婚約者が壊れました
「来てくれたか。シャルア君」
「おはようございます。ヴァルドさん」
早朝、フロイア家の屋敷。
静まり返った玄関先で、侯爵子息のシャルア・バーナードが頭を下げる。
対するフロイア家の当主、ヴァルド・フロイアは彼の様子を見つめるだけだった。
表情には多少の安堵だけが見え隠れする。
彼が屋敷に来てくれることを、今か今かと待っていたようにも見える。
直後、ヴァルドの奥方が玄関から姿を現す。
挨拶はない。
無言で頭を下げた後、夫と二人でそそくさとシャルアの横を通り過ぎた。
「お二人は、外出ですか?」
「あぁ……娘を頼む」
曖昧な返答だったが、最後の頼みだけはハッキリとしている。
諦観と憔悴が入り混じった、冷たい言葉だった。
「絶対に、絶対に屋敷からは出さないでくれ。それだけで良い」
「……分かりました」
ここ最近、シャルアと入れ違うように二人は外出したまま戻って来ない。
今の言葉も、まるで使用人に向けた要求にも取られかねないが、彼は非難しない。
それも仕方のない事だと割り切っていた。
理由は単純。
今のフロイア家に、使用人は殆ど残っていないからだ。
当主と奥方が屋敷を出ていった後、シャルアは屋敷の中に足を踏み入れた。
飛び込んで来たエントランスホールは、空気が異様なまでに冷たい。
温度だけの問題ではない。
周囲の様子が、在り方が、完全に死んでいる。
煌びやかで燦爛としていた過去のそれとは雲泥の差がある。
『ドン! ドン! ドン! ドン! ドン!』
得体の知れない物音が二階から聞こえる。
壁か床に物を突き落すような、鈍い音だった。
周囲の雰囲気と相まって、シャルアに緊張が走る。
だが頭を振って、彼はエントランスホールから一直線に階段を上り、目的の部屋に向かった。
そこは転機。
シャルアが毎朝訪れる原因であり、フロイアの屋敷が零落した要因。
彼の婚約者、ルーナ・フロイアの部屋だった。
『ザクッ! ザクッ! ザクッ! ザクッ! ザクッ!』
扉を開けると、カーテンの閉まった仄暗い部屋の中心に、彼女はいた。
絨毯の敷かれた床に座り込んで、彫刻刀を振り下ろしている。
何処から持って来たのかは分からない。
鋭利な歯の切っ先を、人形向けて何度も突き刺している。
既に人形は綿を撒き散らし、無残な姿に変貌していた。
シャルアは思わず駆け寄り、ルーナの腕を掴む。
「ルーナ、危ないよ」
「んー……あー……シャルア……?」
「うん。俺はシャルアだ」
ボサボサの金髪で、一心不乱に差し続けていた彼女の瞳が、ようやくこちらを見上げる。
映るのは、死んだ魚に等しい真っ黒な色だけ。
それでも彼女はシャルアを認識して、持っていた彫刻刀を取り落とした。
フロイア家の令嬢、ルーナ・フロイアは才女だった。
容姿端麗、成績優秀、品行方正、貴族の子息や子女の中で並ぶ者はいない。
常に難しい書物を読み漁っており、知識の獲得にも余念がなかった。
失敗など有り得ない、誰もが一目置くような人物。
幼馴染だったシャルアにとっても、彼女は言わば憧れの存在だった。
縁あって婚約する関係になっても、その思いは変わらなかった。
しかし、ある日突然、彼女は壊れてしまった。
幼児退行のような、精神的な崩壊と表現するべきなのだろう。
知的な様子は失われ、両親の顔も思い出せない程に記憶も失われた。
更に支離滅裂な言動と行動を繰り返し、周囲の物を壊すようになったのだ。
当初は悪魔や呪いが原因だと騒ぎになり、様々な場所に運ばれた。
しかし、どの術師に診せても結果は同じ。
ルーナにそのような症状は一切見つからず、治療法も全く見つけられなかった。
そうして当主のヴァルド達は、何の進展もない状況に次第に疲弊していき今に至る。
今や彼女に会いに来る者は、婚約者であるシャルアただ一人になってしまった。
「一体何があったんだ?」
「めが、みてるの」
「目?」
何のことか分からず首を傾げると、ルーナはボロボロの人形を指差した。
