02
夜遅くまで酒場の給仕や片付けをしている女将は、昼時の忙しくなる時間に起きてきて仕事を始める。
「ソフィ、これを運び終えたら次は下げてないテーブルの片付けを頼んだよ!」
「はい、分かりました!」
店内に響き渡る女将の声は、この宿屋の名物だ。この声を聴きにわざわざ来る常連客もいる。母親に叱られているようで懐かしみを感じるようだ。
客の中には、ソフィアのような若い女性が女将にこき使われているのを見るのが好きな客もいたが、おかしな客は容赦なく追い出してくれるので、問題が起きたことはない。
確かに仕事では厳しいこともあったが、それもまた女将の愛情を感じ、こき使われていると思ったことはなかった。
ここでは自分を必要としてくれる。それだけで嬉しかった。
昼の忙しさが落ち着くと、ソフィアは店の端で遊ばせていた息子のレオンを呼び、ハリーの作ってくれたまかない飯を食べる。
「ママ、ハリーのごはんおいしいね!」
「ハリーったら、またレオンのお皿に野菜を盛らなかったわね」
「たべたくにゃい」
「ダメよ、レオン。お野菜は食べないと」
「おいちくない」
レオンはスプーンをぎゅっと握り締め、皿に盛られた鶏肉のシチューを口に運んだ。
三歳になったレオンは何でも自分でやりたがる時期に入り、食事も一人で食べるようになった。
ソフィアは息子の成長を感じながら隣で見守った。時折、スプーンからポタポタと垂れるシチューをタオルで受け止めながら。
懸命に食べる姿はいつ見ても可愛い。
甘やかさないようにしていても、その愛らしさから、ソフィアはレオンの頭を撫でた。
パッとしない自分とは違い、紫色の髪を持って生まれたレオンはいつも好奇の目に晒された。瞳だけでも同じ色で良かったと思うべきか、息子もいずれ真実を知るときがくるのだろう。
その時、どう説明するべきか気が重くなる。
ソフィアが小さなため息をついた時、店の入り口が騒がしくなった。視線を持ち上げると、宿屋のドアが開いて、常連客の一人が慌てた様子で駆けこんできた。
「た、大変だ! 店の前に馬車が停まって、貴族様がいらしたぞ!」
このような田舎の町に貴族がやって来るのは珍しい。
王都にも近いことから、通り過ぎることはあっても、わざわざ立ち寄る必要はない。他に目的がない限りは……。
「──この宿屋に、ソフィア・クアンはいるか」
馬車のドアが開いて、上質な紺色のスーツを着た男が店内に入ってきた。冷淡な目つきに、誰も何も言えなくなってしまう。
けれど、鮮やかな紫色の髪を見た瞬間、知っている者はある人物を思い出したことだろう。この村では唯一の髪色なのだから。
女将たちが一斉に振り返った。貴族の馬車と聞かされてすぐにレオンを抱きかかえたソフィアだったが、とても逃げられる状況ではなかった。
店の入口に背を向けてやり過ごそうとしたが、一歩ずつ近づいてくる人の気配がした。
「ランドリー侯爵、私の父が亡くなった」
「──っ!」
突然知らされた訃報に、ソフィアはレオンを抱えたまま振り返っていた。そこに立っていたのは、数年ぶりに会う元夫だった。
「父の遺言に従い、君に渡す物がある」
「……わ、私には必要ありません。もう市井に下った身です。お義父様のことはお悔やみを。どうか、そっとしておいてください」
一時は義理の父娘として過ごした仲だが、仲が良かったかと言われれば分からない。
相手はこの国で最も忙しい人であったため、家族であっても顔を合わせて食事をすることは数えるぐらいだった。
そして最後は、追い出されるようにして屋敷を後にしてきた。彼もまた家族を崩壊した女として、自分のことを恨んでいると思った。だから、亡くなってから渡す物があると言われても、到底信じられなかった。
しかし、義父の跡を継ぎ、新たなランドリー侯爵家の当主となった元夫セルジュは、他にも違う考えを持っていたようだ。
背中を向けたまま話すソフィアに痺れを切らしたのか、いきなり手首をつかんで引き寄せられた。
「君に拒否する権利はない。ここにいる者たちに危害を加えられたくなかったら私と来るんだ、ソフィア・クアン」
「な、……なぜ、そんなことを!」
「今の身分など関係ない。君が私の元妻で、ランドリー侯爵家の血を継いだ息子を産んでいたことが重要なんだ」
「痛っ、放してください……っ」
強く握り締められた手首に痛みが走って、思わず声を上げてしまう。と、後ろに隠れていたレオンが飛び出して「ママをはなせ!」と、セルジュの足にしがみついた。
「この子が……」
セルジュの意識がソフィアからレオン移り、何かされるのではないかと血の気が引く。最悪の事態が脳裏をよぎると、近くにいたハリーがレオンを抱き上げてくれた。
「貴族様、無礼をお許しください。それから、子供の前で暴力は……」
「暴力だと……? ハッ、何も知らない者からすれば、そのように見えても仕方ないだろうな」
平民から指摘されても、セルジュは怒ることなくソフィアの手を放した。だが、彼が伴った護衛の兵士は、いつでも剣を抜ける体勢だった。
「レオン、いらっしゃい」
ソフィアはハリーに抱きかかえられたレオンに両手を伸ばし、息子を受け取った。
このまま何もしなくても、確実に誰かは危険な目に遭う。最初から選択肢などなかったのだ。
「ソフィ……違うよな?」
「ごめんなさい、ハリー。女将さんも、ご迷惑をおかけしました」
心配そうな表情の二人を見ていると、胸が張り裂けそうになってくる。
だが、そんな彼らもすぐに軽蔑の目を向けてくるはずだ。真実は捻じ曲げられて、誰も本当の声を聴いてくれる者はいない。
「……分かりました。貴方に従います」
振り返ったソフィアはセルジュに向かって口を開いた。久しぶりに視線を重ねた元夫は、以前よりやつれて見えるも、ソフィアを直視してくる目は鋭かった。
「ならば今すぐ馬車に乗るんだ。必要なものがあれば侯爵家で用意する」
強引だが、確実な方法。皆の目がある中、ソフィアはレオンを抱いたまま店を出て、留まっていた馬車に乗り込む。馬車にはランドリー侯爵家の紋章が施されていた。
ソフィアの乗った馬車には、当たり前のようにセルジュが同乗した。皆の視線が痛いほど突き刺さってくる。とくに、戸惑うハリーと目を合わせることができなかった。
レオンを抱いたまま俯いていると、セルジュが馬車の扉を閉める。
「出発しろ」
冷たい声が車内に響く。
命じられた御者は慌てて馬の手綱を掴み、馬車を走らせた。





