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婚約者が壊れました

作者: 立草岩央
掲載日:2020/05/09

「来てくれたか。シャルア君」

「おはようございます。ヴァルドさん」


早朝、フロイア家の屋敷。

静まり返った玄関先で、侯爵子息のシャルア・バーナードが頭を下げる。

対するフロイア家の当主、ヴァルド・フロイアは彼の様子を見つめるだけだった。

表情には多少の安堵だけが見え隠れする。

彼が屋敷に来てくれることを、今か今かと待っていたようにも見える。

直後、ヴァルドの奥方が玄関から姿を現す。

挨拶はない。

無言で頭を下げた後、夫と二人でそそくさとシャルアの横を通り過ぎた。


「お二人は、外出ですか?」

「あぁ……娘を頼む」


曖昧な返答だったが、最後の頼みだけはハッキリとしている。

諦観と憔悴が入り混じった、冷たい言葉だった。


「絶対に、絶対に屋敷からは出さないでくれ。それだけで良い」

「……分かりました」


ここ最近、シャルアと入れ違うように二人は外出したまま戻って来ない。

今の言葉も、まるで使用人に向けた要求にも取られかねないが、彼は非難しない。

それも仕方のない事だと割り切っていた。

理由は単純。

今のフロイア家に、使用人は殆ど残っていないからだ。


当主と奥方が屋敷を出ていった後、シャルアは屋敷の中に足を踏み入れた。

飛び込んで来たエントランスホールは、空気が異様なまでに冷たい。

温度だけの問題ではない。

周囲の様子が、在り方が、完全に死んでいる。

煌びやかで燦爛としていた過去のそれとは雲泥の差がある。


『ドン! ドン! ドン! ドン! ドン!』


得体の知れない物音が二階から聞こえる。

壁か床に物を突き落すような、鈍い音だった。

周囲の雰囲気と相まって、シャルアに緊張が走る。

だが頭を振って、彼はエントランスホールから一直線に階段を上り、目的の部屋に向かった。

そこは転機。

シャルアが毎朝訪れる原因であり、フロイアの屋敷が零落した要因。

彼の婚約者、ルーナ・フロイアの部屋だった。


『ザクッ! ザクッ! ザクッ! ザクッ! ザクッ!』


扉を開けると、カーテンの閉まった仄暗い部屋の中心に、彼女はいた。

絨毯の敷かれた床に座り込んで、彫刻刀を振り下ろしている。

何処から持って来たのかは分からない。

鋭利な歯の切っ先を、人形向けて何度も突き刺している。

既に人形は綿を撒き散らし、無残な姿に変貌していた。

シャルアは思わず駆け寄り、ルーナの腕を掴む。


「ルーナ、危ないよ」

「んー……あー……シャルア……?」

「うん。俺はシャルアだ」


ボサボサの金髪で、一心不乱に差し続けていた彼女の瞳が、ようやくこちらを見上げる。

映るのは、死んだ魚に等しい真っ黒な色だけ。

それでも彼女はシャルアを認識して、持っていた彫刻刀を取り落とした。


フロイア家の令嬢、ルーナ・フロイアは才女だった。

容姿端麗、成績優秀、品行方正、貴族の子息や子女の中で並ぶ者はいない。

常に難しい書物を読み漁っており、知識の獲得にも余念がなかった。

失敗など有り得ない、誰もが一目置くような人物。

幼馴染だったシャルアにとっても、彼女は言わば憧れの存在だった。

縁あって婚約する関係になっても、その思いは変わらなかった。


しかし、ある日突然、彼女は壊れてしまった。

