魔女の「ハートさん」は亜空間を創り出す
「走って帰る」というのは、帰納紗々太から見た疾玖原うづきのイメージを壊さない形で逃げて帰る口実だった。
私は走った。
足の捻挫なんて嘘だ。きっと走る姿を紗々太に見られているけれど、まぁ、どっちにしろ明日以降の【本物の私】の方は陸上の練習を続けるだろうから、別にばれたってかまわない。
見上げるでもなく、遠くの空が紫色になって、そして明るい1等星が光っている。
何とも思わなかったそれが、今は見るだけで胸を締め付ける。
帰納紗々太は……星が怖い。
幼馴染がその日に自分のせいで死んだと思ったから?
好奇心で探ろうとしたものは、決して覗いてはいけないもの__ではなかった。
それどころか。自分も一緒に背負うべき過去だった。自分と紗々太の違いなど、目の前で夜道が落ちるところを見たかどうか、その一点だけで、「元気出してよ」なんてまるで他人事でここまで来てしまった私は最低かもしれない。でも、分からない。
10年間は今更引き返せる年月ではないし、取り返しもつかない。
振りかえろうにもとっくに記憶は抜けていて、あの日の私はここに居ないのだ。
「私達で背負うべき過去だったのに、それに向き合っていたのは紗々太だけだったんだ。そんなの、そんなのって__っ」
ぎゅっと目を瞑ってしまった瞬間があったのだろう。
全く気が付かないうちに目の前に何かがあって、私の身体は『ぼふっ』と何かに衝突した。
「はっ!あ、ごめんなさ__」
鼻先に当たった感触が柔らかかったので、顔をあげてとっさに謝る。しかしぐいっと頭を掴まれ、そのままぐしゃぐしゃと髪を乱された。
「__っ!?」
「いやぁははは、昨日ぶりだよね、走る少女!」
「…………あのっ」
「はーい、私が満足するまでそのままで大人しくしていてねー?わーってか女子高生のあたま、ちっちゃーい!わしゃー」
「…………」
されるがままだ。
猫のような声を出しながら私をわしゃわしゃと撫でまわすのは、大きな三角帽をかぶった【魔女】だった。
「あ、あのー、きのうの魔女さんっですよね?」
「やだなぁ、私のことはハートさんと呼んでっていったじゃないか」
彼女を一目でも見れば、誰でも魔女と言うほかにない。大きな三角帽子は深いブルーでおしゃれに斜めにずらしていて、宇宙のようなものが渦巻いた水晶つきの杖を片手に持っている。ピンク色の髪の毛には、それも魔法の力なのか、白い花と細い蔦が髪飾りのように編み込まれていて、手首と手足には何やらきらきらと光る、細いアクセサリーのような鎖が巻かれていた。
「はーとさん」
「うん、ハートさんだね!」
つい、その青い帽子の高さから見上げてしまうけれど、【ハートさん】の身長はだいたい自分と同じくらいだ。外見も、なんとなく癖のある古めかしい口調の割にはほんの数歳年上の、少女以上大人のお姉さん未満といったところだ。ちなみに、年上っぽいと思ったのは、顔つきというよりも体系のせいだったりする。たぶんむちむちというやつなんだと思う。
さっきぶつかったのもきっと、大きな胸のクッションだ。
あそこを枕にできたらきっと人として終わってしまうに違いない。
「ここで何をしているんですか?こんな人通りの多い……あれ」
はたと、私は違和感に気が付く。
「んー?人通りの多い、なにかな?」
「いや、あの……」
人通りの多い駅前で何を、そんな目立つ格好で__と言おうと思ったのだけれど。
まず、空気が動いていないという違和感を感じた。
まるで夢のようで、現実感のない、生きていない空間。
周囲には誰もいない。
偶然……ではないだろう。
改札の中まで覗けるこの位置、駅前のロータリー。
「一人も人が……いない……?」
「にーはははぁ」
きょろきょろとあたりを見回していたら、愉快そうな笑い声が聞こえた。
「走る少女ちゃん。私は魔法使いだよ?ほんのちょっと私達の為に亜空間を作るくらい簡単なのだよ」
