18
騒々しかった日中とは打って変わって、夜はひっそりとしていた。使用人たちは音を立てないように、息をひそめながら過ごしているようだ。
やはり、ハインツが告白した真実が広まったせいだろうか。メイド長の姿も見当たらず、侯爵邸でこれほど快適に過ごせたのは初めてだ。
「ママ、おうちまだ?」
「実はね、レオン。ママと暮らしていたお家はなくなってしまったの。でもね、新しいお家を貰ったから、そっちに引っ越そうと思うの」
宿屋の惨状を目の当たりにしてしまった以上、あの村に戻ることはできない。真相が公になるまで、これまで同様身を隠しながら暮らしたほうが安全だ。
「レオンもいいの?」
「もちろんよ! ママはレオンとずっと一緒にいるわ」
「……ハリーも?」
母親であるソフィアに何かあった場合、レオンには女将やハリーへ助けを求めるように伝えていた。三歳の息子が頼れる大人は、ソフィアの他に女将とハリーだけだったからだ。
けれど、女将やハリーもいない場所に連れて来られ、母親のソフィアもいなくなったことで、トラウマを植え付けてしまったのかもしれない。
侯爵邸では部屋の中で遊びはするも、外へ出ようとはせず、起きている間はソフィアから離れようとしなかった。
ソフィアはレオンを抱き寄せ、額を重ね合わせた。
「ハリーは新しいお家の場所を知らないから、手紙を書いてみましょうか。ご飯を作りにきてくださいって、お願いしてみるのはどう?」
「うん、いいよ!」
あの町で、文字を理解できる者は少ない。宿屋を営んでいるだけあって、女将とハリーは文字が読めた。
もし、町の者たちに文字の読み書きが普及していたら、宿屋の外壁には見るに堪えない文字が並んでいたはずだ。そうならなくて良かったと安堵したものの、複雑な心境に苦笑が漏れる。
「さあ、レオン。手紙は明日にして、今日はもう寝ましょう」
昼寝が長かったせいか、レオンはなかなか寝付けずにいた。けれど、新しい家に移り住むことを伝えると安心したようだ。ソフィアが布団越しに胸元を軽く叩いてやると、欠伸をこぼして眠りについてくれた。
レオンの幸せそうな寝顔を見ていると、罪悪感がじわりと滲み出してくる。
これから先も、この感情は幾度となく蘇ってくるだろう。それが、息子を残して命を絶とうとした愚か者への罰なのかもしれない。
ソフィアはレオンの額に「おやすみなさい」の口づけをした。
しばらくすると、部屋の扉が軽くノックされて、ソフィアはそっとベッドから下りた。
扉に近づいて「何かご用ですか」と訊けば、家令かメイドだろうと思っていた相手はセルジュだった。
「ソフィア……実は、私と一緒に付き合ってほしい場所がある。君にも関わることだ」
いつもと違ってこちらの出方を窺うような声に戸惑いつつ、ソフィアは扉を開いて姿を見せた。
「どちらへ向かうのでしょうか」
「侯爵家の地下牢だ。……メイド長を含め、君たちに危害を加えた使用人たちを捕まえている」
まさか、メイド長が地下牢に入れられているとは思わなかった。ソフィアは一瞬悩むも、これまでのことを考えると、メイド長とは直接会っておきたかった。
「分かりました、同行いたします」
ソフィアはレオンが眠っていることを確かめてから、部屋を出てセルジュの後に続いた。
薄暗い廊下を歩きながら地下へ向かう途中、セルジュはメイド長を捕まえたいきさつを教えてくれた。
メイド長は、セルジュがソフィアを追いかけて屋敷を飛び出した後、家令に預けられたレオンを秘密裏に屋敷から連れ出そうとしたようだ。
幸い、セルジュが護衛の兵士を増やしておいたおかげで誘拐は未遂に終わり、メイド長を捕まえることができたという。
初めて聞かされる話に、ソフィアは眩暈を起こしかけた。こんなことなら、意地でもレオンの傍から離れるべきではなかった。
「その、すまなかった……。メイド長が君に何をしてきたのか、他の使用人たちが白状した」
メイド長以外にも収容された使用人たちは、自分の罪を少しでも軽くするために洗いざらい喋ったに違いない。些細なことまで話せば、途方もない数の証言になっているはずだ。
セルジュは眠れていないのか、目の下にくまをつくって、ハインツが現れた時よりずっと疲れきった顔をしていた。
