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【本編完結】貴方が手放したもの【書籍企画進行中】  作者: 暮田呉子


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11

 落ちている衣類を拾い集め、執務室にこもってしまったセルジュの元を訪れて弁解するも、彼は「この屋敷から出ていけ」の一点張りだった。

 徐々に叩かれた頬が痛みだしてくると、責められたのは自分だけだったことに気づく。彼は妻であるソフィアではなく、弟のハインツの方を信じたのだ。

 二人だけの旅行で「愛している。君もまた私が守るべき大切な人だ」と言ってくれたのに、あのような状況でセルジュが優先したのは血の繋がりがある家族だった。

 ソフィアはセルジュに命じられた使用人たちによって、屋敷の外へ出された。そこへ、メイド長が勝ち誇った表情で、小さな鞄を投げて寄越してきた。中には、手切れ金のような金貨と、ワンピース一着と下着類の荷物が詰められていた。

 どうすることもできず、ソフィアは乗合馬車を使って実家に帰り、しばらく部屋に閉じこもった。両親と兄はしつこくソフィアの元を訪れて、何があったのか尋ねてきたが話すことはできなかった。

 自分でもうまく説明できる気がしなかったからだ。前後の記憶がなく、目覚めたら夫の弟と不貞行為の状況にあったなどと。

 何もかも信じられなくなって、部屋から出ていくのも恐ろしくなった。

 しかし、侯爵家から離婚届が送られてきたことで、ソフィアは無理やり外へ引っ張り出された。悲鳴を上げて暴れ回っても、許されることはなかった。 

 父親と兄から暴力を受けて、体中が痣だらけになった。罵倒は何時間も続き、無理やり離婚届にサインさせられると、ここでも必要最低限の荷物だけ持たされて屋敷を追い出された。

 他に行く当てなどないのに……。

 そんな時に拾ってくれたのが、宿屋の女将だった。

 優しくしてくれる彼らに後ろめたさを感じながらも、あの頃のソフィアには雨風を凌げる家が必要だった。傷ついた心を癒してくれる存在が必要だった。あの日の出来事を忘れさせてくれる人たちが必要だった。