ピンク色の髪を揺らして、その奥の金の瞳をきらりと鋭利に光らせて、ハートさんは笑った。
私はもう一度周囲の様子を観察した。人が居ない。それだけでなく、時間まで止まっている。
信号は青のまま。
紫色の空に、一番星が一つ。瞬いていたはずなのに、ちかちかともしない。
「にははっ、昨日は貴方を助けただけでお別れだったからね、改めていろいろ説明しようと思ったんだぁ」
そう、道路のど真ん中に座り込みながらハートさんは言った。
長く青いローブから白い足と、おへそがちらりと覗いた。
__昨日、そうだ。
この魔女に会ってから、私の日常は変わった。
昨日、放課後の部活帰り。
陸上部の同期と別れて一人で歩いていた十字路で、私は突然__【影】に襲われた。
それがどのような姿をしていてどのような存在だったのかは分からない。ただ、ふと振り返った時の姿__二つの目と、大きな口が開いていたことは覚えている。それ以外は__深い穴を覗き込んだように真っ黒、あるいは真っ暗でだった。
私はひたすら走って逃げた。商店街を抜け、駅のロータリーを超え、学校の方へ走った。それでも相手は人間ではない。いよいよ走る力も限界かと思われたときに、後ろから閃光が迸った。まるで魔法のような光が、影を花びらに変えた。そして呆気に取られて腰を抜かしかけた私の手を引き、「こっちだよ」と逃げ道を教えてくれたのが、彼女_ハートさんなのだ。
__なんて現実なのだろう。ここはファンタジー世界ですか?
思い出すだけで頭が痛くなるような記憶だったけれど、昨日の出来事は紛れもなく現実だった。その時にできてしまった擦り傷がまだ膝に残っている。
「……あの、あらためて昨日は、ありがとうございました」
「うーん……訳あってその感謝はうけとれないんだね、ごめんね。とりあえず座って座って」
私は言われるままに、車の通らない道路の真ん中にスポーツバッグを置いて、その上に腰を掛けた。
「……訳ってどういうことですか?」
苦笑するように手をひらひらと振られ、私は首を傾げた。
不思議なことは山ほどあるけれど、「感謝を受け取れない」というのは、どういう意味なのだろう?
「まず、認識の擦り合わせね」と、ハートさんは額に手を当てた。困っているようだった。
「貴方は今、【自分が分裂してしまった】と思ってるでしょ?例えば、この世界でいうと死期の近い人間に見えてしまうというドッペルゲンガーみたいにさ」
「はい」
疑う余地もない。分裂と言うか、倍になったというか。
昨日、ハートさんに手を引かれてすんでのところで【影】から逃れた私は、気が付いたら学校にいた。そして、マネージャーである友人の紅葉ヒトデと二人で帰宅する自分を見てしまったのだ。
「……はぁ、やっぱりそうよね」
「……何か問題が?いや、当然、めっちゃ問題ではあると思うんですけど」
「あのね、状況的にはほとんど貴方の認識で間違いないのよ、走る少女ちゃん。でも、そうなった理由というのがこの場合重要で__つまり__貴方は別の世界から移動してきたのよ」
「べ、べ、べ」
別世界、ということ?
異世界、ということ?
「それにしても、私、全然、ここが違う世界だって思えないんですけれど……」
「ええ。それくらいの違いなんだもの。無限に広がるパラレルワールド。その一枝から来てしまったのね、君は」
「……じゃあ、元の世界に戻ればいいってことですか?」
これだけ違いを感じない世界なのだから、戻れたら解決なのではないだろうか。
多少、自分が二人いることを24時間ほど楽しみはしたけれど、流石に家にも帰れないというのは不便だ。
「…………」
しかし、ハートさんは俯き首を振った。
「走る少女ちゃん」
「…………はい」
「貴方は、あの世界の唯一の生き残りなのよ。他の人はみんな、あの【影】に喰われてしまったわ」