「私もすべて覚えているわけではありませんが、していない罪の告白までする者はいないと思います」
「……ああ、私もそう思う」
彼らが口にした証言は嘘偽りのない事実だろう。もちろん、覚えきれないほどの嫌がらせがあったことは確かだ。ただ、それも浮気をでっち上げられたことから比べれば可愛いものだった。
セルジュはもう一度「すまない」と謝ってくると、こちらを見ないまま階段を下り始めた。彼の丸まった背中が小さく見えた。
使用人も入ることを禁じられたそこは、すべての階段を下り切ったところにあった。
分厚い鉄の扉を押し開け、通されたのは吐き気を催すほどの悪臭が漂った地下牢だった。汚物や体臭、そこに地上から流れ落ちてくる生活水の臭いが、窓ひとつない空間に充満していた。
初めて足を踏み入れたソフィアは、堪らず持っていたハンカチで口を押えた。その臭いが、服や髪に染みついてしまいそうで気分が悪くなる。
一方、セルジュは壁に掛かった松明の火だけを頼りに、薄暗い地下牢を進んでいった。いつもと変わらない足取りに、彼が高位貴族の一人であることを思い知らされる。
ハインツとの不貞行為が目撃された当時、彼の判断によっては自分もこの地下牢に入れられていたかもしれないと思ったらゾッとした。
セルジュがひとつの牢屋の前で立ち止まると、ソフィアも近づいて鉄格子の中を窺った。すると、そこには侯爵家のメイド長として長年仕えてきた女が、変わり果てた姿で転がっていた。
「──喋る気になったか」
いつも綺麗に束ねていた黒髪は、自分で掻き乱したのかぐしゃぐしゃになっていた。服はボロボロで、むき出しになった腕と足は、鞭で打たれた痕が赤黒く腫れあがっていた。
「……です、お願いです……ここから、出してください……ロマーナ様が、お戻りに……」
「ロマーナが戻ってくるだと? 一体どういうことだ」
食事もろくに与えられていないのか、随分と衰弱していた。
それでも問い詰めようとするセルジュに、ソフィアは彼の前に手を差し出して、メイド長のいる鉄格子に近づいた。
「メイド長、貴女に訊ねたいことがあるの」
「──……」
ソフィアが声をかけると、メイド長は反射的に顔を持ち上げ、上体を起こした。その顔は、なぜお前がここにいるのだと訴えているようだった。
「貴女が私に毎晩出していたのは、妊娠しやすいお茶ではなく、避妊の効果があるシルフィウムだったわね。それだけじゃないわ。他の使用人を使って私に嫌がらせを繰り返し、最後はハインツ様との浮気を捏造したわね」
証拠は揃えようと思えば揃えられる。これだけの罪があれば、平民であるメイド長を罰することはできるだろう。
しかし、メイド長はカッと目を開き、体を起こすと鉄格子を掴んで叫んできた。
「旦那様! 旦那様は騙されています! この女は、使用人にも色目を使うような、ふしだらな女ですっ! どうか目を覚ましてください! あの子供だって、旦那様の子だと偽るために、似たような男を誘惑したに違いありませんっ!」
メイド長から面と向かって言われたのは、これが初めてだ。彼女の中で、自分がどんな人物であるのか、ようやく知れた気がした。
それは、勘違いで片付けるには激しい思い込みだった。まるで、ソフィアがふしだらな女でなければいけないような口ぶりだった。
「ソフィアを侮辱すれば、ここでの罪がさらに重くなるぞ。──ロマーナについて、正直に話すんだ。一生この地下牢で暮らしたくはないだろ」
「あ、あ……そんな、私は、どうすれば……っ!」
メイド長は何を恐れているのか。自分の身を守るためにしては、頑なに話そうとしない姿勢に違和感を覚える。
「……話にならないな。もういい、我々は戻るとしよう」
と、セルジュは嘆息し、メイド長に向かって背を向けた。
それにより、追い詰められたメイド長は泣き叫ぶようにして声を上げていた。
「お待ちください、旦那様! お願いです! どうか、このままロマーナ様が戻られたら、私の息子が殺されてしまいます!」
メイド長に息子がいたことは、セルジュも初耳だったようだ。
振り返って「どういうことだ!」と鋭く問いただすと、メイド長はようやく観念したように口を開いた。





