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「──町へ戻る馬車は手配している。荷物をまとめたらすぐに出て行くように」
最初からソフィアの答えは決められていたのだ。その証拠に、レオンを引き渡す契約書や、送迎の馬車まで準備されていた。
条件が細かく書かれた契約書には、二度と息子の前に姿を現さないように、侯爵家を訪ねてくることのないようにと記されてあった。
もう母親と名乗ることも許されない契約に、サインする時は涙が乾いていた。
「最後に教えてくれ。……私の弟とは、いつからだったんだ? あの出来事が起きる一週間前、元気のなかった君を誘って旅行をしただろ。そこで私たちは、再び夫婦として永遠を誓ったはずだ」
そんなこともあったかもしれない。使用人たちからの嫌がらせが横行し、疲弊していたところへ、セルジュが近場にある別荘に連れて行ってくれたのだ。
使用人は突然知らされ、メイド長は大慌てだった。あの時、彼女は珍しくセルジュに突っかかっていた気がする。そして、別荘ではいつものお茶を飲むことはなかった。
それが理由で、あのような強硬手段に出た可能性も考えられる。
「……私にも、分かりません」
「なんだと? 私に隠れて、ハインツと付き合っていたのではないのか」
セルジュの尋問めいた質問は、息子を手放すことになったソフィアをさらに苦しめた。
正直に話しても、結局は都合の良いように捻じ曲げられ、でっち上げられた真実だけが独り歩きしてしまう。
「それに君は実家でも、使用人たちと噂になったことがあるそうだな。弟はそれを知って、君を追い出すためにあのようなことをしたのだと、ロマーナに言われたが……」
「噂になった使用人とは、挨拶程度のお話をするぐらいでした」
「正直に話す気はないのか。……その使用人は退職金も用意されず、いきなり屋敷を追い出されたそうだ。わざわざ侯爵邸までやって来て、君とは恋人のような関係だったと証言までしてくれたぞ」
「──……それを信じたのですか」
ソフィアを侯爵家から追い出すために、一体何人が関わっているのか。
辞めさせられた使用人がどうやって侯爵家までやって来て嘘の証言をしたのか、疑問は残るものの、今更何を言っても無駄だろう。
「離婚した後に、君の醜聞を次から次に聞かされた私の身にもなってくれ……。君は私だけでなく、宰相である父上や、ランドリー侯爵家に泥を塗ったんだ!」
憎しみのこもった青い目が突き刺さってくる。
以前の自分なら震えあがり、自分の非を認めて謝罪していたかもしれない。だが、生きる希望すら奪われた今、反論するどころか、謝る気力さえ残っていなかった。
ソフィアが何も答えずにいると、セルジュは苛立った様子で髪を掻き上げ、うんざりした様子で言い放った。
「──取引は成立だ。後は好きに生きるといい、ソフィア・クアン」
そう言ってセルジュは家令を呼び、ソフィアが屋敷から出ていくまで、しっかり見張っておくように伝えていた。
息子を奪われて、どうやって好きに生きろというのだろうか。
セルジュの執務室を出たソフィアは、使っていた客間に戻り、ベッドで眠るレオンの頭を撫でた。
「……レオン」
初めは、望んでいない妊娠だった。出来たことを喜んであげることもできず、腹の中で日に日に育っていく我が子を、恨めしく思ったこともある。
けれど、レオンの産声を聞いた瞬間、過去の出来事がちっぽけなものに思えてしまった。どれも、命をかけるほどの辛さではなかったからだ。
「ごめんなさい、レオンの傍を離れることになってしまって。……どうか、健やかに育って」
できることなら、我が子の成長を間近で見守りたかった。ずっと一緒に過ごしたかった。
ソフィアは眠るレオンの額にそっと口づけた。
何も知らず幸せそうに眠る息子の顔を眺めていると、無力な自分が悔しくて、腹立たしくて、乾いたはずの涙が溢れてきた。
ソフィアは震える唇を噛みしめ、涙を拭いてベッドから離れた。部屋から出ていく時、ソフィアの手には何も握られていなかった。
家令は「よろしいのですか?」と尋ねてきたが、ソフィアは背中を向けて玄関へ急いだ。
本当に持っていきたかったのは、二度と手元に戻ってくることはないのだから。
今は後ろ髪引かれるのを堪え、侯爵邸から離れることだけを考えた。一刻も早くその場から立ち去らなければ、息子を取り戻すために自分が何をしでかすか、分からなかったからだ。
ソフィアは使用人たちの視線や陰口を無視して、待機していた馬車に乗り込んだ。
来る時は確かにあったのに、今は両腕に息子の重さも、温もりも失われてしまった……。
あの日──。
セルジュと三日ほどの旅行を終えて帰ってくると、屋敷の雰囲気が少しだけ変わっていた。以前より、使用人たちがソフィアの行動ひとつひとつに目を光らせている気がしたのだ。
二人きりの旅行をしたことで、これまで受けてきた嫌がらせを、セルジュに告げ口したと思われていたようだ。ただ、今になって思えば、ソフィアの妊娠を恐れていたのだろう。
そんな時、ロマーナが現れた。セルジュがいない時に邸宅へやって来たのは、その日が初めてだった。