「めが、じいいいいいいいって、みてるの。じいいいいい、じいいいいいいって、わたしをずうううううっと、みてるの。だから、みないでって、みないでって、いったのに!」
「……」
「なんで、ずっとみてくるの!? わたし、がんばってるのにッ!!」
ルーナは息を荒げる。
様子が一変して以降、彼女はとても情緒不安定になっている。
こうして訴えてきても、何が言いたいのか半分くらいしか分からない。
ただ、人形の瞳を怖がっていることだけは分かる。
僅かな手掛かりを頼りに、シャルアは人形を取り上げた。
「怖かったんだな。よし、じゃあこの人形は俺が預かるよ。これでもう、ルーナを怖がらせるモノはいない」
「……ほんとう? シャルア、だいじょうぶなの? ずっと、ずっと、シャルアをみるんだよ?」
「大丈夫。怖い目なんて、この侯爵子息のシャルアが跳ね返してやるさ!」
自信ありげに言うと、ルーナはジッとシャルアの瞳を覗き込んでくる。
無表情かつ真っ黒な瞳で見上げてくると、中々に恐ろしく見える。
だが暫くして、彼女は目を伏せて身体を傾けた。
ゆっくりとシャルアに身体を寄せ、ふうっと息を吐いた。
「シャルア……つよいね……」
震えるような小さな声を聞き、シャルアはそのままルーナに寄り添った。
異変をきたして以降、彼女は殆どの記憶を失っていたが、何故かシャルアの事だけは覚えていた。
見ず知らずの人間ではなく、知己の間柄としてこのように身体すら預けてくる。
彼女がシャルアに危害を加えることはなかった。
会話もある程度は通じ、意思疎通も出来る唯一の人物。
それ故、彼はこの立場を受け入れた。
フロイア家の当主たちが匙を投げる中、彼女が戻ってくることを願って接し続けていた。
「もしかして……俺の目も怖い? 閉じていた方がいいのかな?」
「やだ。とじないで」
不意に問うと、ルーナはおもむろに彼の瞼に手を触れ、グイッと開かせた。
多少痛む程度で、不快に感じるものではない。
子供が大人にじゃれつくような、そんな戯れだ。
「痛い痛い。こら、そんな事するなら、ルーナの目も開けちゃうぞ?」
「あー、うー、やめてー」
「そう。痛いだろ? 痛いことは、やっちゃ駄目だからな?」
「でも、シャルアとおなじ」
「ん?」
「いたいの。シャルアとおなじ」
「え? あぁ……まぁ、そうかな?」
「えへへー! おなじ、おなじ!」
嬉しそうにルーナは笑った。
昔ならば想像もできない、柔らかな笑みだ。
勿論、以前が仏頂面だったという訳ではない。
たがそれを見ていると、今の彼女と昔の彼女の笑み、どちらが『本物』だったのか分からなくなっていく。
ルーナは模範的な貴族の令嬢だった。
婚約であっても、他に引く手数多な程の選択肢があった。
そんな中で、彼女はシャルアを婚約相手に選んだ。
確かに侯爵子息という立場はある。
しかし、幼馴染で他愛もない会話をする程度の関係だ。
加えて幼少期にはヤンチャ坊主だったので、色々と彼女を呆れさせたこともある。
そんな自分が選ばれると、彼は思っていなかったのだ。
当然、即答する程に嬉しかったのは事実だ。
それでも彼はルーナに聞いた。
何故、自分を選んでくれたのかと。
『ありのままの私を、見てくれていたからかな?』
ルーナは恥ずかしそうな、それでいて寂しそうな笑顔を見せた。
あの笑顔が嘘だったとは思えない。
或いは、それはどういう意味なのかと、もう少し踏み込むべきだったのかもしれない。
しかしシャルアは問い詰めなかった。
聞けば、彼女が遠くに行ってしまうような予感がしたからだ。
その予感は正しかったのか、間違っていたのか。
婚約から間もなく、今の二人は近いようで遠い場所を彷徨っていた。
「シャルア、みててね、みててね」
「あぁ、頑張るんだぞ」
脅かすものが部屋から無くなると、ルーナは次に取り掛かった。
積み上げられた本の山から参考書を引っ張り出し、絨毯の上に広げる。
そして本を食い入るように読み始めた。
勉強は彼女にとっての日課である。
そこだけは以前と変わりなく、誰に言われるでもなく行う。