 何かあった時、こうして戻れる場所が必要だったのだ……。


 ★ ★


 虚ろな目で、朝日が差し込む窓から外を眺めていると、馬車が突然停まった。森は抜けたが、町まではまだ距離がある。

 けれど、ソフィアの前でいきなりドアが開いた。


「悪いが、ここで降りてくれ。あんたのような女を乗せて町に入ったら、何をされるか分かったものじゃない」

「……」


 言い返す気も起らず黙っていると、ここまで馬車を走らせてきた御者に腕を掴まれ、外へ投げ飛ばされた。


「痛……っ」


 地面の砂利が、容赦なくソフィアの素肌を抉ってくる。両手と両脚に鋭い痛みが走った。

 その場に倒れ込んでいると、持ってきた鞄が捨て置かれ、馬車はすぐさま方向転換して走り去ってしまった。

 けれど、ようやく一人になれた。

 我慢する必要はなくなり、気づけば声を上げて泣いていた。痛かったからではない。御者から酷い仕打ちをされたからではない。

 息子と離れ離れになってしまったことが辛くて、胸が張り裂けそうなほど悲しくて、声が嗄れるまで泣き続けた。


 ……どのぐらい泣いていただろうか。

 ソフィアは鞄を持ってふらりと立ち上がった。その拍子に、掌と脚に埋まっていた小石が地面に落ちる。

 ソフィアは町まで歩き始めた。距離はあるものの、一本道のおかげで迷うことはなかった。

 立ち止まることなく歩き続けていると、気づけば町にたどり着いていた。入口では、門番がソフィアの姿にぎょっとするも、持っていた槍を向けてきた。


「と、止まれ! お前、何しに戻って……。それより、どうやってここまで……っ」

「途中まで馬車で送ってもらいました。ここへは荷物を取りに戻ってきました」


 全身ボロボロで、手や足からは血が流れていたが、自分の身なりなどどうでもよかった。ソフィアが向けられた槍に向かって近づくと、門番は短い悲鳴を上げて槍を落とした。

 門番は酒場の常連客で、レオンにも気さくに接してくれる人だった。

 それなのに、たった数日で世界が一変してしまったようだ。ふと嫌な予感がして、女将の元へ急いだ。

 すると、案の定ソフィアが暮らしていた宿屋も、想像以上に酷い有り様になっていた。


「そ、そんな……」


 宿屋の前に来ると、外に出ていた看板は無残にも折られていた。外壁には泥が投げつけられ、藁のついた馬糞まで擦りつけられていた。

 店のドアは破壊され、たった数日しか経っていないのに、宿屋はすっかり変わり果てていた。店内も同じだった。テーブルやイスが至る所に転がり、床は泥だらけで悪臭が漂っていた。泥棒が入ったとしても、ここまで荒らされることはなかったはずだ。これは一方的な暴力と同じだった。

 その時、微かに女性のすすり泣く声がして、ソフィアは店内の奥へ向かった。


「……女将さん」


 無事だったテーブルとイスには、女将が座っていた。外はまだ明るいのに、そこだけ影に覆われたように暗かった。


「……なんで、戻ってきたんだい」


 いつも覇気のあった女将の声は、驚くほど弱々しかった。

 夫の弟と浮気し、国に尽力してきた宰相を死に至らしめた女を匿っていたから──セルジュに連れて行かれたことで、ソフィアの素性は皆に知れ渡ってしまった。

 どんなに女将が何も知らなかったと言っても、全員が全員信じてくれるわけではない。


「申し訳、ありませんでした……」


 あと何回謝ったら、いつまで頭を下げ続けたら、自分は許してもらえるのだろうか。


「レオンは、置いてきたのかい」

「……レオンは」


 手放したのは、息子のためだった。けれど、赤子の頃からレオンの面倒を見てくれた女将に、自分の息子も守れない母親だと思われるのが恥ずかしかった。


「──出て行っておくれ」


 絶縁を告げるような冷たい声だった。

 ソフィアは真実を話すために口を開きかけたが、すぐに「荷物をまとめてきます」と伝えた。そのまま踵を返して屋根裏部屋に上がり、目につく荷物だけを鞄に詰めると、再び女将の元へ戻った。


「ソフィ、戻って……」

「……ハリー」


 下に降りていくと、バケツとモップを持ったハリーと出くわした。彼は驚きのあまり、次の言葉が見つからない様子だった。できることなら、顔を合わせずに終わっていたかった。

 ソフィアは唇を噛んでハリーの横を過ぎ、女将の前に立った。


「少ないですが、これまで貯めたお金です。……宿屋のために使ってください。お世話になりました」


 今まで無事に過ごせたのは女将のおかげだ。貯めたお金をすべて渡しても惜しく感じなかった。受け取らない女将に、ソフィアはテーブルに置いた。


「……こんなことになるなら、お前を拾ってくるんじゃなかったよ」

「母さんっ!」


 確かに、最初から出会っていなければ、何も起こらなかった。

 建物を荒らされることもなく、酷い言葉を投げつけられることもなかった。町一番の宿屋だったのに、笑いの絶えない酒場だったのに。自分のせいで、迷惑をかけてしまった。

 ソフィアは深く一礼して女将に背中を向けた。


「待って、ソフィ!」

「……ハリー、今までありがとう」


 レオンはいつもハリーの作る料理を楽しみにしていて、食べれば笑顔になっていた。もうその顔を見ることもできなくなってしまった。

 ソフィアは泣き出しそうになるのを堪え、改めて二人に向かって頭を下げた。それから逃げるようにして、建物から飛び出した。後ろでは、追いかけてこようとするハリーを、女将の怒声が引き留めていた。