幼児退行のような、精神的な崩壊と表現するべきなのだろう。

知的な様子は失われ、両親の顔も思い出せない程に記憶も失われた。

更に支離滅裂な言動と行動を繰り返し、周囲の物を壊すようになったのだ。

当初は悪魔や呪いが原因だと騒ぎになり、様々な場所に運ばれた。

しかし、どの術師に診せても結果は同じ。

ルーナにそのような症状は一切見つからず、治療法も全く見つけられなかった。

そうして当主のヴァルド達は、何の進展もない状況に次第に疲弊していき今に至る。

今や彼女に会いに来る者は、婚約者であるシャルアただ一人になってしまった。


「一体何があったんだ?」

「めが、みてるの」

「目?」


何のことか分からず首を傾げると、ルーナはボロボロの人形を指差した。


「めが、じいいいいいいいって、みてるの。じいいいいい、じいいいいいいって、わたしをずうううううっと、みてるの。だから、みないでって、みないでって、いったのに!」

「……」

「なんで、ずっとみてくるの!? わたし、がんばってるのにッ!!」


ルーナは息を荒げる。

様子が一変して以降、彼女はとても情緒不安定になっている。

こうして訴えてきても、何が言いたいのか半分くらいしか分からない。

ただ、人形の瞳を怖がっていることだけは分かる。

僅かな手掛かりを頼りに、シャルアは人形を取り上げた。


「怖かったんだな。よし、じゃあこの人形は俺が預かるよ。これでもう、ルーナを怖がらせるモノはいない」

「……ほんとう? シャルア、だいじょうぶなの? ずっと、ずっと、シャルアをみるんだよ?」

「大丈夫。怖い目なんて、この侯爵子息のシャルアが跳ね返してやるさ!」


自信ありげに言うと、ルーナはジッとシャルアの瞳を覗き込んでくる。

無表情かつ真っ黒な瞳で見上げてくると、中々に恐ろしく見える。

だが暫くして、彼女は目を伏せて身体を傾けた。

ゆっくりとシャルアに身体を寄せ、ふうっと息を吐いた。


「シャルア……つよいね……」


震えるような小さな声を聞き、シャルアはそのままルーナに寄り添った。

異変をきたして以降、彼女は殆どの記憶を失っていたが、何故かシャルアの事だけは覚えていた。

見ず知らずの人間ではなく、知己の間柄としてこのように身体すら預けてくる。

彼女がシャルアに危害を加えることはなかった。

会話もある程度は通じ、意思疎通も出来る唯一の人物。

それ故、彼はこの立場を受け入れた。

フロイア家の当主たちが匙を投げる中、彼女が戻ってくることを願って接し続けていた。


「もしかして……俺の目も怖い? 閉じていた方がいいのかな?」

「やだ。とじないで」


不意に問うと、ルーナはおもむろに彼の瞼に手を触れ、グイッと開かせた。

多少痛む程度で、不快に感じるものではない。

子供が大人にじゃれつくような、そんな戯れだ。


「痛い痛い。こら、そんな事するなら、ルーナの目も開けちゃうぞ?」

「あー、うー、やめてー」

「そう。痛いだろ? 痛いことは、やっちゃ駄目だからな?」

「でも、シャルアとおなじ」

「ん?」

「いたいの。シャルアとおなじ」

「え? あぁ……まぁ、そうかな?」

「えへへー! おなじ、おなじ!」


嬉しそうにルーナは笑った。

昔ならば想像もできない、柔らかな笑みだ。

勿論、以前が仏頂面だったという訳ではない。

たがそれを見ていると、今の彼女と昔の彼女の笑み、どちらが『本物』だったのか分からなくなっていく。


