03
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クアン伯爵家の長女ソフィア・クアンは、厳格な父に、夫の顔色を窺いながら彼に訊き従う母と、両親の自慢である兄を持った貴族令嬢だった。ブラウンの髪色に黒い瞳を持った、良くも悪くも記憶に残らない外見。お世辞にも美人とは言えなかった。
一方、兄は母譲りの金髪と美しい顔立ちで、両親からの愛情や期待を一身に受けた。おかげで、悪いところはすべて妹のソフィアにいったのだと、陰口を叩かれるのは日常茶飯事だった。
そのせいで自分に自信が持てなくなり、いつも社交的な兄の後ろに隠れ、人前に出ることは控えていた。
けれど、静かに過ごしていても、周りはそんなソフィアを放ってはおいてくれなかった。
屋敷の中でも話し相手がいなかったソフィアは寂しさを埋めるように、庭園に出れば庭師と、馬を見に行けば馬丁と軽く言葉を交わすことがあった。ただ、問題が起きるようなことは何もなかった。
なのに、大人しい顔をして使用人を誘惑していると噂された。それが父親の耳に入り、激しい叱責を受け、一週間ほど部屋で謹慎することになった。
その間にソフィアと噂になった使用人は屋敷から追い出され、二度と顔を合わせることはなかった。
この屋敷で味方になってくれる者はおらず、ソフィアはますます孤立していった。
転機が訪れたのは十八歳の時。事業取引のあったビューヘン公爵家のパーティーに招待され、家族揃って参加した時のことだ。その時も、両親が周りに紹介するのは兄ばかりで、ソフィアはいつものように壁の花に徹していた。
しかし、窓の外を眺めていると、テラスで胸元を押さえる男性を見つけてソフィアは駆け出していた。
「あの、蜂蜜水の入ったグラスをいただけますか?」
ソフィアは通りかかった給仕から飲み物を受け取り、月明かりに照らされたテラスに出た。
「お加減が悪そうですが、大丈夫ですか?」
「君は……」
ソフィアが近づくと男は驚いた様子で振り返った。
年齢は父親と同じぐらいだが、上品な装いから上位貴族であることがうかがい知れた。
「でしゃばった真似をしてすみません。苦しそうにされていたので……飲み物をお持ちしました。ここに置いておきます。では、失礼します」
「君、待ちたまえ……っ」
人の影に隠れて生きてきたソフィアにとって、これでも勇気を出したほうだ。
だが、相手の顔もろくに確認せず、持ってきたグラスを近くのテーブルに置いて、あとは逃げるようにして会場に戻ってきた。
後ろから呼び止められた気もしたが、自分の心臓の音であまり聞こえなかった。
「き、緊張したわ……。でも、あの方は平気だったかしら」
相手からすれば、名前も告げずグラスだけ置いていった小娘に困惑したかもしれない。今からでも引き返して様子を見に行くべきか。
迷っている時、少し離れたところにひと際大きな人の輪ができていた。その中心には、パーティーの主役であるビューヘン公爵家の令嬢ロマーナ・ビューヘンの姿があった。
本日誕生日の彼女は大勢の招待客からプレゼントを受け取り、たくさんの友人知人に囲まれ、満ち足りた顔から笑顔が絶えることはなかった。
刺繍と宝石であしらわれた黄色のドレスに、愛らしい顔立ちをさらに引き立てる金糸の髪と桃色の瞳。彼女の美貌に、誰もが酔いしれる。
現に、ロマーナの近くには眉目秀麗の男性たちが、彼女を守るように立っていた。
自分とは住む世界が違う人たち……。
先ほど勇気をしぼって人助けをしたことが、とてもちっぽけに思えて、ソフィアは彼らから背を向けて、人目につかない場所へと移動した。
パーティーから五日が経って頃。変わりない日々を過ごしていると、突然父親の執務室へ呼ばれた。急いでいくと、父親が顔を真っ赤にして待っていた。
「ソフィア、お前は一体何をしたんだ!」
「……何かございましたか?」
「先ほどランドリー侯爵家の使いの者がやって来て、三日後に私と娘のお前を食事に招待したいと言ってきた」
ランドリー侯爵家と言えば、王国で知らない者はいない。侯爵家の当主は宰相の職に就いている国王の右腕だ。
宰相に目をつけられた貴族は寝床まで調べられると云われるぐらい、国王より恐れられている方だ。
「侯爵様とお会いしたことは一度もありません」
「だったらこれは一体……っ! ──いや、侯爵家には息子が二人いたな。我が伯爵家はどの派閥にも属さず、中立を保ってきた。これは良い機会なのかもしれない」
「お父様?」
急に一人でぶつぶつ言い始めた父親を心配そうに見つめると、父親は態度を一転させ、娘にしっかりめかし込むように命じてきた。
それは母親とメイドたちも巻き込まれ、三日後に招待された晩餐会のために、装いを一式買い与えられる程だった。
兄は「期待するだけ無駄なのに」と言ってきたが、妹だけが招待されたことに苛立っている様子だった。母親はそんな兄をなだめていた。
招待された当日、緊張した面持ちでランドリー侯爵家に向かった。馬車の中では父親から「余計なことは言わず、尋ねられたことだけ答えるように」と、繰り返し言われた。
