雨あめ降れふれ母さんが
重く曇っていた空から、ついにパラパラと雨が降って来た。
北原春奈は、うらめしそうに空を見上げた。両手にたくさんの荷物をぶら下げて、ドラッグストアから出て来たばかりだ。近いからって徒歩で来るんじゃなかった、と春奈は後悔していた。すぐ帰るつもりだったので、折り畳み傘も持っていない。いつもそうだ、わたしは判断を間違える。
帰り道の道端の公園に四阿があったので、そこで少し雨宿りをすることにした。荷物をベンチに下ろして、ほっと息をつく。
赤ん坊を育てるのに、こんなに物が必要だとは知らなかった。衣類、ガーゼ、紙おむつ、哺乳瓶、ミルク、おしり拭き、その他色々。思わぬ出費になってしまったが、まだまだ必要な物は出て来るだろう。経済的にも精神的にも、そして物理的にも負担は大きかった。
(俊明さん……)
もうそばにいない、最愛の人のことを思い返して、うっすらと涙が出そうになる。だがすぐに春奈は出かけた涙を振り払った。
(泣いちゃダメ)
これからわたしは、あの子を一人で育てて行くんだ。その為にこの町に戻って来た。あらゆる面で苦労するのは確実だから、覚悟はしないと。泣くような隙を見せてはいけない。強く有れ、自分。
(もう少し休んだら、あの子をお迎えに行こう)
そこで春奈は、ふと気づいた。ここは昔――中学生の頃によく立ち寄っていた公園だ。もう15年になるだろうか。あの頃もわたしはよく傘を忘れ、ここで雨宿りをしていた。でも、あの時は一人じゃなかった。そう……もう一人、いた。
(――月島くん)
彼は、どうしているだろうか。
月島圭吾は、春奈のクラスメートだった。どちらかというとイケメンではあったがどこか孤立しがちで、「月島って、なんかとっつきにくいよね」というのがクラスのほとんどの生徒の意見だった。春奈もずっとそう思っていた。
最初に圭吾と言葉を交わしたのは、ある日の学校の帰り道だった。天気予報を見るのを忘れていた春奈は、雨に降られて仕方なくこの四阿に駆け込んだ。
そこへ遅れて駆け込んで来たのが圭吾だった。彼は先客の春奈に気づくと、どこか罰が悪そうな表情で四阿へ入って来た。
春奈も圭吾も、しばらくは無言で座っていたが、どうにも間が持たない。やがて、二人はどちらからともなくお互いに話しかけた。
「えっ……と、月島くんだよね」
「北原さん、だよな」
それまで春奈は圭吾と話すどころか、まともに顔を合わせたことすらなかった。それは春奈のせいだけではなく、圭吾の方が他の皆を避けているからでもあった。
(クラスメートの名前、覚えてたんだ)
春奈は少し意外に思った。
ともかく、互いの名前を訊いたのをきっかけに、二人はぼつぼつととりとめもない話をし始めた。クラスのこと、先生のこと、最近読んだ本のこと。
時間にしてほんの数分だったが、そのうち雨は小降りになった。
「んじゃ、俺、そろそろ帰るわ」
先に立ち上がったのは圭吾の方だった。春奈は何となく名残惜しくなり、彼に声をかけた。
「月島くん。また、どこかで話せる?」
圭吾はちらっと春奈を見て答えた。
「……雨が降ったら、ここで」
それから春奈と圭吾は、雨の日だけこの四阿で会うようになった。
この公園は住宅街の真ん中にあり、広い道からは外れている。クラスメート達は大抵大通りや駅の方へ向かうので、この辺りはあまり通らない。ましてや雨の日となると、人通りはほとんどなくなる。
だからここで二人が会っていることは、学校の他の者に知られることはなかった。どこか秘密めいたこの関係が、春奈は何だか特別なもののように思えていた。
とは言え、二人で話すことはやはり他愛もないことだった。春奈は友人や家族のことを話すことも多かったが、圭吾は読んだ本やマンガ、テレビ番組やネットで見た動画のことがほとんどだった。圭吾の家族のことで春奈がわかったのは、一人っ子であることと父親がいないことくらいだった。
あれは確か、雨について話をしていた時だった。ちなみに春奈は「雨の日はじめじめしていて嫌い」と言い、圭吾は「雨宿りが出来るからどちらかと言うと好き」と言っていた。
(雨宿りするとわたしに会えるから?)と一瞬春奈は思ったが、それは流石に自分に都合が良すぎる、と考え直した。多分圭吾の言っていることは、そんなことではない。そんな気がした。
それからあれこれと話が飛んだ末に、春奈はふとこんな疑問を口にした。
「『じゃのめ』って、何だろうね?」
「じゃのめ?」
「うん、ほら、童謡であるじゃん。雨あめ降れ降れ母さんが、じゃのめでお迎え嬉しいな、って。あれに出て来る『じゃのめ』。あれが何か、わかんなくて」
きょとんとしていた圭吾は、ああ、と小さく声を上げた。