ルーナは模範的な貴族の令嬢だった。

婚約であっても、他に引く手数多な程の選択肢があった。

そんな中で、彼女はシャルアを婚約相手に選んだ。

確かに侯爵子息という立場はある。

しかし、幼馴染で他愛もない会話をする程度の関係だ。

加えて幼少期にはヤンチャ坊主だったので、色々と彼女を呆れさせたこともある。

そんな自分が選ばれると、彼は思っていなかったのだ。

当然、即答する程に嬉しかったのは事実だ。

それでも彼はルーナに聞いた。

何故、自分を選んでくれたのかと。


『ありのままの私を、見てくれていたからかな?』


ルーナは恥ずかしそうな、それでいて寂しそうな笑顔を見せた。

あの笑顔が嘘だったとは思えない。

或いは、それはどういう意味なのかと、もう少し踏み込むべきだったのかもしれない。

しかしシャルアは問い詰めなかった。

聞けば、彼女が遠くに行ってしまうような予感がしたからだ。

その予感は正しかったのか、間違っていたのか。

婚約から間もなく、今の二人は近いようで遠い場所を彷徨っていた。


「シャルア、みててね、みててね」

「あぁ、頑張るんだぞ」


脅かすものが部屋から無くなると、ルーナは次に取り掛かった。

積み上げられた本の山から参考書を引っ張り出し、絨毯の上に広げる。

そして本を食い入るように読み始めた。

勉強は彼女にとっての日課である。

そこだけは以前と変わりなく、誰に言われるでもなく行う。


「ふー……ふー……」


ただ、内容を理解しているかと言われると半々だろう。

読んでいるのは、かつて彼女が読破したもの。

シャルアであっても全て理解するのには中々に骨が折れる。

今のルーナには荷が重かった。


「はぁっ! はっ……! ハッ……!」


次第に息が荒くなっていく。

あれからのルーナは、失敗や間違いを極端に恐れていた。

些細なミスであっても、心を締め上げられるような苦しみを覚えるらしい。

そこまでして勉学に励む必要はない筈だ。

身体に染み付いた習慣は、簡単には取れないのかもしれない。

どちらにせよ、このまま放っておけば彼女は平静を保てなくなる。

耐え切れない堤防が決壊するように、自分の身体を傷つけようとするだろう。

シャルアは震える彼女の肩にそっと手を置いた。


「大丈夫。分からなくても、それは悪い事じゃない。間違っても良いんだ。一つずつ、ゆっくり分かっていこう」

「まちがう……いいの……?」

「勿論。何でもできる完璧超人なんて、何処にもいないんだ」


それはシャルア自身に、言い聞かせる言葉だった。

かつての彼は、ルーナを秀でた才能を持つ天才だと思っていた。

でも、今になって思う事がある。

彼女は常日頃から勉学に励んでいたし、誰よりも努力していた。

周りから才女と呼ばれていたのも、その土台があってこそだ。

頭の出来が違うとか、そういう問題ではない。

努力し続けるという力があったのだ。

現にルーナは、今でも勉学を放棄しない。

シャルアは彼女に対する認識をはき違えていたと、ようやく理解し始めていた。


励ましの下、ルーナはどうにか本の一章まで読み終える。

不安そうな表情で何度も見返してきたが、責める様な真似はしない。

これは彼女の成果だ。

諦めずにやり通した事に変わりはないし、大切にしなければならない。

シャルアが優しく微笑むと、ルーナは安堵して身体の力を抜く。

そしてその場でコロン、と横になった。


