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06


「ちょっと、さすがにまずいわよ」

「でも、あんな方に言われるなんて悔しいじゃありませんの!」


 息を呑んで立ち止まったラナベルに、周りはさすがにまずいと思ったのか顔を白くして件の令嬢を止めにかかった。その制止の言葉も、ラナベルには聞こえていなかった。

 二本の足でしっかり立っているはずなのに、脳みそを転がされたような倒錯(とうさく)的な気持ち悪さがラナベルを襲った。

 耳に栓がされたように周囲の音が遠くなっていくが、どうにか気力で保ったわずかな理性が、周囲から目を引いていることを察知した。


 このまま騒ぎを起こしてはまずい。ただそれだけを思い、ラナベルはグラスを返す余裕もないまま会場の外に早足で飛び出した。

 幸いにも会場の外に人影はなく、ラナベルはほとんど走るように廊下を抜けていく。回廊に出ると冷え始めた外気に触れてわずかに頭が冷えた。

 ほんの少し取り戻した冷静さで足を緩めていき、ある一本の柱を支えにするようにして立ち止まった。

 夜空は分厚い雲に覆われていて、月明かりさえもない暗闇で支配されていた。

 権能によって灯された等間隔の照明だけが、唯一の光源だった。


「はあ……はあ……」


 動揺のせいか走ったせいか、荒い息を整えようと必死になるが、なかなか上手くいかない。


 ――妹を見殺しにして……!


 突き刺さった言葉が、傷口をえぐるように反芻される。会場の賑やかさは全く耳に入らなかったのに、雨の音だけはいやに耳についた。

 雨の滴る音がどんどん大きくなっていき、しまいには滝のようにゴウゴウと耳の奥に響き渡る。

 今は細雨(さいう)なため、こんな轟音になるはずがない。にもかかわらず脳が震えるほどに響いてくる雨音は、ラナベルの記憶の中のものだ。

 大きな雨粒が地面をえぐるような勢いで打ち付ける豪雨の夜。

 全身をぐっしょり濡らしたラナベルが公爵家の祈りの間に飛びこみ、シエルを抱えて泣く母を見たあの日の記憶。


「あ……」


 瞼の裏に映った光景に指先が痺れた。震えた指からワイングラスが取りこぼされ、落ちた衝撃でガラスの割れる破裂音が響いた。

 零れたワインが柱を支えに項垂れたラナベルの目をひきつける。大理石の真っ白な床にじわりと広がる赤ワインが、あの日のシエルの鮮血と重なった。


 ――おねえさま。


 耳を打つ雨音が消え、ふとシエルの助けを呼ぶ声が耳許で囁いた。


「シエル……」


 虚ろに囁いたラナベルはドレスが汚れるのも厭わずに両膝をつき、グラスの破片を一つ手にした。その鋭利な先端に魅入られるように昏い瞳を落としてから、おもむろに細い首へ添える。

 ふと楽になる瞬間を想像したラナベルがほっと息を吐いたとき、背後から近づく足音に気づいた。あっと思った瞬間に冷静さが舞い戻って来たけれど、喉元を切り裂く方が早かった。


「おい、大きな音がしたが大丈夫か?」


 背後から近づいてきた男は、問いかけとほぼ同時にふき出たラナベルの出血に呆然と息を飲む気配がした。

 ぐらりと仰向けに倒れたラナベルは、その男がレイシアであることに気づき、薄れる意識のなかで申し訳なく思った。

 勢いよく斬りつけたからか随分と血が飛んだらしい。慌てた様子でラナベルを抱き起こすレイシアの真っ白で美しい髪が、ラナベルの血で汚れてしまっている。よく見ると褐色の肌にも鮮血が飛び散っているのが見え、まるで頭から血を被ったようだ。


「で、でんか……申し訳、ありません……」


 どうせ巻き戻ったら彼はこのことを忘れてしまう。それでも、ラナベルはこんな場面を見せてしまって謝らずにはいられなかった。

 喉に詰まる血にむせながら謝罪の言葉を吐く。喋ると出血が気管に入り込んでゴロゴロと嫌な音を出した。

 レイシアの端正な顔についた血を拭おうと、無意識に震える手を伸ばしたところでラナベルは力を失って息絶えた。


 そして、瞬きをしたような一瞬のことだ。


 そんなかすかな時間で再び目を開けると、ラナベルは自室の窓辺で紅茶を手にしていた。

 さっきまで雨雲が広がる夜空の下にいたので、窓からさす日差しが眩しすぎて目が眩んだ。

 口をつける寸前だったティーカップをゆっくり下ろし、その僅かな時間で状況を確認する。

 窓の外は明るく、よくよく見てみると昼間にしては陽差しも弱いように感じる。起床してそう時間は経っていなさそうだ。


「……この香り」


 ふわりと香る紅茶の匂いに、もしかしてと思ったラナベルは茶器の片付けをしていたアメリーに声をかけた。


「アメリー、今日はたしか王宮へ向かう日よね?」


 手を止めたアメリーは、急にそんなことを訊ねたラナベルに不思議そうにしつつも頷いてくれた。


「そう……ありがとう」


 礼を言いながら、今回は半日ね……と心の中で実感する。

 紅茶の温かさで心を落ち着かせつつ思い出すのは、こうして巻き戻る直前に見たレイシアのことだ。


 ――おい! 大丈夫か!? 一体なにがあった……!?


 驚きと混乱でひどく狼狽えながらも、彼は一目散に駆けよって慎重にラナベルを抱き起こしていた。

 壇上にいたピクリとも動かないヒリついた姿との変わりように、素直に驚いたのを覚えている。

 必死な呼びかけを思いだし、ラナベルは幼い子どもに惨劇を見せたような……そんな罪悪感で胸が痛んだ。


(気にしても仕方がないわ……殿下はもう覚えてもいないのだから)


 そうやって気持ちを切り替えたラナベルは、不意にアメリーを見た。目が合った彼女は、にこやかなまま首を傾げてラナベルを見つめ返す。


 ――自死する現場を誰かに見られたのは、なにもレイシアが初めてではない。


 数え切れないほどに繰り返してきた中で、タイミング悪くアメリーの目に入ってしまったことは何度かあった。

 いつも温かく見つめてくれる灰色の瞳が一瞬で絶望に染まる姿も、狂乱のごとくラナベルを呼ぶ声も、薄れ行く意識の中でラナベルは見聞きしたことがあった。

 蘇った記憶から我に返り、平然と佇むアメリーに安堵したが同時に淋しくも思ってしまった。

 誰とも共有することの出来ない秘密。それはときおり、ラナベルの胸を切なくさせる。


「お嬢様? どうかされましたか?」

「いいえ……なんでもないわ。少し早いけれど、晩餐会への準備をしましょうか」


 飲み終えたカップを置いて立ち上がると、時計を確認したアメリーが「もうですか?」とらしくないラナベルに首を傾げた。



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