01
宿屋の朝は早い。
隣でまだ眠っている三歳の息子を起こさないように、そっとベッドから這い出る。
容器の中に入った水を平たい皿に移し、顔を洗う。外はまだ夜が明けていないせいか肌寒く、水も冷たかった。
それから夜着のシュミーズの上から、胸元で編み込むコルセットをつけて、ペティコートを被って腰に固定する。最初は慣れなかったそれも、今では体で覚えてしまった。
最後にエプロンを身に着けたソフィアは、そっと部屋を出た。
ここは、王都から馬車で半日のところにある町の宿屋兼酒場だ。宿屋と言っても二階の空き部屋を寝床とし提供しているだけで、メインは酒場だ。
朝から食事と酒を出しており、町の住人や、旅人や商人たちが立ち寄っていく。
王都から比べれば小さい町だが、目立った貧富の差はなく、顔見知りとなった住人たちは気持ちの良い人ばかりだった。
この町にやって来たのは四年前──。
夫や使用人たちから裏切り者の烙印を押され、実家に帰っても罵倒されるだけだった。
何が起きたのか分からないまま生きる気力を失い、王都の中心を流れる運河に身を投げようとしたところで、今の宿屋の女将に助けられた。
王都へ買い出しに来ていた女将は、この町に連れてきてくれた。素性を訊ねられることはなく、ただ静かに慰めてくれた。
だが、それだけではない。
帰る場所もなければ、行く当てもない「ソフィ」と名乗っただけの女を、宿屋で雇ってくれることになった。物置に使われていた屋根裏部屋を借りることになり、住み込みで働き始めた。
最初のひと月は掃除もできず、慣れない給仕に失敗続きだったが、女将や常連客のおかげで少しずつ仕事を覚えられるようになり、初めて給金を貰ったときは涙が出た。
そんな時、体調を崩して町医者に診察してもらうと、腹に子供が宿っていることを知らされた。とても喜ぶ気持ちになれず、先の見えない不安に目の前が真っ暗になった。
再び絶望の淵に立たされ、自暴自棄になっていると、やはり寄り添ってくれたのは女将だった。
彼女はソフィアと同じ年の息子を持つ母親で、十年前に旦那を亡くしてからは女手ひとつで宿屋を切り盛りしながら息子を育てたという。
強く見えた彼女もまた、幾度となく川に身を投げようとした、と笑いながら話してくれた。
当時は他人を気遣う余裕もなかっただろう。豪快に笑う女将を見て、いつか自分も今の自分を笑いながら話せる日が来るかもしれないと思った。
ソフィアは周囲の協力もあって息子を産み、伯爵令嬢でもなければ、侯爵家の若奥様でもない──一児の母親として、新たな人生を歩み出したのである。
「ふー……昨日の洗い物は終わって、床の掃き掃除も終わったし、あとはテーブルを拭いたら看板を出せるわね」
まだ幼い子供がいることもあり、深夜の給仕は免除されていた。その代わり、朝は誰よりも早く起きて店内を掃除し、開店の準備に取り掛かる。
窓の外が徐々に明るくなっていき、朝日が差し込んできた。この時間帯が好きだ。今日も無事に朝を迎えられただけで嬉しくなる。
裏切り者にされた時は、この世のすべてから背を向けられた気がしたのに、今は片隅の小さな場所を与えられた気分だ。
昔だったら考えられなかった生活も、この通り一日、一日を噛みしめながら暮らしている。以前の、内気で大人しく、舞踏会では壁の花になっていた自分が嘘のようだ。
まだ思い出すだけで胸が苦しくなる記憶もあるが、少しずつ過去を笑えるようになっていた。
「ソフィ、キッチンのドアを開けてくれー。両手が塞がってるんだ!」
「はーい、今行くわ!」
テーブルを拭き終わって、看板を出し終えた時だ。キッチンの外から声がして、ソフィアは急いで向かった。
裏口に続くドアを開けば、たくさんの野菜や果物が詰まった木箱を持った大柄の男が立っていた。