ひと段落が付き、シャルアは自分が空腹だったことに気付く。

取りあえず、彼女も誘って朝食を取ることにする。

未だ屋敷には僅かな料理人が常駐しているので、その人物に頼み、食事を用意させた。

フロイア家の従者に命令をするのはおかしな話だが、当主からは日常的な指示の権限は頂いていた。

料理の品質に手抜きはない。

貴族が食すべき品がテーブルの上に揃えられた。


「いただきます」

「いただきまーす」


お互いに挨拶を交わして、食器を手に取る。

ルーナも腹が空いていたようで、黙々と食べ始める。

本来、食事をする際も赤子と同様の注意を払うべきだった。

しかし理由は分からないが、作法だけは何故か覚えている。

物静かに丁寧に、粗相の一つもない。

毎度のことながら、シャルアはそれを見て素朴な疑問を浮かべる。


「それにしても、食事のマナーとかはしっかり覚えてるんだよなぁ」


不意にルーナの手が止まる。

それからゆっくりと彼を見据えた。


「……変?」

「いや、おかしくはないよ。俺を覚えていてくれたのと同じだ。もしかしたら、他に思い出せるものもあるかもしれない、って思ってさ」


全てを忘れた訳ではない。

勉学がそうだったように、彼女には今までの記憶が少なからず残されている。

元から残っていたのか、途中から思い出したのかは分からない。

ただ、消えた記憶が元に戻る可能性はありそうだ。

彼の返答を聞いたルーナは、少しの間だけ視線を虚空に向ける。


「あ、そーいえば」

「ん? 何か思い出したのか?」

「わたしのいえ、だれもいないね。どーして?」

「そ、それは……そうだなぁ……」


そればかりはハッキリと返せない。

彼女の両親が屋敷を離れ、何処に行っているのかは知る所ではない。

シャルアは何とか誤魔化しながら、食事を再開するしかなかった。


食事を終えて二人で小休止に入る。

まだ眠気があるようで、ルーナを自室で寝かせると、唐突に屋敷に立ち入る者が現れた。

訪問客ではない。

明け方に入れ違いで屋敷から出ていった、当主のヴァルド達だった。

思った以上に早い帰宅にシャルアは驚く。

いつもは夜遅くまで帰って来ないのだが、何か忘れものでもしたのだろうか。

取りあえず、彼は当主らを出迎えた。


「ヴァルドさん、今日は早かったですね」

「あぁ、要件があってな」

「要件?」

「シャルア君、少し良いだろうか」


どうやら目的はシャルア自身だったようだ。

彼は神妙な様子のヴァルドに頷き、応接間へと案内される。

いつもとは違う雰囲気に、若干の緊張感を抱きながら彼は椅子に座る。

何となくだが、嫌な予感がしていた。

そしてその予感は的中する。


「ど、どういう事ですか?」

「言ったとおりだ。ルーナの世話をしている事、とても感謝している。だがこれ以上、今の状況を長引かせる訳にはいかない」


ヴァルドはシャルアを真っすぐに見つめ、宣言する。


「君とルーナの婚約を破棄する」

「な!?」

「これは君の両親、バーナード家の当主から了承を得ている。と言うよりは、向こうの依頼を私達が受けただけの事だが」

「父上が、そんな事を……?」

「君はまだ若く、将来もある。毎日こんな事を続けていては、貴族としての面子も立たないだろうし、何より大変だろう? 私も、よく分かるよ。あの子はとても優秀な、自慢の娘だったのに、今では何を考えているのか……私達にはもう何も分からないし、疲れてしまった……」