 ソフィアは振り返らず、急いで宿屋から離れた。

 本当に一人ぼっちになってしまった。

 目的もなく走り続けていると、町の外れまで来てしまった。このまま真っすぐ行けば、町医者のところにたどり着く。

 一度は引き返そうとしたが、強く引き付けられるものを感じて、ソフィアは誘われるがまま人気のない場所へ進んでいった……。




 ソフィア・クアンが息子を置いて侯爵邸から出て行った、と報告を受けたセルジュは「そうか」と短く答えた。

 裏切られた復讐を果たしたことで、心が晴れるかと思ったが、全くもってすっきりしなかった。彼女の泣き顔が脳裏に焼き付いて離れなかった。

 息子の父親が誰であれ、彼女が愛情をこめて育てていたことは分かる。それが余計に癪に障った。あのような境遇に追いやられても、彼女には守るべき大切な存在がいたからだ。

 幾度となく女性に裏切られてきたセルジュにとって、最愛の妻だったソフィアの不貞は、すべての女性に拒絶反応が出てしまうほど強烈なものだった。

 しかし、元凶であるはずのソフィアに対して、それらの反応が出ることはなかった。

 狭い馬車の中で長時間一緒に過ごしても気持ち悪くなることはなく、息子を抱きかかえて眠る彼女を横に倒して寝かせても、何の反応も起きなかった。

 ソフィアだけが、以前と変わらず触れることができた。


 ──あれだけの裏切りを受けたのに、何を期待してしまったのか。

 それでも過去の出来事に目を瞑り、自ら歩み寄れば、ソフィアとその息子の三人でやり直すこともできるのではないかと思ってしまった。

 だが、ソフィアは明らかにセルジュを拒絶した。

 触れられることを拒否し、用意した洋服にも着替えず、こちらの気遣いを一切受け付けなかった。

 もしかしたら家族に戻れるかと思ったが、それは彼女の度重なる態度によって打ち砕かれた。結局、彼女が大切にしていた存在を奪い、復讐する道を選んだ。

 後悔はない。最初からそのつもりだったからだ。

 ただ、一人になったソフィアのことが気がかりだった。

 あの町に舞い戻って、宿屋の息子と一緒になるつもりだろうか。それとも町を出て、違う領地へ移り住むつもりだろうか。

 受け取った遺産の家は王都の郊外だが、絶対にそこで暮らさなければいけないわけではない。国を出て、新しい人生を歩むことだってできる。

 ソフィアへの愛は完全に消え去ったと思ったのに、未練が残っているのだろうか……。

 こんなことなら、この場限りの復讐に囚われず、目の届く場所に置いていたほうが良かったのではないか。

 先ほどから机に置かれた仕事は捗らず、ソフィアが最後に書いていったサインを何度も指先でなぞった。

 その時、遠くから子供の泣き声が聞こえて、無意識の内に立ち上がっていた。

 ソフィアが手放した息子は、これから自分が父親となって侯爵家の跡取りとして育てていくことになる。

 セルジュは執務室を出て、長く続く廊下を歩いて客間に向かった。


「どうかしたのか」


 客間に向かう前から、子供の泣き声は屋敷中に響き渡っていた。扉の前には使用人たちが集まっていた。


「うわあああんん、ママーーっ!」


 とても三歳児とは思えない声に、思わず耳を押さえそうになった。室内ではメイド長が子供をあやしていたが、とても泣き止む様子はなかった。

 母親の姿がなくなったことで、不安が一気に爆発したようだった。


「ぼ、ぼっちゃま……お菓子を用意しましょうか。それとも、おもちゃをお持ちして……」

「ああああ、ママー! ママーーーーっ」


 セルジュの息子となったレオンは、あやしてくるメイド長の手を払いのけ、ベッドから飛び降りるとそのままベッドの下へ潜ってしまった。

 セルジュはため息をついてベッドに近づいた。


「……レオン、そこから出てきなさい」


 今は母親を失って悲しいだろうが、貴族の子供になった以上、耐えていかなくてはいけない。

 だが、セルジュがいくら呼びかけてもレオンは出てこなかった。仕方なく膝をつけて邪魔なシーツをめくり、ベッドの下に腕を伸ばした。


「わあ、んんん! ママ、ママ!」


 嫌がるレオンを捕まえ、ベッドの下から引きずり出すと、なぜか女性のドレスまで出てきた。


「なんだ、このドレスは……」


 レオンが抵抗するためにしがみついていたが、引き出されたドレスが床に落ちると強烈な香水の匂いが舞い上がった。

 セルジュは咄嗟にのけ反って、自分の鼻と口を押えた。それは彼が苦手とする香りだったからだ。


「……どういうことだ」


 ソフィアが用意したとは思えない。否、ドレスはこちら側で準備したものだ。だが、この香水はどういうわけか。

 今も母親を求めて泣きじゃくるレオンの声が、肝心なことを見逃していると警告しているように聞こえてきた。


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