20
執務室へたどり着くまで、使用人と会うことはなかった。その多くが先ほどまでいた地下牢に閉じ込められているのだから、仕方ないのかもしれない。
前に来た時と違って、机やテーブルには書類が散らばっていた。処罰する者があれだけいるのだから、仕事も山積みになるはずだ。
セルジュは重い体を引きずるようにして机に向かうと、一枚の書類を持って戻ってきた。
「これは……」
おもむろに差し出されたのは、ソフィアのサインが入った契約書だった。無理やり侯爵家に連れて来られ、一方的に結ばされたものだ。
息子を差し出すか、それとも息子共々奴隷に落ちるか。ソフィアの答えは、愛する息子を渡すことだった。
あの時の記憶が鮮明に蘇ってきて、悔しさから唇を噛んだ。
──いくら真実が明らかになっても、嬲られ、痛めつけられた過去は消えてなくならない。
言い様のない怒りが湧いてくると、それに気づいたセルジュがいきなり契約書を両手で引き裂いた。
半分になった紙をさらに重ねて半分に破り、掌に収まるほどの大きさになるまで細かく刻むと、そのまま床に落とした。
ひらひらと紙が舞い落ちていく中、セルジュは突然両膝を床につけて、ソフィアの前に跪いた。
「──……すまなかった、ソフィア。君を、信じてやることができなかった……っ」
セルジュは皺がつきそうなほどズボンを握りしめて、頭を下げてきた。
彼はここ数日の間に、一体何人の裏切りを知ることになったのか。その中には家族と変わらない時間を共に過ごし、彼が守ろうとしてきた人たちだった。
でも──だからこそ、いくら謝罪されてもソフィアの胸は揺れ動かなかった。
「貴方が守りたいと仰っていたものに、私は入っていなかった……。ただ、それだけのことです」
セルジュは家庭を顧みず、家族だろうが公平に裁く父親のようにはならないと言った。
そして、大切な人は何があっても守ると誓ってくれた。けれど、そこに自分は含まれていなかったのだ。
「侯爵様が守ってきたのは、その時によって自分に都合が良い方だったのでしょう」
「ちがっ、それは違う! 私は、君のことだって守るつもりだった!」
否定するために顔を上げてきたセルジュは、深く傷ついた表情を浮かべ、ソフィアの両手をそっと握りしめてきた。
ひんやりと冷たい指先に触れられ、腕にかけて鳥肌が立った。
「……守れなかったから、今こうして離れてしまったのではないでしょうか」
「ソフィア、待ってくれ……っ。頼むから、私の話を聞いてくれ! これまでのことを謝罪し、君や、君の家族にも慰謝料を支払う。必ず真相を世間に公表し、君の名誉を取り戻すから……っ!」
今になってすべてを取り戻したところで、この数年の間に味わってきた屈辱や、やるせなさは消えてなくならない。
侯爵家でどんな仕打ちを受けても耐えてこられたのは、夫であるセルジュを愛していたから。彼もまた愛してくれていたから。
自分も彼を、彼の信念を守っていきたいと思った……。
「信じてほしかった……。嘘でも、信じていると言ってくれたら……」
自分たちの関係が、完全に終わることはなかった。
嘘でも守ってくれていたら、ロマーナの陰謀も、ソフィアの不貞行為が捏造されたものだと、もっと早く突き止めることができたのではないか。
結局は、彼が選んだことだけれど。
ソフィアは気持ちを落ち着かせるように深呼吸した後、セルジュの手を払いのけた。
「明日、息子と出ていきます。前侯爵様が譲ってくださった家に移ります。必要な報告があれば、そちらへお願いします」
「ソフィ……ソフィア、待ってくれ! 今の私を一人にしないでくれ……っ。……どうか、このままここに留まってくれないかっ」
侯爵家から追い出され、実家からも追い出され、本当に一人ぼっちになってしまった時、ソフィアの隣に寄り添ってくれたのは、初めて出会った宿屋の女将だった。
「レオンは私の息子でもあるんだ! 君だってあの子を、父親のいない子供にしたくはないだろ!?」
手を振り払われると、セルジュは真っ青な顔でソフィアのスカートにしがみついてきた。
「私たちがやり直せば、レオンは侯爵家の跡取りだ! このまま平民として育てれば、いつかあの子が自分の出生を知った時、機会を奪った君を憎むかもしれない!」
