09
ランドリー前侯爵がソフィアに残してくれた財産は、王都の郊外に建てられた庭付きの家だった。王都ほど華やかではないものの、閑静な場所を好む地方貴族や、物を多く扱う商人に人気の区画だ。
その他に、レオンが成人するまで十分に養える金額の手形が入っていた。
侯爵邸を追い出された時、前侯爵は他国の使者が来訪していたため、王城に滞在していた。
ソフィアが最後に前侯爵と会ったのは随分と前のことだ。セルジュと結婚してから一緒に食事をとったのも、数えるぐらいだった。
ただ、前侯爵は仲睦まじく過ごすセルジュとソフィアを、心から喜んでいる様子だった。話しかければ実の父親より会話が弾む人だった。
最後は挨拶どころか顔を見ずに別れることになってしまい、残念で仕方なかった。侯爵家で起きた出来事を知って、何を考え、何を思ったのか、今では確かめる術もない。
けれど、自分にも残していてくれたとは思わなかった。屋敷を出た瞬間から、他人に戻ったと思っていたから。
前侯爵は、彼なりにソフィアの行方を調べていたのだろう。もしくは、監視されていたのかもしれない。書類にはレオンの名前も書かれていた。
だが、孫が産まれたことは秘密にしてくれていたようだ。できることなら、墓まで持っていってほしかったけれど。
自分の息子に黙っていることはできなかったようだ。自分の死と引き換えに、侯爵家の血を継ぐ者を知らせたのだ。
前侯爵の意図は分からない。
けれど、それはセルジュと話し合うことで明らかになるはずだ。
ソフィアはため息をつき、書類を裏返しにしてテーブルに置いた。外が徐々に暗くなっていき、レオンが眠りにつくまで、いつもより早く感じた。
夕食をとった後、部屋の中でレオンと二人の時間をゆっくり過ごした。宿屋で働いているときは同じ空間にいても構ってあげることができず、随分と寂しい思いをさせてしまっていた。
「ママ、おしごとは?」
一緒に遊んでいると、レオンが何度も尋ねてきた。そのたびに胸が締め付けられそうになった。
「今日はいいのよ。レオンが眠るまでずっと一緒にいるわ」
しっかりしているように見えて、まだ三歳の子供だ。甘えて、泣いて、我儘を言える特権が与えられている。飛び跳ねながら喜ぶ息子の姿に、これからはできる限り一緒に過ごせる時間を作っていこうと心に決める。
セルジュはレオンを後継者と言っていたが、彼だっていつまでも再婚しないわけにはいかない。再婚すれば必然的に子供ができ、レオンは不要な存在になってしまう。
それなら最初から認知しなければ良いだけの話だ。
レオンは侯爵家とは関係ない──そうはっきり告げたら、侯爵家を出て宿屋に戻ろう。
女将とハリーに真実を告げ、黙っていたことを謝るのだ。……それでも出ていかなくてはいけなくなったら、前侯爵が譲ってくれた家に移って、二人で静かに暮らそう。
レオンが成人を迎える、その時まで──。
しかし、ソフィアが考えていた計画は、セルジュが提示してきた取引によって無残にも打ち砕かれることになった。
遊びつくしたレオンが深い眠りについたのを確認し、ソフィアは部屋を出た。廊下では前侯爵から仕えていた家令が待機しており、「ご案内いたします」と言ってきた。
セルジュの執務室は何度も訪れたことがある。今も場所は変わらず、ソフィアは案内された部屋の前に立った。
「旦那様、ソフィア様をお連れしました」
家令が伝えると、中から「通せ」と無機質な声が聞こえた。ソフィアは開かれた扉の前で唾を呑み、執務室の中へ入った。
「来たか、ソフィア・クアン」
背中で扉が閉まると、張り詰めた空気がより強く感じられる。セルジュは正面の机に寄りかかり、手元の書類に視線を落としたまま、こちらを見ようとはしなかった。
重苦しい時間だけが刻々と過ぎていくと、セルジュは顔を持ち上げて「そこに掛けてくれ」と言ってきた。
ソフィアは命じられたまま、三人掛けのソファーに浅く座った。遅れて、向かい側のソファーにセルジュも腰を下ろす。
同時に、テーブルに書類が置かれた。──それは、ソフィアに対する「訴状」だった。
「単刀直入に言おう、ソフィア・クアン。君の不貞に対して慰謝料と賠償金を請求する」
セルジュは訴状の上に手を置くと、みるみる蒼褪めていくソフィアの顔色を、一瞬たりとも逃さないように目を離さなかった。