「ふー……ふー……」
ただ、内容を理解しているかと言われると半々だろう。
読んでいるのは、かつて彼女が読破したもの。
シャルアであっても全て理解するのには中々に骨が折れる。
今のルーナには荷が重かった。
「はぁっ! はっ……! ハッ……!」
次第に息が荒くなっていく。
あれからのルーナは、失敗や間違いを極端に恐れていた。
些細なミスであっても、心を締め上げられるような苦しみを覚えるらしい。
そこまでして勉学に励む必要はない筈だ。
身体に染み付いた習慣は、簡単には取れないのかもしれない。
どちらにせよ、このまま放っておけば彼女は平静を保てなくなる。
耐え切れない堤防が決壊するように、自分の身体を傷つけようとするだろう。
シャルアは震える彼女の肩にそっと手を置いた。
「大丈夫。分からなくても、それは悪い事じゃない。間違っても良いんだ。一つずつ、ゆっくり分かっていこう」
「まちがう……いいの……?」
「勿論。何でもできる完璧超人なんて、何処にもいないんだ」
それはシャルア自身に、言い聞かせる言葉だった。
かつての彼は、ルーナを秀でた才能を持つ天才だと思っていた。
でも、今になって思う事がある。
彼女は常日頃から勉学に励んでいたし、誰よりも努力していた。
周りから才女と呼ばれていたのも、その土台があってこそだ。
頭の出来が違うとか、そういう問題ではない。
努力し続けるという力があったのだ。
現にルーナは、今でも勉学を放棄しない。
シャルアは彼女に対する認識をはき違えていたと、ようやく理解し始めていた。
励ましの下、ルーナはどうにか本の一章まで読み終える。
不安そうな表情で何度も見返してきたが、責める様な真似はしない。
これは彼女の成果だ。
諦めずにやり通した事に変わりはないし、大切にしなければならない。
シャルアが優しく微笑むと、ルーナは安堵して身体の力を抜く。
そしてその場でコロン、と横になった。
ひと段落が付き、シャルアは自分が空腹だったことに気付く。
取りあえず、彼女も誘って朝食を取ることにする。
未だ屋敷には僅かな料理人が常駐しているので、その人物に頼み、食事を用意させた。
フロイア家の従者に命令をするのはおかしな話だが、当主からは日常的な指示の権限は頂いていた。
料理の品質に手抜きはない。
貴族が食すべき品がテーブルの上に揃えられた。
「いただきます」
「いただきまーす」
お互いに挨拶を交わして、食器を手に取る。
ルーナも腹が空いていたようで、黙々と食べ始める。
本来、食事をする際も赤子と同様の注意を払うべきだった。
しかし理由は分からないが、作法だけは何故か覚えている。
物静かに丁寧に、粗相の一つもない。
毎度のことながら、シャルアはそれを見て素朴な疑問を浮かべる。
「それにしても、食事のマナーとかはしっかり覚えてるんだよなぁ」
不意にルーナの手が止まる。
それからゆっくりと彼を見据えた。
「……変?」
「いや、おかしくはないよ。俺を覚えていてくれたのと同じだ。もしかしたら、他に思い出せるものもあるかもしれない、って思ってさ」
全てを忘れた訳ではない。
勉学がそうだったように、彼女には今までの記憶が少なからず残されている。
元から残っていたのか、途中から思い出したのかは分からない。
ただ、消えた記憶が元に戻る可能性はありそうだ。
彼の返答を聞いたルーナは、少しの間だけ視線を虚空に向ける。
「あ、そーいえば」
「ん? 何か思い出したのか?」
「わたしのいえ、だれもいないね。どーして?」
「そ、それは……そうだなぁ……」
そればかりはハッキリと返せない。
彼女の両親が屋敷を離れ、何処に行っているのかは知る所ではない。
シャルアは何とか誤魔化しながら、食事を再開するしかなかった。
食事を終えて二人で小休止に入る。
まだ眠気があるようで、ルーナを自室で寝かせると、唐突に屋敷に立ち入る者が現れた。
訪問客ではない。
明け方に入れ違いで屋敷から出ていった、当主のヴァルド達だった。
思った以上に早い帰宅にシャルアは驚く。
