17
エントランスに続く階段を一段ずつ降りていくたび、怪我を負った脚に痛みが走る。体が鉛のように重く、痛みが和らいできた手がまたズキズキと疼きだした。
それ以上に、大した理由もなく踏みにじられた心が、何倍も痛くて、苦しくて堪らなかった。
彼らは一体、何がしたかったのか。それらしい言葉を並べられても、到底理解することはできなかった。
「ソフィア……」
使用人たちの間でざわつきが起こり、異変に気づいたセルジュが振り返る。瞬間、彼の瞳にソフィアが映るも、彼女の視線は真っすぐにハインツを見据えていた。
屋敷の中にソフィア・クアンがいることを知っていた使用人たちは、過剰に反応することはなかった。
しかし、ハインツだけは違った。
「あ、義姉上……っ、なぜここに……!」
当然ソフィアがいることを知らなかったハインツは、上体を起こして目を見開いたまま固まった。
不貞行為によって屋敷を追い出された女が、堂々と現れたのだから驚くのも無理はない。
その間にも、ソフィアは表情ひとつ変えず彼らの元へ進んでいった。
「……義姉上」
ハインツから以前と同じく「義姉」と呼ばれたことに、怒りや呆れを通り越し、すべての感情が引いていくのを感じた。
ソフィアはハインツの前に立つと、怯えた顔で見上げてくる彼を見下ろし、その顔めがけて持ち上げた手を勢いよく振り下ろした。
バシッと乾いた音が、ホール全体に響き渡る。吹き飛ぶほどの威力はなく、殴られるより痛くはないはずだ。
けれど、ハインツはセルジュに殴られた時より、大きなショックを受けているように見えた。
その後も、ソフィアは振り上げる手を替えて、放心状態になるハインツの頬を張った。
無心で彼の顔を平手で打つと、せっかく塞がってきた手の傷から血が出て、包帯が赤く染まった。
「ソ、ソフィア! やめるんだ、君の手が……」
叩いている内に包帯の一部が外れ、指先から垂れ下がる。それに気づいたセルジュが、ソフィアの手を掴んできた。
「──離していただけますか、侯爵様」
「ソフィア……」
怒りで正気を失っていると思っていたようだ。だが、ソフィアはこれまで以上に冷静だった。思考は正常で、自分でも驚くほど落ち着いていた。
ソフィアの冷たい声に怯んだセルジュは、手を解放してくれたが、傍から離れようとはしなかった。
「あ、義姉上、ごめんな、さいっ……許して、ください……っ!」
ハインツは両手をすり合わせ、懇願するように許してくれと頼んできた。彼の目から大粒の涙がこぼれ、自分の行いを悔いている様子が伝わってきた。
「お、奥様……っ! 申し訳ございませんでしたっ。どうかお許しくださいっ!」
ハインツの妻であるリズは、必死に許しを乞う夫を庇いながら謝ってきた。
これまでセルジュに同情的だった周囲の雰囲気は、次第にハインツたちへ向けられていた。
どんなに誤解だと否定して、泣いて、謝っても、侯爵家から追い出されるその瞬間ですら、彼らの同情が自分に向けられることはなかったのに。
なぜ、一つの家庭を壊したハインツには同情が集まって、壊された方の自分には不満や軽蔑の目が向けられるのか。
ソフィアは静かに息を吐いた後、大きな腹を抱えるリズの前に立った。
「私にも三歳になる息子がいます。──父親のいない子供です」
三歳と伝えれば、子供の父親が誰か察するだろう。ハインツは驚いた顔を持ち上げ、「その子は、まさか兄上の……」と漏らした。
セルジュは拳を握り締めるだけで、口を挟んでこなかった。おかげで、目の前の夫婦に集中することができた。
「腹に宿っていると知った時、私は喜んであげることができませんでした。──本当なら、母として真っ先に喜ぶべきだったのに」
政略結婚であっても、跡継ぎの子供ができれば喜ばれるのに、自分の生活で精一杯だったあの頃は不安のほうが大きく、素直に喜ぶことができなかった。