セルジュは目の前に垂らされた最後の糸を、何としても手放さないために、使えるものは何でも使って引き留めようとしてきた。口角を持ち上げて、鬼気迫る形相にゾッとする。
だが、ソフィアも引く気はなかった。
酷い仕打ちを受けてきた過去の自分を守るため、愛する息子を守るため、譲れないものがあるのは同じだ。
「ここに残って貴方とまた夫婦に戻らなければいけないのなら、私は息子に恨まれるほうを選びます」
「ソフィア……!」
ソフィアはセルジュに掴まれたスカートを引き寄せ、床に這いつくばる彼を冷めた目で見下ろした。
無理やり契約を結ばされた時とは、随分と立場が変わってしまったものだ。
「──先に手放したのは貴方です。貴方が守りたいものを選び、そして私を……見捨てたのです」
短くも一緒に築こうとしていた愛も、信頼も、家庭も、すべて──。
「ですから、私の気持ちを無視して取り戻そうなどと思わないでください。私は二度と、貴方の元へ戻るつもりはございません」
「────」
決別の言葉を伝えると、セルジュは目を見開いて、信じられないものを見るような顔で見上げてきた。彼の中で何かが砕け散ったようだ。
「今度こそ、公平な判断をお願いします」
これは小さな意趣返しだ。
公平な父親のようになるまいと努めてきたセルジュが、最後は守ろうとしてきたものに裏切られてすべて失った。少なくとも、公平に目を向けていれば防げたかもしれないのに。
「ソフィ……待っ、……あああっ」
頭を下げて執務室を出ていくと、閉じた扉の向こうから雄叫びのような声が聞こえてきたが、振り返ることはなかった。
ソフィアは使っていた部屋に戻ると、ベッドで眠るレオンを抱きかかえた。動けるようになった今、この状況で夫婦の部屋を使うことは憚られたのだ。
腕の中で眠るレオンを起こさないようにそっと部屋を出たソフィアは、以前通された客間に移動した。しっかり部屋の鍵をかけて、ベッドに入ればレオンが抱き着いてきた。
「おやすみなさい、私の愛する子」
考えることが多すぎて頭の整理はつかなかったが、今はただ息子が安心して眠れるように願った。
ソフィアも自然と眠りにつくと、久しぶりに見た夢の中では、宿屋で楽しそうに過ごすレオンと、ハリーと、女将と、そして自分の姿があった……。
「──申し訳ありませんでした。もし、侯爵邸に戻ってこられましたら、誠心誠意お仕えいたします」
宿屋で働いていた癖で早朝に目覚めたソフィアは、身支度を整えて廊下へ出た。すると、数人の使用人たちが血相をかけて慌ただしく走り回っていた。
ソフィアが一人に声をかければ、至極驚いた反応をされた。どうやら勝手に部屋を移動してしまったことで、深夜の内に出て行かれたと思われてしまったようだ。
彼らの仕事を増やしてしまい申し訳なく思いつつも、侯爵家の人間だった時はいくら一人になっても、使用人たちが捜しに来てくれたことはなかったことを思い出す。
「あの時、たった一人でも私を引き留めてくれる方がいたら、私の答えは違ったでしょう。──ここへ戻ってくることは二度とありません。皆さん、どうぞお元気で」
使用人に馬車を依頼すると、肝心のセルジュは話せる状態にないため、家令が手配してくれた。
準備が整うまでソフィアは前侯爵が残してくれた書類を手に入れ、手紙を書き、レオンが目覚めたタイミングで朝食をとった。
馬車の用意ができたと玄関先へ行けば、侯爵家の兵士たちが待機していた。ロマーナの脅威が去っていないため、交代で護衛に当たってくれるという。セルジュの指示なのか、レオンを守るためと思って今だけ素直に受け入れた。
ソフィアは挨拶の言葉を残し、レオンと共に紋章のない馬車に乗り込んで侯爵邸を後にした。
──追い出されたのではなく、今度は自らの意思で。
家に向かう途中、宿屋と取引のある商業ギルドに立ち寄って手紙を託した。
再び馬車へ乗り込もうとした時、ふと誘われるように視線を走らせると、リズに似た妊婦を見かけた。
しかし、彼女に寄り添っていたのはハインツとは違う別の男性だった。人違いかもしれない。ただ、謝罪に訪れた時、みすぼらしい格好とは裏腹に、腹を抱える手が綺麗だったことだけが引っかかっていた。
「もう関係ないわね……」
彼らとも決別したばかりだ。
ハインツたちがどんな結末を迎えるかなど、知る必要はない──。
ソフィアは首を振り、それらから背を向けるように馬車へ乗った。





