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『セルジュ、貴方はお父様のようになってはダメよ』
母はかわいそうな人だった。彼女が亡くなったのは、セルジュが十五歳の時だ。ランドリー侯爵家の女主人でありながら、侯爵邸の別館で息を引き取った。
亡くなる三年前、母は自ら毒を飲んだ。命にかかわる毒ではなかったが、宰相として家を空けていることが多かった夫の気を引くためだったと言われている。
その場には実の娘のように可愛がっていたロマーナと、後にメイド長になるメイドが控えており、彼女たちは毒を飲んで倒れる母の姿を見ていた。
母との楽しいティータイムは悪夢に変わり、セルジュとハインツはロマーナを慰めた。その出来事もあって、ランドリー侯爵家の兄弟はロマーナに対して常に後ろめたさがあった。
事情を知った父は、母を侯爵邸の別館に追いやった。療養を理由に表舞台から姿を消したことになっていたが、実際は厄介払いだった。
──孤独に耐え切れなかったとはいえ、毒まで煽る必要があっただろうか。
しかし、それ以上に信じられなかったのは父の態度だった。母がそんな状況になっても、父は普段と変わらなかった。別邸で過ごす母の元を訪れている気配もなかった。
命に別状はなかったが、母は体を壊すことが増えていき、最後は高熱を出してあっけなくこの世を去った。
世間では、はやり病で亡くなったと公表され、侯爵夫人としての名誉は守られた。だが、本人はそんなもの望んでいなかっただろう。母は名誉より、どんなに短くても父と一緒に過ごす時間が欲しかったはずだ。
──父のようになるな。
それはセルジュにとって、母から受け取った呪いのようなものだった。
決して、家族を大切にしない人間にはならない──。
……そう心に決めていたのに、守ろうとした家族に裏切られ、父が亡くなるといよいよ一人きりになってしまった。
一体どこで間違ってしまったのか。
「マーマー、あああああ!」
耳元で泣き叫ぶレオンに、セルジュはハッと我に返った。母を求める泣き声は、ソフィアの身を案じる訴えにも聞こえてくる。
ソフィアが使っていた客間を見渡せば、彼女に渡した資料がそのまま置いてあった。彼女にとって最も必要なものなのに、意地を張ったのだろうか。
それとも──。
最悪な事態が頭をよぎると、セルジュはレオンを抱きしめていた。
初めて見たときは、父親が定かではない子供に複雑な気持ちになった。けれど、今はソフィアと同じ瞳の色をしたレオンに、庇護欲が搔き立てられた。もしこの子が自分とソフィアの息子だとしたら、自分が本当に守らなければいけないのはどちらだろうか。
「泣くな、……泣かないでくれ」
慰めるように小さな背中を撫でると、レオンは涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げて、セルジュの髪を鷲掴みした。
「おなじ! あたま、おなじ! ママを、いじめないで……っ」
「いたた……っ。分かったから、手を……」
同じ髪色をしたセルジュに、レオンは泣きながら訴えてきた。
こんな小さな子供でも、自分が何を守らなければいけないのか分かっている。そして、守るために、相手がどんな強敵であれ勇敢に立ち向かっていく。自分も、そうなりたかったのではないか。
「レオン、お前の母……ママを迎えに行ってくるから、ここで待っていてくれ」
セルジュはレオンを落ち着かせ、集まっていた使用人たちに近づいた。
「家令、この子を頼む。それから、ソフィアにこのドレスを用意した使用人を見つけて拘束するように。他にも、彼女に対して無礼を働いた者がいなかったか厳しく調べてくれ」
「畏まりました」
家令は素直に頭を下げたが、メイド長を中心としてメイドの態度は違った。
「お待ち下さい、旦那様! あの女は旦那様の名誉を傷つけるだけでなく、前侯爵様を死に追いやった悪女です! 今さら連れ戻すなど……っ」
母が嫁いでくる前から侯爵家の使用人として働いていたメイド長は、侯爵家に泥を塗ったソフィアを憎んでいてもおかしくない。だが、メイド長はあくまで使用人の一人だ。絶対的権限を持つセルジュに、盾突くことは許されていない。
「もし何も見つからなかった時は、侯爵邸の使用人を全員入れ替えるつもりだ」
「当主様、それは……っ!」
「ここを追い出されたくなかったら、正直に話すように伝えておけ。──私が、彼女を連れてくるまでに」
前侯爵夫人が早くに亡くなったことで、両親の時から侯爵家に仕えていた使用人たちには世話になった。信頼もしている。
今回の件も、侯爵家を思うあまりの行動なのかもしれない。だが、セルジュの許可なく行動したことに対して、目を瞑るわけにはいかなかった。
セルジュは家令にレオンを預け、執務室に戻って外出に必要な物を身に着け、最後に外套を羽織ると外へ飛び出した。
「馬の用意を!」
厩舎に向かったセルジュは、屋敷の護衛にあたっていた兵士に命じた。夜も深まる中、突然現れた当主に兵士たちはお互いの顔を見合わせて目を丸くした。
「何をしている、早くしろ!」
「で、ですが、閣下! 夜の移動は危険です!」
「時間がない。いざとなれば戦うだけだ。それより急いでくれ!」
セルジュは外套の前を開いて帯刀した剣を見せると、兵士たちを急がせた。当主の命令に逆らえない兵士たちは馬に鞍を乗せ、手綱を引いてセルジュの元へ戻ってきた。
「閣下、やはり我々も同行いたしま……」
「必要ない。お前たちは私が戻るまで、使用人たちを一歩も屋敷の外へ出すな。それから、家令が面倒を見ている子供に、護衛の兵士をつけるように」
用意された馬に跨り、同行すると言い出す兵士に対して間髪入れず命じた。
最後に「後は頼むぞ」と伝えれば、兵士たちは従うしかない。彼らからすれば、屋敷を空ける当主の代わりを任されたようなものだ。
後ろ背に「承知しました」と聞こえてきたのを確認し、セルジュはたった一人で屋敷を飛び出した。
「……ソフィア」
満月に近い月明かりが夜道を照らしてくれているおかげで、馬を走らせることができた。
ただ、この同じ月明かりの下、ソフィアの安否が心配になった。彼女は譲られた遺産を持っていなかった。最愛の息子と引き離され、この世に未練などないように去っていった。
ソフィア・クアンの幸せを奪い、自分と同じ苦しみを味わってほしかったのは事実だ。そして、それが復讐になると信じていた。
だが、彼女の命まで望んでいたわけではない。
数多くの男性を誘惑し、夫の弟と不倫するほどの悪女ならば、一人になったところで悠々と生きていくのだろうと……。なのに、胸騒ぎがした。
セルジュは馬を走らせ、幾度か休憩を挟みながら、ソフィアが戻ったと思われる町へと急いだ。





