15
『ママ、まだねんね?』
宿屋が仕入れで休みの日。
日が昇っても疲れて寝ていると、幼い息子がお腹に跨ってきて、鼻や頬に悪戯してくるようになった。
『きょうは、レオンとあそぶやくちょく!』
そういえば明日は休みだから、一日中遊ぶ約束をしてしまった。思い出したソフィアは、慌てて起き上がろうとした。
──なのに、体がベッドに縫い付けられたように動かず、瞼も開けられないほど重かった。
息子の名を呼ぶも、声も出なかった。そのうち「ママ」と呼ぶ息子の声が泣き声に変わっていき、「大丈夫よ、ママにここにいるわ」と言ってあげたくても何もできなかった。
「……ン、……私、の……」
私の可愛い息子、あなたをいつだって愛している。離れ離れになってしまっても、レオンの幸せだけを願っている。
息子の幸せを強く願うと、聞き覚えのある男性の声で「レオンは大丈夫だよ。とても元気にしている」と言われて、胸が温かくなった。
「……リー、……ハリー」
また世話焼きの同僚に迷惑をかけてしまったようだ。
それでも今は心強かった。世の中から背を向けられても、彼だけは寄り添ってくれたことが。何も伝えられていないのに、味方でいてくれたことが嬉しかった。
でも、ハリーには取り返しがつかないことをしてしまった。彼が教えてくれた薬草で、自ら命を絶とうとした。
最愛の息子を奪われ、生き甲斐を失って、もう何も考えられなくなったのだ。挨拶のために最後に立ち寄った町医者のところで、貴重な薬草を盗んでしまった。
やってはいけないことだったのに、それで楽になるのならと思ったら、無意識の内に握りしめていた。後は無我夢中で近くの川へ向かい、ほぼ衝動的に薬草を口に押し込んだ。
それ以外に、自分を救ってくれるものはなかった。生きる希望のない人生なら、さっさと終わらせてしまいたかったのだ。
薬草を口に含み、川に顔を突っ込んで水を飲むのと同時に無理やり嚥下した。
それを二、三回繰り返していると、次第に頭がふわふわしてきて、川の中を歩きだした。太陽の光が反射した川は美しく、宝石が散りばめられた上を歩いている気分だった。
しかし、砂利に足をとられて転んだ。着ていた服が水を吸って重くなり、その場から動くことができなくなってしまった。
まるで、川から伸びてきた鎖が両手両足を縛り付け、大罪人を拘束したようだ。もちろん抵抗する気はない。そこへ連れて行ってくれるなら、受け入れる覚悟だった。
川の中を這って進み、大きな岩の前に座って後ろに体を預けた。
「……レオ、ン……愛して、るわ……」
次第に朦朧としてくる意識の中で、浮かんできた光景は何だったか。
最後の力を振り絞って手を伸ばして触れようとしたのは、きっと涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにした、最愛の息子だったかもしれない……。
「──マ、ママーっ」
今度こそはっきり聞こえてきた息子の声に、ソフィアは意識を引っ張り上げられて目を覚ました。
目は開き、体は鈍いが動き、何よりきちんと呼吸ができていた。
「レ、レオン……?」
何度も腕を揺すられて、視線をそちらへ向ければ涙と鼻水でひどい顔になっているレオンがいた。
二度と会うことは叶わないと思っていたのに、これは夢だろうか。
「いらっしゃい、レオン──」
たとえ夢でも、もう一度息子を両手で抱きしめられるなら、これ以上に望むことはない。
「ママ、しんじゃったかとおもった……っ」
「ごめん、ごめんね、レオン……っ」
上体を起こすことはできず、腕の中に飛び込んできたレオンを抱きとめることしかできなかった。
それでも、息子の体温も重さも本物だった。ソフィアは目にいっぱいの涙を溜め「ママが悪かったわ」と、何度も謝るとレオンは首を振った。
「ママがいい。ママじゃなきゃ、イヤ!」
「レオン……っ」