「実家からも追い出され、宿屋で働く私に子育てができるのか、怖くて眠れない日も続きました。それでも、どんどん膨らんでいく腹に、恨めしく思ったこともあります……」
妊娠すると感情の起伏が激しくなると教わり、しばらく涙が止まらなくなることがあった。臨月に入る頃は落ち着いてきたが、それでも恐れは常について回った。
もし、宿屋の女将とハリーがいなかったら、どうすることもできなかった。
ソフィアがリズを見下ろすと、彼女は子供を守るように腹を押さえた。同じくハインツも、リズを抱き寄せて家族を守った。
「ソフィア、もう……」
そこへ、不穏な空気を感じてセルジュが割って入ってきた。
自分たちの関係をめちゃくちゃにした男が目の前にいるというのに、それを庇って何になるというのだろう。
ソフィアは体の向きを変え、今度はセルジュと顔を合わせながら口を開いた。
「女将さんたちのおかげで、子供は無事に産むことができました。ですが、そこに一緒に喜んでくれる家族は一人もいませんでした。──私の夫も、両親も、兄弟も、誰も……! 傍についてくれる家族は、誰もいなかったんです……っ」
言いながら視界が滲んでくる。泣くまいと唇を噛むも、愛する息子を思うと悔しくて、悲しくて、怒りがこみ上げてきた。
「本当なら、もっと祝福されるべきだったのに! なぜ町の片隅で、ひっそりと産まれてこなければいけなかったのかっ! どうして、私の息子が……っ」
本来なら、侯爵家の跡取りとして腹に宿ったと分かった瞬間から多くの者たちに祝福され、産まれてくれば大勢の人たちに喜んでもらえたはずだった。
──なのに、息子は産まれながらに享受するはずだった幸せを奪われてしまった。
一生に一度の、二度とやり直すことはできない瞬間が、幾度となくあったのに。これでは、本人に語って聞かせてやることもできない……。
セルジュは真っ青な顔をして言葉を失い、他の者たちも一様に顔を伏せていく中、ソフィアは昂った感情を抑えるため、大きく息を吸ってから吐いた。
そして、再びハインツの方に振り返ると、静かに頭を下げた。
「ご無礼をお許しください。……ハインツ様、このたびはご結婚おめでとうございます。もう二度とお会いすることはないでしょうが、子供が無事に産まれてくることを、心よりお祈りしています」
彼の謝罪を受け入れるつもりはない。
これから先も、永遠に。
ハインツと完全に決別することで、ソフィアの気持ちは十分に伝わったはずだ。
踵を返して階段を上がろうとすると、ハインツが「義姉上!」と叫んで追いかけてくる気配がした。
しかし、セルジュがハインツの服を掴み、床に投げ飛ばしていた。それから先は兵士に命じて、彼らを拘束していた。
階段を上り切って二階に着いた頃には、ハインツとリズはエントランスから外へ連れ出されていた。殺されはしないだろうが、二度と侯爵家の敷居を跨ぐことは許されないはずだ。
使っていた部屋に戻ると、ベッドではレオンが目を擦りながら座っていた。
「レオン、起きたの?」
ソフィアはベッドに座り、寝ぼけているレオンを抱き寄せた。すると、レオンは首に腕を回しながら抱き着いてきた。
「……ママ、おうちにかえりたい」
宿屋の屋根裏部屋はここより狭く、環境もそれほどよくなかった。
けれど、レオンにとって帰りたい場所は、ソフィアと一緒に過ごしてきた部屋なのだ。豪華な屋敷で過ごすより、そちらに帰りたいと言われて嬉しさのあまり目頭が熱くなった。
それならば、決意することは一つだ。
その時、わずかに開いた扉の隙間から誰かの視線を感じたが、確認することなく扉を見つめたままレオンに伝えた。
「ええ、そうしましょう──」
ここではない場所へ。
それが、ソフィアの出した答えだった。
それぞれの末路は本編が終わった後にでも。
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