いつもは夜遅くまで帰って来ないのだが、何か忘れものでもしたのだろうか。
取りあえず、彼は当主らを出迎えた。
「ヴァルドさん、今日は早かったですね」
「あぁ、要件があってな」
「要件?」
「シャルア君、少し良いだろうか」
どうやら目的はシャルア自身だったようだ。
彼は神妙な様子のヴァルドに頷き、応接間へと案内される。
いつもとは違う雰囲気に、若干の緊張感を抱きながら彼は椅子に座る。
何となくだが、嫌な予感がしていた。
そしてその予感は的中する。
「ど、どういう事ですか?」
「言ったとおりだ。ルーナの世話をしている事、とても感謝している。だがこれ以上、今の状況を長引かせる訳にはいかない」
ヴァルドはシャルアを真っすぐに見つめ、宣言する。
「君とルーナの婚約を破棄する」
「な!?」
「これは君の両親、バーナード家の当主から了承を得ている。と言うよりは、向こうの依頼を私達が受けただけの事だが」
「父上が、そんな事を……?」
「君はまだ若く、将来もある。毎日こんな事を続けていては、貴族としての面子も立たないだろうし、何より大変だろう? 私も、よく分かるよ。あの子はとても優秀な、自慢の娘だったのに、今では何を考えているのか……私達にはもう何も分からないし、疲れてしまった……」
恐らくヴァルド達は、バーナード家からの交渉に向かっていたのだ。
貴族の娘の面倒を別の貴族に任せるなど、本来なら有り得ない話だ。
今までは両家の温情でこの状況が続いていたが、もう潮時なのだ。
ヴァルドらもシャルアに負担を強いている自責もあって、破棄の申し出を断ることは出来ない。
彼らの意志は固かった。
置かれている状況は誰よりも理解しているつもりなのだろう。
しかし、婚約破棄はこの際どうでも良かった。
最も大事なことを、シャルアは問う。
「……ルーナは、どうなるんですか?」
「遠くの寺院に預けようと思っている。そこは特殊な場所でね。あの子のような『悪魔に憑りつかれた者』でも、快く引き入れてくれるそうだ」
遠くの僻地に彼女を追いやる気なのだ。
それは今と何も変わらない。
誰からも遠ざけられた状況で、少女一人で孤独に生きて行けと言っているようなものだ。
更に悪魔に憑かれた、という言葉がシャルアに反抗心を抱かせた。
思わず彼は身を乗り出す。
「それはッ……駄目です!」
「シャルア君?」
「ヴァルドさんのご厚意には感謝しています。しかし自分は、ルーナとの婚約を破棄するつもりはありません!」
「だが、これは君の両親とも話がついて……」
「父上には自分から改めて話します! 今はどうか……ルーナから何かを奪うような事をしないで下さい!」
反論はさせないまま、シャルアは応接間を後にした。
貴族としての立場を考えるなら、彼らの言葉は尤もだったかもしれない。
ただ幼馴染として、婚約者として、今の要件だけはどうしても呑めなかった。
彼は不意にルーナの事が気になり、彼女の自室に行き、小さくノックをする。
返事はない。
ゆっくり扉を開くと、ルーナはベッドの上で布団を被って丸まっていた。
「寝てる……か。そうだよな。もし、今の話を聞いていたら……」
婚約破棄の話が理解できなくとも、場の雰囲気からある程度の事は悟れるだろう。
彼女が寝ている事に、シャルアは安堵する。
だが、これから先の事は安心できない。
両家で婚約破棄の話が纏まっているのなら、殆ど決定事項のようなものだ。
彼自身、実父を説得できるかも分からない。
傍らに眠る少女の姿を見て、シャルアは自分の思いを吐露する。
「本当にこれが正しい事なのか、分からない。でも、こんな形で離れ離れになるなんて納得できない。俺はまだ、ルーナと一緒にいたいんだ」
例え記憶がなかったとしても、今ここに彼女はいる。
無理矢理な形で別れるなど、頷けるわけもない。
安らかに眠っている婚約者のために、何としてでもこの話を阻止しなくてはならない。
シャルアが改めて決意した、その直後だった。
「う……っ……」
「えっ?」