必死にしがみついてくるレオンに、自分が如何に愚かな選択をしたのか恥ずかしくなった。
危うくレオンを、母親のいない子供にしてしまうところだったのだ。二度と会えなくなったとしても、最後まで抗うべきだった。レオンを産んだ母親は、自分以外にいないのだから。
「……愛しているわ、私の可愛い子」
ソフィアはレオンの頭や背中を撫で、泣き止むまで宥め続けた。胸元がレオンの涙と鼻水で濡れてしまったが、それすら愛しいと思えてしまう。
その時、部屋の扉が開いて男が入ってきた。
「レオン、ママが起きる前に昼食をとって……」
男からすれば、意識の戻らない人間のいる部屋に入るのだから、敢えてノックはしなかったのだろう。
だが、何の前触れもなく現れた男──セルジュに、ソフィアはレオンを抱き寄せていた。
「──ソフィア……目が、覚めたのか……?」
セルジュは硬かった表情を破顔させると、駆け寄ってきて手を握りしめてきた。しかし、ソフィアはセルジュの手を払いのけ、レオンを守るように抱きしめた。
拒絶する反応にまた機嫌を損ねるだろうと思っていたセルジュは、一瞬傷ついた表情を浮かべるも、後ろに下がって距離を取った。
「安心してくれ。……君と息子を引き離すようなことは二度としない。家名に誓って約束する」
何があったのか分からないが、セルジュの優しい口調も、労わるような気遣いも、夫婦だった頃の彼に戻っている気がした。ソフィアは、彼の予想外な態度に眉をひそめた。
「すぐに医者を呼んでくる。レオンはママのそばについてあげなさい」
セルジュはそう言って部屋から出て行き、本当に医者を呼びに行ってしまった。彼の立場なら、使用人に命じて呼ぶこともできたはずだ。
再びレオンと二人きりになったソフィアは、深く息を吐いて緊張を解いた。まだ油断はできないが、今すぐ息子から引き離されることはないと分かっただけでも安心した。
だが、レオンの頭を撫でたまま天井を見上げていると、見覚えのある天蓋に顔をしかめた。記憶が正しければ、ここは侯爵邸で使っていた寝室だ。
なぜ、また侯爵邸で目覚めることになったのか。
どうして客間ではなく、元夫と使っていたベッドの上に寝かされているのか。
考えれば考えるほど不愉快で、思考が追いつかなかった。
その内に、今度は部屋の扉がノックされ、返事をすると白衣を着た医者がやって来た。
彼は侯爵家の侍医で、ソフィアとも面識がある。若いが腕は確かで、一つ質問すれば十は返してくれるような医者だった。
ただ、当時のソフィアは使用人たちと噂になることを避け、当然ながら医者の彼とも必要以上に関わらないように努めていた。
もし、毎晩飲んでいたお茶のことや、使用人たちから負わされた怪我のことを打ち明けていたら、未来は違っていたかもしれない。過ぎた話だけれど。
医者は診察をしてくれている間も、嫌な顔ひとつしなかった。
「もう大丈夫です。眠るときは暖かくして、数日は安静にしてください」
「ありがとうございます」
医者が部屋から出ていくと、入れ違いでセルジュが入ってきた。彼はやはりベッドに近づくも、声が聞こえる距離で立ち止まった。
「医者は大丈夫と言っていたが、まだ起きたばかりだ。今はゆっくり休んでくれ」
「……お気遣い感謝いたします」
「体調が回復したら、もう一度話し合おう。……君に訊ねたいことがいくつかあるんだ」
「承知いたしました」
ソフィアは先日の一方的な契約をさせられた時を思い出したが、話し合う機会を得られたことは正直嬉しかった。「引き離すようなことは二度としない」と約束され、これからも息子と一緒に暮らせるかもしれないからだ。
そのためなら、どんな質問にも答えるつもりだ。正直に答えたところで、信じてはもらえなくても。
──しかし、その機会はやってこなかった。
侯爵邸に、最も真相を知る男が帰ってきたからだ。そのおかげで、ソフィアが答える必要はなくなってしまったのだ。





