04
※登場人物名を一部変更しました。
その日を境に、ソフィアは少しずつ皆の前に出ていくようになった。
意図的に避けていた人とも積極的に挨拶し、言葉を交わすと、なぜ拒絶していたのか思い出せないほど仲良くなった。それから使用人たちとも打ち解け、陰口を叩かれることもなくなった。
霞んでいた景色が開け、陽の下に出たようだった。
さらに驚くことに、ソフィア宛に求婚の手紙が届いた。
相手はランドリー侯爵の長男セルジュ・ランドリーだった。
父親と兄は動揺を隠せず部屋の中を歩き回り、母親は気絶し、ソフィアは放心状態になった。
だが、格上の相手だけに断ることもできず、クアン伯爵家は侯爵家からの求婚を受け入れることにした。
宰相と繋がりを持ちたい貴族は多く、また侯爵家の跡取りと婚姻を夢見る令嬢も大勢いる中で決まった婚約……。
家族ですら諦めかけていたのに、突然舞い込んできた良縁に嬉しくないはずがない。
けれど、後に痛いほど思い知らされることになる。
この結婚は間違いだった──、と。
セルジュとの婚約が公になると、ソフィアの世界はがらりと変わった。
至るところからお茶会やパーティーの招待状が届き、誕生日でもないのに贈り物が絶え間なく贈られてくるようになった。
その中には、婚約者であるセルジュからのプレゼントもあった。中身はどれも高すぎず安すぎず、ソフィアの負担にならない物ばかりだった。
お互いを知るにはまだ早いのに、「君のことだから」と言われているようで恥ずかしかった。同時に、彼の何気ない気遣いと優しさが嬉しかった。
貴族の家に生まれた以上、好きな人との結婚はできないと思っていた。社交界ではいつも壁の花で、運命的な出会いすら夢見たことはなかった。
けれど、最初こそ恋愛とは程遠い関係だったのに、セルジュと会えた日も、会えなかった日も彼のことで胸がいっぱいになった。
面と向かって言葉にできない時は、どちらも手紙にしたためて送り合った。手紙を通じて伝えられる本音に、気持ちが高揚した。
これまで一人で過ごすことが多かったソフィアは、あらゆる本を読み尽くしていたおかげで、セルジュの難しい話も難なく聞き取り、さらに自分の考えを伝えることができた。
彼は、それが嬉しかったようだ。
父親と兄から「女のくせに」や「お前がそんなことを気にする必要はない」と言われてきたことが、今になって報われた気がした。
誰より自分を気にかけ、尊重してくれる人──他の男性とは違うセルジュを、好きになるのに時間はかからなかった。
「私は宰相である父上を尊敬しているが、いつも公平にと家族や身内にも手厳しく、母上を孤独に追いやった父上はどうしても許せなかった。だから、父上と同じ道は歩まない。私は、大切な人は何があってもこの手で守りたいと思っている」
「セルジュ様がどのようにお考えでも、私は貴方の妻として、それを精一杯支えていきます」
「……ありがとう、ソフィア。頼りになる奥さんだ」
婚約してから三ヶ月。ソフィアはランドリー侯爵邸に訪れ、婚約者のセルジュとお茶をしていた。
二人が婚姻を結ぶまで半年ほどあるのに、すでに彼の妻として振る舞っていることに気づいて、急に恥ずかしくなった。慌てて訂正するも、彼は嬉しそうに顔をほころばせた。
「君に初めて会った時、散歩に誘っても上の空で、私が話しかけても反応がなくて、あのような扱いを受けたのは初めてだったよ」
「そっ、それは、緊張していたからで!」
「国王陛下より恐れられている宰相に蜂蜜水だけ渡して、何も告げず去って行ってしまうような君が?」
「誤解です、私は……っ」
「あはは、分かっているよ。ソフィアの反応が可愛くて、ついからかいたくなってしまうんだ」
「セルジュ様!」
からかわれたはずなのに、子供のように笑うセルジュに、なぜかこちらのほうが嬉しくなってしまう。
すると、ソフィアの指先にセルジュの手が重なってきた。だが、彼の氷のように冷たい指に驚いてしまった。