「うっ……ぐすっ……」
嗚咽のような声が聞こえる。
驚いたシャルアが再度見ると、彼女は顔を手で覆いながら涙を流していた。
「ルーナ!? まさか、起きて……!」
「ごめんね……ごめんね、シャルア……」
「っ!?」
瞬間、今までのルーナの行動が一つの線に繋がる。
そしてシャルアは悟った。
彼女は今まで苦しんでいたのだ。
幼少から貴族の中でも天才と呼ばれ、失敗など有り得ないような目を向けられていた。
そんな目が、次第に精神を蝕んでいった。
例えどれだけ優れていたとしても、それを持つのは成人すらしていない少女だ。
君なら出来る。
失敗する筈がない。
そんな言葉、一人で抱えようとしても耐えきれるものではない。
両親のヴァルド達ですら、優秀な娘という認識以外を持っていなかった。
周囲から失望されるという恐れが、首を振る事を躊躇させていたのだ。
そうして更に尊敬の目で見られ、期待され続ける。
あれだけ人形の目を恐れていたのは、それが原因だった。
故にルーナは誰かを頼る、助けを求めるという事を知らなかった。
だが、これ以上は耐え切れない。
逃げ道を失った彼女がシャルアを婚約者に選んだのは、その印。
手を伸ばす方法すら分からない彼女が選んだ、精一杯の声だった。
『ありのままの私を、見てくれていたからかな?』
あれは最後の言葉だったのだろう。
どうか、本当の自分に気付いてほしいと願って絞り出したのかもしれない。
しかし、シャルアは踏み出せなかった。
そして、彼女の中で張り詰めていた糸が伸び続けて。
休む間もなく、どうしようもなく伸び続けて。
一気に切れてしまった。
何もかも、分からなくなってしまった。
そこまで理解したシャルアは、泣き続けるルーナを抱き寄せる。
「良いんだ。もう、無理をしなくて良いんだ、ルーナ」
「ぇ……」
「謝るのは俺の方だ。ずっと勘違いしていた。今まで気付けなかった。本当に、ごめん」
ルーナの華奢な身体が、一瞬だけ震える。
あぁ、俺は何て馬鹿だったんだろう、とシャルアは自己嫌悪に陥る。
幼い頃から共にいたというのに、何一つ彼女の変化に気付けなかった。
戻ってくることばかりを考えていた自分が、情けなく感じる。
そんな事に意味はない。
仮に戻ってきたとしても、頼る者のない彼女には苦しみしかない。
彼女が欲していたのはただ一つ。
才女ではない、ありのままの自分を受け入れてくれる人、それだけだったのだ。
「今のルーナが戻っていても、戻っていなくても、どっちでも良い。何よりも俺は、君が選んでくれた婚約者だ。だから傍にいる。憧れなんて遠い所からじゃない。手の届く、触れられる所で」
今更そんな資格があるのか、シャルア自身にも分からない。
それでもルーナは、唯一彼の事だけは忘れていなかった。
殆どのモノが崩壊した中で、その記憶だけは手放さなかったのだ。
ならば、出来る事は一つしかない。
決意の込められた言葉に、ルーナは何も言わない。
ただ、シャルアの身体を強く抱き返すのだった。
それからシャルアは実父と、婚約破棄を取り消すよう交渉した。
実父は彼の貴族としての立場を考えて非常に渋っていたが、度重なる話し合いの末、条件付きで破棄の取り消しが決まった。
条件は簡単。
ルーナの状態、『悪魔が憑りついている』状況を解消することだった。
つまりは彼女を元に戻せ、と言っているのだ。
無茶な話である。
そもそも彼にとって戻す戻さないは、無理矢理どうこうする話ではない。
だがこうして提言された以上、実父の満足する答えを導かなくてはならなかった。
ルーナは貴族の中での、自分の立場を恐れている。
それこそが、彼女の糸が切れてしまった原因でもある。
故に本当の意味で休ませるには、貴族社会から離れた場所でなくてはならない。
そこで一つの案を、シャルアは考え付く。
国内には、王族や貴族単位で管理している図書館なるものがある。
書籍、特に歴史書は非常に貴重な品だ。
上流階級の者が管理するのは当然とも言えるし、彼もその事実は知っていた。
