セルジュの目がない時だけ受けてきた嫌がらせは、どれも小さなものだったが、ソフィアの心を絶え間なく傷つけていた。
……なぜ、こんな酷い仕打ちをするのか。
セルジュに会える嬉しさの裏側で、次は何をされるのか怖くて、胸が苦しくなった。
それでも、セルジュに訴えることはできなかった。ロマーナや侯爵家の者たちは皆、彼が大切にしているものだから──何も言えなかったのだ。
婚姻が白紙になれば家族や、引き合わせてくれたランドリー侯爵を失望させてしまう。何より、セルジュに嫌われてしまうことの方が恐ろしかった。
あと一年経てば、ロマーナは帝国へ嫁ぐことになる。それまで我慢すれば、すべてが丸く収まる話だ。
自分だけが、耐えれば……。
けれど、天使の仮面を被った悪魔は、ソフィアの幸せを赦しはしなかった。
あんなことが起こるなら。
もっと早く訴えることができていれば、自分たちの関係は、手を取り合ったはずの未来は違っていたのだろうか──。
★ ★
「ママ、おそと、みて! はやいよ!」
「レオン、これは馬車という乗り物なのよ。お馬さんが引っ張ってくれているでしょ?」
宿屋を出発して、息が詰まりそうな馬車の中──。
無邪気な声はソフィアにとって救いだった。同時に、目の前に座る男から、今すぐ息子を隠したい気分に駆られた。
ランドリー侯爵家の新しい当主、セルジュ。ソフィアの元夫である。
「……息子は何歳だ」
急に話しかけられて驚くも、感情を押し殺して「三歳です」と答えた。外を見てはしゃいでいたレオンが、何かを感じ取って抱き着いてきた。
子供は大人が思っている以上に、周りの空気に敏感だ。ソフィアは不安がるレオンの背中を撫でた。
「見れば見るほど、弟の幼い頃にそっくりだ」
冷たい水を浴びせられた気分だ。仲の良い夫婦であれば、笑い話で済んでいただろう。
けれど、自分たちの関係が壊れた理由が、まさにそれだった。息子の手前無視することもできず、ソフィアはレオンの顔を抱き寄せてセルジュを睨みつけた。
「……お止めください、子供の前です」
「ああ、そうだな。だが、いつか知られることだ」
できることならレオンには、一生知られることなく育ってほしいと思っていた。ソフィアは最も恐れていることを指摘されて、唇を噛んだ。
だが、セルジュは足を組み直し、容赦なく問い詰めてきた。
「先ほど店にいた男は、新しい男か。女性ひとりで子供を育てるのは大変だからな」
「……いいえ、仕事仲間です。住み込みで働かせていただいている宿屋の息子です」
「なるほど。実家からも追い出された君には、うってつけの相手だったわけか。だが、彼は君のことを何も知らない様子だったな」
「彼らは関係ありません」
本名すら明かしていなかったのだから。だが、今回のことで彼らに知られてしまった。
「ソフィ」と名乗っていた女が、ランドリー侯爵家で不貞を犯した若奥様「ソフィア・クアン」であることを。
急いで出てきてしまったせいで、弁解もできなかった。彼らにはいつか打ち明けたいと思っていたのに、こんな形で知られてしまい胸が痛くなる。
「それより、お義父様がお亡くなりに……」
「義父と呼ばないでくれ。君の口からは聞きたくない。……あれほど元気だった父上が突然亡くなるなど、心労が祟ったとしか。あんなことさえ起きなければ……っ」
「──」
怒りと憎しみのこもった目で睨まれ、ソフィアはレオンを抱きしめる手に力を込めた。
それならば、なぜ会いにきたのか。
遺言などなかったことにすればよかったではないか。
言い様のない感情が込み上がる中、ソフィアたちを乗せた馬車は、二度と戻ってくることはないと思っていたランドリー侯爵邸に入っていった。
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