16
目覚めてから慣れないベッドで一晩を過ごし、翌日は朝食をとった後、湯浴みをした。
用意してくれたのは若いメイドだった。彼女はひどく緊張した面持ちで、準備が整ったことを知らせに来た。
浴槽に張られたお湯は適温で、レオンも嬉しそうに一緒に入った。
新しく用意されていたナイトドレスもしっかり調べたが、おかしな点は何もなかった。湯浴みをしている間にシーツは取り替えられ、隅々まで清掃が行き届いていた。
今になってそんな扱いを受けるとは、思っていなかった。使用人たちは内心、はらわたが煮え返っていることだろう。
昼食をとった後は、レオンに童話を語り聞かせていると、いつの間にか一緒に眠ってしまっていた。改めて、精神的にも肉体的にも疲労が溜まっていることを自覚した。
しばらく浅い眠りについていると、外が騒がしくなってふと目を覚ました。隣では、レオンが気持ちよさそうに眠っていた。
ソフィアは、レオンが起こさないようにそっとベッドから下りて窓に近づいた。二階にある寝室の窓からは、正面玄関前が見下ろせた。
「……あれは」
玄関前では、侯爵家の兵士に取り押さえられた男が、屋敷に向かって必死に叫んでいた。男の後ろでは大きな腹をした女が、同じく兵士に捕まっていた。
だが、兵士たちは男の扱いに困惑している様子で、一瞬の隙を突かれて屋敷の中へ入られてしまった。
雪崩れ込むようにして彼らがエントランスホールへ消えていくのを見ていたソフィアは、思わず窓から背を向けた。
──どうして、彼が。
見間違いでなければ、あれはランドリー侯爵家の次男であるハインツだった。
あの日、人生のどん底に突き落とした男がすぐ近くに、同じ屋敷の中にいる。そう思ったら、急に緊張と恐怖で動悸がした。脈拍が速くなって、あまりの息苦しさに口で呼吸をしていた。
けれど、なぜ今になって現れたのか。
会うことは避けたいが、彼の行動次第では息子にも危険が及ぶ可能性がある。
「──……確かめなければいけないわ」
ここでじっとしているより、これから何が起きようとしているのか確認しておきたい。
ソフィアはレオンが眠っているのを確認し、ガウンを羽織って部屋から出た。
「……上、兄上! 頼むから、僕の話を聞いてくれ!」
突如としてエントランスに入ってきた男に、メイドは悲鳴を上げて身を隠し、他の兵士たちが駆けつける騒ぎになった。
エントランスでは、報告を受けていたセルジュがすでに待機していた。
再び兵士に押さえつけられた男が、現当主の弟であることが知れると、その場に何とも言えない空気が流れた。感動の再会からは程遠く、屋敷の中にはハインツと浮気をして追い出されソフィアがいるだけに、余計に気まずい。
ソフィアはエントランスが見下ろせる場所まで移動し、壁に背中をついて下の様子を窺った。
ハインツは伸びた紫色の髪をひとつに束ね、手入れを怠っている顔は無精ひげで覆われていた。ボロボロの衣類からは、日に焼けた肌が露出し、社交界でも人気だった侯爵家の優男はどこにもいなかった。
「──三年も行方をくらませていた奴が、今さら何の用だ」
「父上が亡くなったって知って、居ても立っても居られなくなって……! せめて、父上の墓に花だけでも……っ」
ハインツは自分の父親が亡くなったことを知って、遠く離れた地から駆けつけたようだ。ソフィアからすれば、彼が三年も屋敷から離れていたことに驚いた。
「ふざけるな! 父上の苦労も知らずに。お前のせいで、私の家庭はめちゃくちゃになり、侯爵家は泥を被り、ソフィアは……」
──自ら命を絶とうとした。
セルジュが何を言おうとしていたか、ソフィアだけは分かった。
けれど、彼が思い詰めるようなことだろうか。ソフィアから生き甲斐を奪って責め立て、最後にその選択をさせたのは、彼自身なのに。
胸がもやもやしてくると、セルジュは兵士に命じてハインツを敷地から追い出すように言った。
しかし、ハインツは抵抗して兵士たちの手を払いのけると、セルジュの足元にしがみついて叫んでいた。
「待ってくれ、兄上っ! ……僕は、してないんだ!」
「なに……?」
「義姉上は、浮気なんかしてない! あの日、僕とは何もなかったんだっ!」
ハインツのよく通る声は、屋敷中に響き渡った。おかげで、多くの者たちの耳に届くことになった。
「ハインツ、今のはどういうことだ……?」
いきなり告げられた真実に、セルジュは足にしがみつくハインツの胸倉を掴み、怒りのこもった声で訊き返していた。
他の者たちは動くことができず、真実が明らかになるのを見守っていた。