「傘のことだよ、じゃのめって。蛇の目傘っていうのがあるんだ」
そう言って圭吾は、自分のスマホで画像を検索した。
「ほら、こんな風に大きく丸い模様があるのが蛇の目傘。まあ昔の日本の傘って感じかな」
「へぇ、そうなんだ。月島くんさすが、よく知ってるね」
春奈の言葉に圭吾は少しばかり照れたようだったが、すぐに何か考え込むような表情を見せた。
「……でもさ。母親がわざわざ迎えに来てくれるのって、そんなに嬉しいものかな?」
「そりゃ、嬉しいでしょ? お母さんが迎えに来てくれるんなら」
「……だよね。普通は、そうだよね」
圭吾の言葉と表情の意味を、その時の春奈はまだわからなかった。
二人の雨宿りが終わったのは、雨の季節が終わる頃だった。その日はいつもより雨が激しく、雷も鳴るような天気だった。
二人とも、傘は持っていた。だが、この雷雨の中を帰る気にはなかなかならず、もう少し、もう少しだけここにいようと四阿に居座っていた。
そうしていると、公園の前に一台の軽自動車が停まった。すぐに中から誰かが降りて来る。圭吾がぎくりとしているのが、目に見えてわかった。
降りて来たのは一人の女性だった。彼女は迷わず二人のいる四阿を目指して歩いて来た。雷雨などものともしない歩みだった。
「圭ちゃん」
と、彼女は四阿に声をかけた。
圭吾は仕方なく、といった感じで立ち上がった。
「こんなところで道草なんかしてたのね」
「雨がひどいから。雨宿りしてただけだよ、母さん」
母さん? 春奈は驚いて彼女を見た。圭吾の母親は中学生の息子がいるとは思えない程、若々しく見えた。その顔立ちは息子に良く似ていて、一見優しげでにこやかに見える。だが。
「こんな人気のない場所で、女の子といちゃついていたのかしら?」
「そういうんじゃないよ。彼女はただここでたまたま一緒になっただけの、通りすがりだ。さっきも言っただろ、雨がひどくて、雨宿りしてただけだよ」
春奈を見る、眼が。
どこかじっとりと粘着質で、危うい光を帯びているようだった。まるでその視線に縛られるように、春奈は身動き出来ずにいた。
圭吾はちらりと春奈を振り返った。
「雨宿りは終わりだ。もう会うことはないから」
「えっ……」
言い捨てて、圭吾は四阿を出て行った。母親の傘に入る。車に戻る直前、母親はもう一度春奈を見た。
視線に捕らえられる。蛇に睨まれたカエルのように。――そう、あれはきっと蛇の眼だ。
そのまま、圭吾は母親の車に乗せられて行ってしまった。ざあざあという雨の音だけが、春奈の耳に残っていた。
圭吾とはそれっきり、会うことはなかった。公園の四阿は勿論、学校でもその姿を見ることはなくなった。
引きこもりになって部屋から出て来なくなったとか、先生が家に行っても鍵がかかっていて会えなかったとか、時々窓から姿が見えるから生きてはいるらしいとか、そんな話の断片だけがクラスの間を流れては消えた。
そのまま春奈は他の皆と一緒に高校に進学し、大学に進学し、就職や恋愛などを経験し、大小の様々な判断を間違えた上で今ここに戻って来ているのだった。
ぱしゃ。
水の音がした。
春奈は公園の入口を振り返った。いつの間にか、誰かが公園に入って来ている。
それは、春奈と同じ年頃の男だった。上下ともグレーのスウェット姿で、ボサボサな髪が雨に濡れて顔に貼り付いている。足元はサイズの合っていないサンダルを履き、履き慣れない為かどこかヨタヨタとした歩き方だ。どこから見ても不審な人物だった。
不審者はヨロヨロと四阿にたどり着き、全身ずぶ濡れのままベンチにどっかりと腰を下ろした。濡れた前髪をかき上げる。……無精ひげを生やしていたが、その顔立ちには見覚えがあった。あの頃の面影が残っている。
「……月島くん?」
春奈は思わず声をかけていた。彼は初めてそこに春奈がいたことに気づいたように、目を見開いて彼女を見た。
「北原さん……!」
やはり、それは月島圭吾だった。
「……奇遇、だね」
圭吾は、落ち着かなさそうに目線を迷わせていた。どこか気まずいのはお互い様だ。
「ほんと。まさかまたここで会うなんて」
圭吾はちらりと春奈の荷物を見た。目立つ紙おむつのパッケージ、他にもバッグいっぱいの赤ちゃん用品。
「子供……いるんだ」
「ん……まあね」
「そりゃそうか、――15年も経ってるんだから」
自嘲的な口調だった。
「旦那さんは?」
「いないよ。……とっても素敵な人だったけど」
(そう、彼はもうわたしの元にはいない。わたしを置いて、いってしまった。だから、わたしは……)
揺れそうになる心を、春奈はぐっと抑えた。
圭吾はしばらく何事か逡巡していたが、意を決したように口を開いた。
「北原さん。俺を、匿ってくれないか」
「え……」