そんな中で、唯一一般向けに開放している館がある。
お伽話と言った、歴史的には価値の低い童話や小説を集めている小さな場所だ。
そこの司書をしてみてはどうか、と彼は思い付いたのだ。
ルーナは書物に関しては依然と変わりなく、並々ならぬ関心がある。
貴族から離れ、かつ彼女の望むものがある最適の場所だ。
ただ、司書の資格は上流階級の者が認めた人物に限られる。
実父に頼まなければ、どうにもならない話ではあった。
司書にするまでの道のりは中々に困難だった。
無理難題を言う父を説き伏せようと、周囲の人も巻き込んだ。
一人で解決できる話ではないことを、分かっていたからだ。
ヴァルド達にも協力を依頼し、挙句の果てには、父と殴り合いになりかねない状況にもなった。
それでも何度も頭を下げるなどした結果、向こうが先に根負けする。
息子のルーナを思う気持ちに多少なりとも、理解を示したのかもしれない。
3か月だけという猶予を条件に、父の手回しによって、ルーナは都市から離れた図書館の司書となった。
訪問当日、本当に大丈夫なのかと館長は心配していたが、問題ないとシャルアは即答した。
彼女が不安定になるのは、他人からの期待の目、監視の目がある時だけだった。
取りあえず館長には、普通の少女として接してくれと念を押しておく。
図書館に連れてこられたルーナは、物珍しそうに周囲を見回していた。
ここに来る前に司書としての話はしていたので、シャルアは彼女に簡単な仕事を任せる。
失敗したとしても問題はない、棚にある本を整頓するという作業だ。
すると彼女は、あっという間にその仕事を終わらせた。
数日経つ頃には、それぞれの本がどの位置にあるのか、完璧に把握していた。
館長も驚く中、シャルアはそこに光明を見た。
ルーナと共に本の管理を行いつつ、やりたいようにやらせてみる。
ただ彼女にとっては簡単すぎるものだったようで、暇な時間で館内の本を読み漁るようになった。
カウンターの椅子に座ったまま、必要な時以外は殆ど動かずに黙々と読み続ける。
ドレスを纏ったその姿は、一見ただの人形のようにも見えなくもない。
するとその光景に興味を持った町の子供たちが、彼女の傍に近づいて来るようになった。
貴族の出身でもない、純粋な子供の視線に対して、ルーナは穏やかだった。
「ねぇねぇ、なに読んでるの?」
「おとぎばなし、よ」
「おもしろい?」
「うん。よんでみる?」
「んー、でも文字読めないし……」
「……かわりに、よんでもいいけど?」
「ホント? じゃあ、聞く!」
町の子供達には、文字が分からない者も多い。
本を読めないがために館に近づかなかった彼らに、ルーナは読み聞かせを行った。
本という高級品かつ馴染みのなかったお伽話は、子供達にとっては新鮮に映ったようだった。
そんな光景が続くうちに、次第に子供の数が増えていく。
人通りの少なかった館の周りには、和気藹々とした声が聞こえるようになった。
金も貰わずに話を聞かせるのは如何なものか。
小言を並べる館長には、シャルアが金を握らせて黙らせておく。
裏の事情を知らないルーナは、毎晩楽しそうに彼に問う。
「シャルア、あしたはあの子たちに、何をきかせてあげよう?」
「俺が選んで良いのか?」
「うん。きっと、みんな喜ぶわ」
数ある物語の中から、二人で選び抜く。
既に彼女には、言い知れぬ恐怖を感じていた頃の面影はない。
いつしか、周囲の認識も変わっていく。
悪魔に憑りつかれた魔女ではなく、本を携えて子供たちに語り継ぐ心優しい少女として。
3か月が経ち、様子を見に来た実父の従者がシャルアに尋ねる。
「シャルア殿、彼女は元に戻っているのでは? この様子ならば、司書の延長は確実……いや、フロイア家の令嬢として舞い戻る可能性も……」
「どっちでも良いんです」
「え?」
「戻っていても、戻っていなくても、何も変わりませんよ」
今もこれからも、このままで良い。
シャルアは、子供たちに笑いかけながらこちらに手を振るルーナを見て、そう言うのだった。