「今日もそんなに買い込んで。女将さんに怒られるわよ」
「でもこの野菜たちが、俺に買ってほしいって見つめてくるんだ」
「新鮮で美味しそうではあるけど」
「だろ?」
大きな体で人懐こい笑顔を向けられると、大型犬を見ているようだ。母性をくすぐられそうになって咳払いをする。
彼、ハリーは女将の一人息子で、宿屋の料理人として母親を支えていた。三年ほど王都で料理修行してきた腕前は確かで、彼の作る料理はどれも美味しかった。
それ以外にも、ソフィアの子供に食べさせる離乳食や、子供が喜ぶ料理も作ってくれ、同じ職場で働く仲間として尊敬していた。
「ソフィ、今日時間あったら酒場が忙しくなる前に出かけてこない? レオンは母さんが面倒見てくれるって言ってくれたんだ」
「……今日は、」
もちろんハリーのことは心から感謝している。
最初は素性の知れない女を家に置くなど、正気ではないと反対していたが、最後は女将の押しに負けて受け入れてくれた。
しかし、肝心の雇った女は家事ひとつできず、お荷物でしかなかった。なのに、追い出すこともせず、根気強く仕事を教えてくれ、いつの間にか軽口を言い合える仲になっていた。
もし子供が産まれていなかったら、女将は自分の息子とソフィアを夫婦にさせたかったようだ。けれど、子供の誕生と共に、女将はソフィアの元夫を警戒していたのかもしれない。
だが、四年という月日が流れたことで心配は杞憂に終わり、自分たちの関係が良い方向へ変わることを願っているようだった。
幸いソフィアの息子であるレオンはハリーにとても懐いていて、血は繋がっていなくても本当の父子に見えた。
ハリーなら良き父親になるだろう。
幼いレオンにも、守ってくれる存在が必要だ。
けれど、ソフィアには彼を受け入れることのできない大きな問題があった。
「ソフィ……」
「や、やめて! 触らないでっ」
ハリーの手が頬に伸びてきた瞬間、ソフィアは声を荒げて身を守った。ハリーだから拒絶したわけではない。
ある日、自分でも知らない内に服を脱がされていて、夫でもない男が同じく裸で横にいた恐怖が、今でも鮮明に蘇ってくる。夫以外の人間に見られ、触られたのが恐ろしくて、気持ち悪くて、思い出しては何度も吐いた。
それ以来、男性に触れられると拒絶反応が出るようになってしまった。
忘れようとしても、忘れられない。
……あのような出来事、忘れられるわけがない。
何も覚えていないのに、一方的に裏切り者にされた日──ソフィアの心に深い傷を刻んで、今も癒えずに残っている。
「……ごめんなさい、外出はまた今度に」
「うん、分かった。二人きりがダメだったら、レオンと三人でもいいから」
宿屋の跡取り息子で、母親想いで、料理ができて人当たりが良くて、穏やかな人。町では人気者で、彼に想いを寄せている女性も多い。
自分には勿体ない男性だ。他の男性との間に産まれた子供がいて、素性も知れない。一緒になったところで、損をするだけなのに。
けれど、ハリーは他の女性など見向きもせず、心地良い距離を保ちながら接してくれた。
「ごめん、ありがとう」
「謝るのはよしてくれ。……さあて、朝食の支度を始めるかな。ソフィたちの分も作るから、レオン起こしてきて」
「分かったわ。レオンのご飯にも野菜は入れてね。あまり甘やかしては困るわ」
「はいはい、怖いお母さんでレオンがかわいそうだ」
「もう! 皆が優しくしすぎるから、私が厳しくするしかないのよ」
唇を尖らせて文句を言うと、ハリーは嬉しそうに肩を揺らして笑った。豪快に笑う彼は子供のようで、表裏のない人だ。元夫とは真逆で、好ましく思う。
ソフィアは肩をすくめ、息子のレオンを起こしに屋根裏部屋へ上がった。