「なっ、……なぜ今になって」
「あの時の私は妻と弟に裏切られ、まともに動くこともできなかった。……だが、君を私に紹介したのは父上だ。ハインツのこともあり、父上と相談した上で、君や、君の家族にも罪は問わなかった。──だが、今は違う。父上が心労で亡くなった以上、私は君に責任を追及するつもりだ」
訴状に書かれていた慰謝料と賠償金は、宿屋でコツコツ貯めてきたお金や、前侯爵が譲ってくれる財産のすべて差し出しても、到底支払えない金額だった。
ソフィアは震える手でスカートを握りしめた。
「提示した金額に納得がいかないというなら、裁判で争っても構わない。世間がどんな反応をするかは、目に見えているがな」
「もし、払えないと言ったら……」
「期限までに支払うことができなければ身分を剥奪され、借金奴隷として返済まで強制労働に科せられる。君の息子も同様だ」
「そ、そんなっ!」
先に遺産の書類を渡してきたのは、このためだったのか。
住む家と、十分な資金が確保できれば安定した生活が送れる。実際のところ、ソフィアはレオンが成人するまでの生活費が手に入ったことに、安心してしまっていた。そして、セルジュはソフィアに用意されていた遺産の中身を知っていたはずだ。
これは、彼の復讐だ。前侯爵もまた、こうなることを望んでいたのかもしれない。
「そこで取引だ。君も分かっているだろうが──侯爵家の血を継いだ息子を、私に渡せ。そうすれば、この訴状は白紙にしてやる。それから、父上が君に残した遺産も手を出さないでおこう」
ソフィアのわずかな幸せや希望を奪うことが、セルジュの復讐なのだろう。そして彼は、当然自分にその権利があると思っている。
「……侯爵様が再婚すれば、息子は邪魔になるだけです」
「再婚だと? ──本気で言っているのか? 身内以外では、君にしか触れられなかった私が、他に誰と結婚できるというんだ⁉」
それまで感情を押し殺してきたセルジュは、怒りを露わにして声を荒げた。最も信頼していた者たちに裏切られた喪失感、屈辱、やるせなさが彼から伝わってくる。
「君を追い出した後、症状はさらにひどくなった。今では女性が近づくだけで気分が悪くなる。……君だけは……いや、それは終わったことだ。今は取引の話をしよう」
息子は取引の道具ではない。こんな取引を持ち掛けてくるなんて馬鹿げている。
しかし、セルジュの目は本気だった。すべてを奪い尽くしても足りないと言われている気がして、全身が震えた。
「君だって、望んで産んだわけではないはずだ。……だが、心配しなくても、あの子は私の息子として育ててやる」
──誰の子であっても。
言葉にこそしなかったものの、セルジュの言おうとしたことが分かった。
レオンが自分の子供でなくても──弟である、ハインツの子供であっても──自分の息子として戸籍に入れる、と。
蒼褪めたソフィアは、崩れ落ちるようにして床に両膝をついた。
「お願いです、侯爵様! ……どうか、私から息子を奪わないでくださいっ! お願いしますっ!」
そのまま床に額を擦りつけながら懇願する。
けれど、頭上から降ってきたのは、ゾッとするほど冷たい声だった。
「……君が私の家庭を壊したのに、随分な頼みだと思わないか?」
「侯爵様……っ!」
目の前に同じく膝をついてきたセルジュは、ソフィアの顎をつかみ、涙でくしゃくしゃになった顔を見て薄く笑った。
「裁判で私と争うか、期限までに支払えず息子と共に奴隷へ落ちるか。それとも息子を手放して、静かに暮らすか──君次第だ」
どうすれば息子を奪われずに済むか、必死で頭を働かせる。
けれど、裁判までに間に合わなかったら。誰も弁護を引き受けてくれなかったら。支払うことができなかったら──。
「君だって、このまま一人で息子を育てられると思っていないだろ?」
「──……」
ソフィアの中で、息子にすべて知られる以外に、危惧していたことがある。
それは、レオンが成長して、無意識の内に一人の男性として認識してしまったら。それによって、触れることを拒絶してしまったら……。
大切な息子を傷つけてしまうのは、母親である自分になってしまう。守らなければいけない大切な子なのに。
「わ、私は……」
息子のために、どんな選択をすればよいのか。
目の前が真っ暗になって、次の言葉が出てこなかった……。