せっかく用意されたドレスはもちろん、社交デビューしたときより着飾ってもらったのに、誰も見てはくれなかった。それが少しだけ寂しかった。
けれど、いつものことだと思えば諦めも早かった。招待された侯爵家でも同じだろう。兄が言っていたように、期待するだけ無駄だと浮き立つことはなかった。
馬車がランドリー侯爵家に到着すると、大勢の使用人たちが出迎えてくれた。屋敷の執事に伝えると「お待ちしておりました」と、一等豪華な来賓室に案内された。
執事は主人を呼びにいくため部屋を出ていく。ソフィアは父親の横で大人しく座っていた。
しばらくすると再び部屋の扉が開き、場の空気が変わった。使用人たちからも緊張しているのが伝わってくる。
「待たせてしまい申し訳ない。突然の招待にも関わらず、応じてくれて感謝する」
「いいえ、ランドリー侯爵閣下にお会いできて大変光栄です」
ランドリー侯爵と父親が、お互いの名前を伝え合って握手を交わす。二人はさらに一言、二言喋った後、ふと視線を感じてソフィアは顔を持ち上げた。
その時、どこまでも深い青い瞳と視線が重なった。一瞬見惚れてしまうと父親から「ソフィア」と叱咤され、慌ててドレスの脇を掴んだ。
「し、失礼いたしました! クアン伯爵家の長女でソフィア・クアンと申します。この度はご招待いただき、ありがとうございます」
「そうか、ソフィア嬢というのか」
誰に対しても容赦のない人だと聞かされていたせいか、勝手に怖い人だと思っていた。けれど、ソフィアを見つめてくる目も、声色も、父親以上に優しかった。
「先日あったビューヘン公爵家のパーティーで会っているのだが、覚えてないだろうか?」
「……いいえ、申し訳ありません」
ソフィアは俯いたまま答えた。
改めて確認する必要がなかったからだ。侯爵が持つ深い青色をした瞳は、一度見れば忘れようがなかったから。それでも覚えていないのだから、会ったことはないはずだ。
だが、それでは侯爵の勘違いだということになってしまう。ソフィアは内心、期待外れだと追い出されたらどうしようという不安に駆られていた。
「暗かったからよく見えなかったのだろう。お嬢さんは気分の悪くなった私に、ワインを持ってきてくれたはずだ」
「まさか、あの時の。……いいえ、お待ちください! 私はワインではなく、蜂蜜水の入ったグラスをお持ちして……っ」
「──ああ、その通りだ。ワインではなく蜂蜜水だ。それは届けてくれた君にしか知らないことだ」
確認するために嘘をつかれたのだと、ソフィアは何ともいえない表情を浮かべた。
あの日の彼が無事だったことを喜ぶべきか、彼の正体が宰相だったことを恐れるべきか。招待された食事もこれからだというのに、足元がぐらぐら揺れて立っているのもやっとだった。
「お礼をしたかったのだが、君が何も言わず去ってしまったからね」
「さ、些細なことでしたので」
「ソフィア……っ」
頭が真っ白になって、自分でも何を言ったのか分からなかった。隣から父親に叱咤されて我に返るも、発言を取り消すには遅かった。
目を丸くする侯爵と目が合い、ソフィアは息を呑んだ。ところが、侯爵は表情を緩めると、声を上げて笑った。
「あはは! そうか、些細なことだったか。それだけソフィア嬢には当たり前のことだったようだ。クアン伯爵は良い娘さんをお持ちだ」
「いいえ、そんなことは……恐縮です、侯爵閣下」
貴族の間では、国内外の情勢が変化しない限り、宰相の顔が崩れることはないだろう言われている。それほどに、彼は鉄仮面のように表情を変えたことがない。
なのに、楽しそうに笑った侯爵は、彼に仕える使用人にとっても予想外だったらしく、あちこちで物が落ちる音がした。
「だが、私は気遣ってくれたソフィア嬢の優しさが嬉しかった。改めて礼を言わせてくれ。ありがとう」
「……いいえ、何も告げず立ち去った無礼をお許しください。ご無事で安心いたしました」
ソフィアなりに侯爵の無事を心から喜ぶと、彼は一瞬複雑そうな顔をした。しかし、それも一瞬で見間違いだったのかもしれない。
「さて、食事の席に案内しよう。口に合うといいんだが」
そう言って、侯爵自らダイニングルームに案内してくれた。
彼は終始穏やかな表情をしていて、とても冷酷な宰相には見えなかった。むしろ、粗相をしないようにと見張っている父親のほうが恐ろしく、豪勢な料理を味わうこともできなかった。
食事が終わる頃、侯爵が二人の息子を紹介してくれたが、場違いな雰囲気に呑まれて頭に入ってこなかった。
記憶では、長男に提案されて庭園を散歩した気がする。隅々まで手入れの行き届いた庭園を歩きながら、着飾った姿を褒められたが、社交辞令な言葉が耳をかすめていくだけだった。
長く居ればいるほど、自分の存在が浮いているように感じた。
挨拶もそこそこに父親の元へ戻り、あとは隠れるようにしてやり過ごした。
だが、侯爵家から帰る馬車の中で、父親が珍しく上機嫌で口を開いた。
「ソフィア、よくやった」
父親に褒められたのは、これが初めてだった。
飛び跳ねるほど嬉しかった。
ただそれだけのことなのに、不思議と自信を持つことができた。あの日の行動は正しかったのだと、間違いではなかったのだと、ようやく自分自身を労った。