「あ、いや、それは赤ちゃんがいるから迷惑か。なら、ここで警察に連絡してくれ。俺は携帯とか取り上げられてるから、誰かと連絡を取る方法がないんだ」
「警察って……一体」
訊き返そうとして、春奈は気づいた。圭吾の手首をぐるりと一周するように、擦り傷がある。よく見ると、足首にも。これは、拘束されていた跡ではないのか。そういえば、圭吾の態度も何だか不穏だ。
何があったの。
そう訊こうとした時。
公園の入口に、車が停まった。
その光景には既視感があった。車の中から、女性が降りる。あの時から十五年経って、彼女もそれだけ歳を取っていた。あの時と違って彼女は髪を振り乱し、頭から血を流していた。
圭吾の母親だった。
「母さん……」
「圭ちゃん。ダメじゃないの、逃げ出しちゃ」
表情はにこやかだが、その目はじっとりと粘着質な、蛇の眼だ。彼女の右手に握られているのは、大ぶりのスタンガンだった。
「あら、あなたまたこんな所でそんな小娘と会っていたのね。あなたはわたしのものなのに」
「母さん、もうやめてくれ。俺は俺なんだよ、あんたのものでも、父さんの代わりでもないんだ!」
圭吾は血を吐くように叫んだ。
「もう充分だろう? 15年も俺を家の中に閉じ込めておいて、自分の思う通りにして。俺が大事だ、愛してるって言うけど、違うだろ。あんたが愛してるのは、ただ自分自身だけなんだよ! そんなだから、父さんにも逃げられるんだ!」
圭吾の言葉に、母親の表情が消えた。手の中のスタンガンが、ばちりと火花を散らした。
「圭ちゃん。あなた、いつの間にそんなに悪い子になっちゃったの? ……悪い子には、お仕置きが必要ね」
母親は圭吾にスタンガンを突き出した。だが、圭吾の方も黙ってやられるわけには行かない。15年ぶりの自由を、ここで失いたくはなかった。圭吾はスタンガンをかわし、母親に組み付いた。
監禁されている間身体はろくに動かしてはいなかったが、やはり男と女とでは体力が違う。ましてや、母親はもうそれほど若くはない。力の差は歴然としていた。
もみ合っているうちに、圭吾は母親からスタンガンを奪い取ることに成功し、その武器を投げ捨てた。スタンガンはちょうど春奈の目の前に落ちた。
「北原さん!」
なおも抵抗する母親を押さえながら、圭吾は叫んだ。
「今のうちに警察を呼ぶんだ! 早く!」
春奈は。
足元のスタンガンを拾い上げた。
スイッチを押す。機械が小さな稲妻を起こす。春奈の手が、少しだけ震えた。
「北原さん!」
春奈はそのまま二人に近づいて行った。
そして。
春奈は、スタンガンを圭吾に押し当てた。
「北原……さん……?」
圭吾は驚愕の表情でその場に崩れ落ちた。
「……ごめんね、月島くん」
春奈はスタンガンをしっかりと握り締め、圭吾を見下ろしていた。
「警察は呼べない。――わたし、多分あなたのお母様と同類だから」
きっと今自分は蛇の眼をしているのだろう、と春奈は思った。圭吾の母親が、倒れた圭吾にすがりついた。母親は、愛しい男にするように、そっと彼の顔を撫でた。
圭吾とその母親を乗せた車が去って行くのを、春奈は黙って見送った。圭吾を積み込むのに少し手伝ったが、圭吾の母親はもう春奈のことなど目に入っていないようだった。
(そんなだから、父さんにも逃げられるんだ)
先程圭吾が言った言葉が、春奈の脳裏に甦った。……あんなことを言わなければ。あれさえなければ、助けてあげたかも知れないのに。
――あの女と同じことを言わなければ。
「さあ、わたしもあの子をお迎えに行かないと」
春奈は呟いた。
愛する俊昭の遺伝子を継ぐ子供。彼がいない今、それは春奈にとって何よりも尊い存在だった。そうあるべきだと思った。
もっとも、その子を産んだのは春奈ではない。自分から俊昭を奪ったあの女。「そんなだから、俊昭さんに逃げられるのよ」と面と向かって言ったあの女の遺伝子が入っているということだけが、唯一の難点だった。
でもまあ、他人の恋人を奪うような女がまともに子育てなど出来るはずがない。わたしの方がきっと、ちゃんとあの子を育てられる。存分に愛情を注いで、俊昭さんの子供にふさわしい子にして見せる。
(待っててね、すぐにお迎えに行くから)
俊昭さんが単身赴任でいない間に。引っ越して来たばかりのあの女が、地理に慣れないうちに。子供がまだ何もわからない赤ん坊のうちに。あの子をわたしの元にお迎えしてしまおう。
春奈は荷物を抱えて公園を出た。
どこか人間味を欠落させた蛇の眼で、春奈は無意識に歌を口ずさんでいた。
あめあめふれふれ かあさんが
じゃのめでおむかえ うれしいな
ぴっちぴっち ちゃぷちゃぷ らんらんらん
まだわずかに降る雨の中、軽快な足取りで、春奈は子供のお迎えをするべく歩き始めた。