「公女様、お出迎えもできず申し訳ありませんでした」
「まあ、ソフィア様。私のことはお気になさらず、ここの使用人たちとは長い付き合いですから」
一体どちらが侯爵家の女主人なのか。ロマーナが我が物顔でくつろいでいる姿を見ると、惨めな気持ちにさせられた。
けれど、ロマーナは普段とは違い、刹那げな表情を浮かべて口を開いた。
「正式に、帝国へ嫁ぐ日程が決まったの。だから、ここへ来ることはもうなくなるわね」
「公女様……」
「その前に、貴女が知らないセルジュやハインツのお話をしてあげようと思ったのよ」
彼女の言葉に刺々しさはなく、友人へ話しかけるような優しさと柔らかさがあった。
これが最後だから──王女の身代わりとして別の国の、すでに妻が何人もいる男性の元へ嫁ぐ、かわいそうな公爵令嬢──ソフィアは、ロマーナの作り出した雰囲気に、すっかり呑み込まれていた。
ソフィアはロマーナを中庭の東屋に案内し、長めのティータイムを過ごした。彼女の話はどれも、セルジュたちと過ごした楽しい日々の自慢話に思えたが、それでも自分の知らない夫の話が聞けるのは嬉しかった。
ロマーナとお茶をしながら過ごしていると、セルジュの弟であるハインツがやって来た。朝から出かけていた彼は、ソフィアとロマーナを見つけると屈託のない笑顔を見せた。
表情が硬い兄のセルジュとは違い、ハインツは感情豊かで親しみやすい。侯爵邸では真っ先に仲良くなった。
屋敷内のことを任されていたハインツから、引き継ぐ仕事が多かったのも理由のひとつだ。彼はとても丁寧に教えてくれた。セルジュと同じ紫の髪と青い瞳に、背格好も似ていたが、性格は驚くほど違っていた。
「ただいま、義姉上。ロマーナも来てたんだね!」
「ええ、お邪魔しているわ」
ハインツはロマーナに近づき、彼女の手をとって手の甲に口づけた。
「義姉上、付き合いのある商会からワインをいただいてきたので、良ければご一緒に呑まれませんか?」
「私は……」
遠慮しようと思ったが、ハインツが本当は誰と吞みたがっていたのか気づき、断ることができなかった。
ソフィアが「そうね、いただくわ」と、立ち上がってハインツの隣に肩を並べると、それを見ていたロマーナは小さく笑った。
「二人はとても仲が良いのね。まるで夫婦みたいだわ」
「……そんなことは」
本当の姉弟みたいだと言われるならまだしも、関係を疑われたようで不安がよぎる。過去の出来事を思い出してしまったせいだろうか。
しかし、あの時とは違いハインツが先に口を開いた。
「家族仲が良いことはいいことだよね」
肯定も否定もしないハインツに、ソフィアはその場で声を荒げそうになったが、過剰に反応すればそれだけ疑われそうで堪えた。
ロマーナに疑われて最も傷つけているのは、ハインツの方なのに。彼の目にはいつもロマーナしか映っていなかった。
パーティーの時も、彼女が侯爵邸へやって来た時も、ハインツは熱を孕んだ目でロマーナを見ていた。持ってきたワインも、本当はロマーナと二人で吞みたかったはずだ。帝国へ嫁いでしまう彼女と、最後の時間を過ごすために。
ただ、自分の感情を抑えるために、義姉であるソフィアも誘ったのだ。
ロマーナをエスコートするハインツは、嬉しそうだった。同時に、悲しそうだった。好きな人が、政略結婚の道具にされて遠方に旅立ってしまうから。秘めた想いを伝えることもできず、見送るしかないのだ。
ソフィアは、過去話に花を咲かせつつ、楽しく談笑する二人の邪魔をしないように、聞き役に徹していた。
時間にして一時間程度。用意されたワインは、それほど口をつけていなかったと思う。──なのに、途中から視界が暗転して、記憶が途切れていた。
次に目覚めるとハインツの部屋のベッドで、服は何も身に着けておらず、隣では同じく裸のハインツが眠っていた。
何が起きたのか分からなかったが、言い逃れができない最悪の状況ということだけは瞬時に理解できた。
しかし、こちらが動く前に廊下が騒がしくなって、扉が乱暴に開かれると、引き留めようとする使用人たちを押しのけ、セルジュが飛び込んできた。
「これは、どういうことなんだ……」
尋ねられても、ソフィアにも分からなかった。分かるわけもなかった。起きたら今の状態になっていたのだから。
「君は、なんてことを……っ」
呆然としていると、大股で歩いてきたセルジュが、腕を振り上げてソフィアの頬を張った。
痛みを伴う衝撃はあったものの、自分がなぜこんな格好でハインツの横に眠っていたのか、そちらのほうが衝撃的すぎて、あまり痛みを感じなかった。
すると、いつから起きていたのか、ハインツがベッドの上で両手をついて頭を下げてきた。
「兄上、ごめん……っ! こんなつもりはなかったんだ! でも、ロマーナがいなくなる寂しさに耐え切れなくて、義姉上の誘いを断ることができなかったんだ……っ」
まるで、ソフィアから誘ったと思わせる言い訳に、頭の中が真っ白になった。
なぜ、こんな仕打ちができるのだろうか。
その後、ソフィアがいくら「違いますっ」「まったくのでたらめです!」と泣きながら訴えても、誰も聞き入れてはくれなかった。
まるで、この世のすべてが敵に回ったようだった──。