恐らくヴァルド達は、バーナード家からの交渉に向かっていたのだ。

貴族の娘の面倒を別の貴族に任せるなど、本来なら有り得ない話だ。

今までは両家の温情でこの状況が続いていたが、もう潮時なのだ。

ヴァルドらもシャルアに負担を強いている自責もあって、破棄の申し出を断ることは出来ない。

彼らの意志は固かった。

置かれている状況は誰よりも理解しているつもりなのだろう。

しかし、婚約破棄はこの際どうでも良かった。

最も大事なことを、シャルアは問う。


「……ルーナは、どうなるんですか?」

「遠くの寺院に預けようと思っている。そこは特殊な場所でね。あの子のような『悪魔に憑りつかれた者』でも、快く引き入れてくれるそうだ」


遠くの僻地に彼女を追いやる気なのだ。

それは今と何も変わらない。

誰からも遠ざけられた状況で、少女一人で孤独に生きて行けと言っているようなものだ。

更に悪魔に憑かれた、という言葉がシャルアに反抗心を抱かせた。

思わず彼は身を乗り出す。


「それはッ……駄目です!」

「シャルア君?」

「ヴァルドさんのご厚意には感謝しています。しかし自分は、ルーナとの婚約を破棄するつもりはありません!」

「だが、これは君の両親とも話がついて……」

「父上には自分から改めて話します! 今はどうか……ルーナから何かを奪うような事をしないで下さい!」


反論はさせないまま、シャルアは応接間を後にした。

貴族としての立場を考えるなら、彼らの言葉は尤もだったかもしれない。

ただ幼馴染として、婚約者として、今の要件だけはどうしても呑めなかった。

彼は不意にルーナの事が気になり、彼女の自室に行き、小さくノックをする。

返事はない。

ゆっくり扉を開くと、ルーナはベッドの上で布団を被って丸まっていた。


「寝てる……か。そうだよな。もし、今の話を聞いていたら……」


婚約破棄の話が理解できなくとも、場の雰囲気からある程度の事は悟れるだろう。

彼女が寝ている事に、シャルアは安堵する。

だが、これから先の事は安心できない。

両家で婚約破棄の話が纏まっているのなら、殆ど決定事項のようなものだ。

彼自身、実父を説得できるかも分からない。

傍らに眠る少女の姿を見て、シャルアは自分の思いを吐露する。


「本当にこれが正しい事なのか、分からない。でも、こんな形で離れ離れになるなんて納得できない。俺はまだ、ルーナと一緒にいたいんだ」


例え記憶がなかったとしても、今ここに彼女はいる。

無理矢理な形で別れるなど、頷けるわけもない。

安らかに眠っている婚約者のために、何としてでもこの話を阻止しなくてはならない。

シャルアが改めて決意した、その直後だった。


「う……っ……」

「えっ?」

「うっ……ぐすっ……」


嗚咽のような声が聞こえる。

驚いたシャルアが再度見ると、彼女は顔を手で覆いながら涙を流していた。


「ルーナ!? まさか、起きて……!」

「ごめんね……ごめんね、シャルア……」

「っ!?」


瞬間、今までのルーナの行動が一つの線に繋がる。

そしてシャルアは悟った。

彼女は今まで苦しんでいたのだ。

幼少から貴族の中でも天才と呼ばれ、失敗など有り得ないような目を向けられていた。

そんな目が、次第に精神を蝕んでいった。

例えどれだけ優れていたとしても、それを持つのは成人すらしていない少女だ。

君なら出来る。

失敗する筈がない。

そんな言葉、一人で抱えようとしても耐えきれるものではない。

両親のヴァルド達ですら、優秀な娘という認識以外を持っていなかった。

周囲から失望されるという恐れが、首を振る事を躊躇させていたのだ。

そうして更に尊敬の目で見られ、期待され続ける。

あれだけ人形の目を恐れていたのは、それが原因だった。

故にルーナは誰かを頼る、助けを求めるという事を知らなかった。

だが、これ以上は耐え切れない。

逃げ道を失った彼女がシャルアを婚約者に選んだのは、その印。

手を伸ばす方法すら分からない彼女が選んだ、精一杯の声だった。


『ありのままの私を、見てくれていたからかな?』


あれは最後の言葉だったのだろう。

どうか、本当の自分に気付いてほしいと願って絞り出したのかもしれない。

しかし、シャルアは踏み出せなかった。

そして、彼女の中で張り詰めていた糸が伸び続けて。

休む間もなく、どうしようもなく伸び続けて。

一気に切れてしまった。

何もかも、分からなくなってしまった。

そこまで理解したシャルアは、泣き続けるルーナを抱き寄せる。


「良いんだ。もう、無理をしなくて良いんだ、ルーナ」

「ぇ……」

「謝るのは俺の方だ。ずっと勘違いしていた。今まで気付けなかった。本当に、ごめん」


ルーナの華奢な身体が、一瞬だけ震える。

あぁ、俺は何て馬鹿だったんだろう、とシャルアは自己嫌悪に陥る。

幼い頃から共にいたというのに、何一つ彼女の変化に気付けなかった。

戻ってくることばかりを考えていた自分が、情けなく感じる。

そんな事に意味はない。

仮に戻ってきたとしても、頼る者のない彼女には苦しみしかない。

彼女が欲していたのはただ一つ。

才女ではない、ありのままの自分を受け入れてくれる人、それだけだったのだ。


「今のルーナが戻っていても、戻っていなくても、どっちでも良い。何よりも俺は、君が選んでくれた婚約者だ。だから傍にいる。憧れなんて遠い所からじゃない。手の届く、触れられる所で」