ソフィアもまた声が出そうになった口元を押さえ、彼らのやり取りを陰から見ていることしかできなかった。
「僕も、騙されたんだ! 義姉上は、使用人の男も誘惑するような女だって! 兄上は彼女に騙されているから、協力してほしいって!」
「──誰だ。一体誰から頼まれたんだ」
セルジュはハインツの胸倉をさらに締め上げ、答えるように強要した。
彼は本気で分かっていなかったのだ。あの状況下で、最も疑わしく、最も怪しく、ソフィアを陥れようと躍起になっていたのは、ただ一人だけなのに。
「それ、は……ロマーナに、頼まれて」
ロマーナ──身代わりになって他国へ嫁がされた公爵令嬢で、彼らの愛する幼馴染みだ。
「なぜ、ロマーナが……」
「ロマーナは、兄上のことを慕っていたから。僕の方がずっと、ずっとロマーナを慕っていたのに……」
けれど、ハインツの想いはロマーナに届いていなかった。もしくは、知っていて彼女は利用したのかもしれない。決して裏切ることのない駒として。
「あの日、三人でワインを飲みながら義姉上を薬で眠らせ、ロマーナがメイド長を使って彼女をベッドに寝かせたんだ」
ハインツは最初こそ乗り気ではなかったが、好きな女性に頼られ、そこに酒の力も加わって、自分の信じる「正義」のために行動しただけだった。
彼もまたいいように使われたのだろう。自分は眠るつもりはなく、ただ関係を疑われるだけの計画が、起きたら二人とも裸だったことを白状した。
「そしてお前は、その場で本当のことを話さず、嘘をついてまで保身に走ったというのか」
「そ、それは……!」
あの時、真実を話してくれていたら、罪に罪を重ねることはなかった。その場凌ぎの嘘をついたことで、結局は己の首を絞める羽目になったのだ。
ハインツは何も言い返せずうな垂れていると、セルジュは彼の胸倉を引っ張り上げて顔を近づけた。
「本当に、ソフィアとは何もなかったんだな?」
「それだけは、誓って。義姉上には、指一本触れてない。……でも、取り返しのつかないことをしてしまった。あんなこと、するべきじゃなかった……っ」
今さらの言葉に、セルジュはハインツを引き寄せ、力を込めた拳で彼の頬を殴り飛ばしていた。
骨を打つ鈍い音がして、誰もが息を呑んだ。
「散々、私の家庭を引っ掻き回したお前が、なぜ今になって話す気になったんだ! 父上の墓前で懺悔でもする気になったか……っ」
殴られたハインツは床に両手をついて、痛みに呻いた。
それでもセルジュは倒れ込むハインツの腕を掴み、同じ場所を殴った。ハインツは咄嗟に顔を庇うも、怒りで我を忘れたセルジュはまた腕を振り上げた。
今にも殺しかけないほどの勢いに、ソフィアは陰から飛び出しかけた。
刹那、後ろで捕らえられていた妊婦の女が、兵士たちの拘束を振り払ってハインツの横に駆け寄ってきた。
「こ、侯爵様! どうか、お許しください! 主人が取り返しのつかないことをしてしまい、申し訳ありませんでした……っ」
黒髪に茶色の目をした女は、ソフィアが暮らしていた村の女性たちより、みすぼらしい格好をしていた。女は臨月を迎えた腹を抱えたまま、ハインツの隣で跪いた。
「……この女は誰だ」
「ごほっ、……痛っ。……リズは、僕の妻です。お腹の子も、僕の子供です……。行く当てもなくさ迷っているところを、助けてもらいました……」
ハインツを助けた女は、その身なりから人助けができるほど裕福ではないだろう。それでも、さ迷っていたハインツを放ってはおけなかったのだから、相当なお人好しだ。
ハインツは口の端から流れた血を拭いつつ、妻のリズに倣って床に両膝をついた。
「──僕もリズと出会って家庭を持ったことで、兄上たちにしてしまった過ちに対する罪の意識が、だんだんと強まっていったんです。……この子の父親として、恥ずかしくない人間になりたい。受け入れてもらえなくても、きちんと謝りたかったんです……っ」
そう言ってハインツは両方の拳を床につけた。その手は震えていた。
突然とは言え、弟夫婦が揃って額を床に押し当てながら謝ってくる姿に空気がこわばった。
自分の呼吸すら聞こえてきそうな様子に、セルジュもまた戸惑いを感じているようだった。身ごもった妻の前で、それ以上咎めることに躊躇したのかもしれない。
けれど、ソフィアの心境はセルジュとは真逆だった。
今のハインツには、一緒に暮らして、一緒に笑い合って、悲しんで、泣いて、喜んで、共に過ごしてくれる伴侶がいるのだ。
──私の家庭は、壊していったのに……。
その場を立ち去ろうとも考えたが、ソフィアは壁から離れ、エントランスの方に向かって歩き出していた。