「私はこれまで、女性から酷い裏切りを受けてきた。……宰相の息子としか見てもらえず、父上目的で近づいてきた女もいた。それから、命を奪われそうになったこともある」
「そんなことが……」
ランドリー侯爵家の次期当主で、宰相の息子。肩書きから見ても女性たちが放っておかない結婚相手なのに、なぜ彼に婚約者がいなかったのか今になって気づいた。
もしかしたら、以前はいたのかもしれない。けれど、その女性はセルジュを裏切ったのだ。
「正直うんざりして、結婚などもっと先でいいと思っていた。でも、君が現れたんだ」
「──……」
初めて会った時、ソフィアはセルジュに対して何の感情も抱いていなかった。正直、それどころではなかったからだ。
「私の場合は、その……場違いなところに招待されて、頭が真っ白になってしまったからで……」
「普通のご令嬢なら私と如何に関係を築くか悩むところなのに、完璧に無視されて、怒るどころか清々しい気持ちになったね」
自分にもっと自信があったら、もっと見た目が良くて誇れるものがあったなら、必死でセルジュを誘惑していたかもしれない。
「今でも、会ったばかりの女性に触れるのは怖いんだ」
彼の指先が冷たかったのは、女性に対する恐怖心からなのだと理解した。
それでも一歩踏み出して、ソフィアに歩み寄ってくれているのだと気づかされる。
「それでしたら、私たちはゆっくり歩んでいきませんか? あ、あの……私も、セルジュ様に迫られたら、心臓がもちそうにありませんから……っ」
「くっ、ふふ、……あはは、そうだね。でも、ソフィアとなら大丈夫そうだ」
「わた、私は、魅力が、ありませんから!」
「そうではないよ、全然違う──」
セルジュはそう言ってソフィアの手を強く握り締めてきた。冷たかった指先はソフィアの温もりを取り込んで、瞬く間に同じ体温になる。
見つめてくる青い瞳は熱を帯び、危うさを孕んでいるのに目をそらすことができなかった。
想いが、愛が、あふれ出しそうになる。
──その時、控えていた使用人たちがざわめき始め、二人は弾かれたように振り返った。
「ご機嫌よう、セルジュ! 貴方が食べたいと言っていた氷菓子を持ってきたわ」
「……ロマーナか。来る時は連絡するようにと、何度も言っているだろ」
慌てる使用人を引き連れ、背中に流れる金糸の髪を揺らしながら現れたのはビューヘン公爵家の令嬢だった。
セルジュは立ち上がり、彼女を出迎えた。
人目を惹く容姿の二人が並ぶと、一枚の絵画を見せられている気分になった。ソフィアがその場から動けずにいると、使用人たちの方からクスクスと笑う声がした。確かめるのも怖くない、俯くしかなかった。
すると、セルジュがソフィアの元へ戻ってきて「紹介するよ、ソフィア」と声をかけてきた。ソフィアは立ち上がり、彼らの前に立った。
「ビューヘン公爵家のロマーナ公女だ。彼女とは幼馴染で、私にとっては妹のような存在だ。ロマーナ、こちらはソフィア・クアン伯爵令嬢、私の婚約者だ」
「まあ、それでは貴女が……。ロマーナ・ビューヘンよ。セルジュお兄様のこと、よろしくお願いしますね」
「ビューヘン公爵令嬢にお会いできて光栄です。クアン伯爵家の長女ソフィアと申します」
ソフィアはロマーナに向かって、スカートを軽く持ち上げた。
「それよりセルジュ、早く行かないと氷菓子が溶けてしまうわ!」
最初は値踏みするように見られたものの、すぐに興味をなくしたのかロマーナはセルジュに向き直った。それから彼の腕をつかんだ。
「お、おい、ロマーナ!」
「ほら急いで!」
セルジュはロマーナの強引さに驚くも、彼女の手を振り払うことはなかった。女性に触れるのは怖いと言っていたが、幼い頃から一緒に過ごしてきたロマーナは平気なのだろう。
ソフィアは遠ざかっていくセルジュの姿を見つめながら、胸元を押さえた。
セルジュの腕をとったロマーナが、一瞬こちらを見て勝ち誇ったように笑ったのは、気のせいだろうか。
一人置き去りにされたソフィアは、自らの腕を抱きしめた。
それがビューヘン公爵令嬢ロマーナと、初めて言葉を交わした日のことだった……。