今更そんな資格があるのか、シャルア自身にも分からない。

それでもルーナは、唯一彼の事だけは忘れていなかった。

殆どのモノが崩壊した中で、その記憶だけは手放さなかったのだ。

ならば、出来る事は一つしかない。

決意の込められた言葉に、ルーナは何も言わない。

ただ、シャルアの身体を強く抱き返すのだった。


それからシャルアは実父と、婚約破棄を取り消すよう交渉した。

実父は彼の貴族としての立場を考えて非常に渋っていたが、度重なる話し合いの末、条件付きで破棄の取り消しが決まった。

条件は簡単。

ルーナの状態、『悪魔が憑りついている』状況を解消することだった。

つまりは彼女を元に戻せ、と言っているのだ。

無茶な話である。

そもそも彼にとって戻す戻さないは、無理矢理どうこうする話ではない。

だがこうして提言された以上、実父の満足する答えを導かなくてはならなかった。


ルーナは貴族の中での、自分の立場を恐れている。

それこそが、彼女の糸が切れてしまった原因でもある。

故に本当の意味で休ませるには、貴族社会から離れた場所でなくてはならない。

そこで一つの案を、シャルアは考え付く。

国内には、王族や貴族単位で管理している図書館なるものがある。

書籍、特に歴史書は非常に貴重な品だ。

上流階級の者が管理するのは当然とも言えるし、彼もその事実は知っていた。

そんな中で、唯一一般向けに開放している館がある。

お伽話と言った、歴史的には価値の低い童話や小説を集めている小さな場所だ。

そこの司書をしてみてはどうか、と彼は思い付いたのだ。

ルーナは書物に関しては依然と変わりなく、並々ならぬ関心がある。

貴族から離れ、かつ彼女の望むものがある最適の場所だ。

ただ、司書の資格は上流階級の者が認めた人物に限られる。

実父に頼まなければ、どうにもならない話ではあった。


司書にするまでの道のりは中々に困難だった。

無理難題を言う父を説き伏せようと、周囲の人も巻き込んだ。

一人で解決できる話ではないことを、分かっていたからだ。

ヴァルド達にも協力を依頼し、挙句の果てには、父と殴り合いになりかねない状況にもなった。

それでも何度も頭を下げるなどした結果、向こうが先に根負けする。

息子のルーナを思う気持ちに多少なりとも、理解を示したのかもしれない。

3か月だけという猶予を条件に、父の手回しによって、ルーナは都市から離れた図書館の司書となった。


訪問当日、本当に大丈夫なのかと館長は心配していたが、問題ないとシャルアは即答した。

彼女が不安定になるのは、他人からの期待の目、監視の目がある時だけだった。

取りあえず館長には、普通の少女として接してくれと念を押しておく。

図書館に連れてこられたルーナは、物珍しそうに周囲を見回していた。

ここに来る前に司書としての話はしていたので、シャルアは彼女に簡単な仕事を任せる。

失敗したとしても問題はない、棚にある本を整頓するという作業だ。

すると彼女は、あっという間にその仕事を終わらせた。

数日経つ頃には、それぞれの本がどの位置にあるのか、完璧に把握していた。

館長も驚く中、シャルアはそこに光明を見た。

ルーナと共に本の管理を行いつつ、やりたいようにやらせてみる。

ただ彼女にとっては簡単すぎるものだったようで、暇な時間で館内の本を読み漁るようになった。

カウンターの椅子に座ったまま、必要な時以外は殆ど動かずに黙々と読み続ける。

ドレスを纏ったその姿は、一見ただの人形のようにも見えなくもない。

するとその光景に興味を持った町の子供たちが、彼女の傍に近づいて来るようになった。

貴族の出身でもない、純粋な子供の視線に対して、ルーナは穏やかだった。


「ねぇねぇ、なに読んでるの?」

「おとぎばなし、よ」

「おもしろい?」

「うん。よんでみる?」

「んー、でも文字読めないし……」

「……かわりに、よんでもいいけど?」

「ホント? じゃあ、聞く!」


町の子供達には、文字が分からない者も多い。

本を読めないがために館に近づかなかった彼らに、ルーナは読み聞かせを行った。

本という高級品かつ馴染みのなかったお伽話は、子供達にとっては新鮮に映ったようだった。

そんな光景が続くうちに、次第に子供の数が増えていく。

人通りの少なかった館の周りには、和気藹々とした声が聞こえるようになった。

金も貰わずに話を聞かせるのは如何なものか。

小言を並べる館長には、シャルアが金を握らせて黙らせておく。

裏の事情を知らないルーナは、毎晩楽しそうに彼に問う。


「シャルア、あしたはあの子たちに、何をきかせてあげよう?」

「俺が選んで良いのか?」

「うん。きっと、みんな喜ぶわ」


数ある物語の中から、二人で選び抜く。

既に彼女には、言い知れぬ恐怖を感じていた頃の面影はない。

いつしか、周囲の認識も変わっていく。

悪魔に憑りつかれた魔女ではなく、本を携えて子供たちに語り継ぐ心優しい少女として。

3か月が経ち、様子を見に来た実父の従者がシャルアに尋ねる。


「シャルア殿、彼女は元に戻っているのでは? この様子ならば、司書の延長は確実……いや、フロイア家の令嬢として舞い戻る可能性も……」

「どっちでも良いんです」

「え?」

「戻っていても、戻っていなくても、何も変わりませんよ」


今もこれからも、このままで良い。

シャルアは、子供たちに笑いかけながらこちらに手を振るルーナを見て、そう言うのだった。

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